燻製番長「渡部洋」のブログ

誰が呼んだか「燻製番長」
誰のものでもない、燻されて熟成した自分の人生を生きていきたね~。


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前回の続き・・・

同じく外国航路の船乗りで、しかし父とは違う会社で働いていた叔父。
父とは異なる休みの期間に昼間から度々やってきて、ウィスキー片手に我が家の居間に座り込んでいた。
当時はただ酒が飲みたくてうちに来ていたのかと、ややいぶかしげに感じていたが、今思えば、父のいない間の我が家を憂いての優しさだったのかもしれない。

その叔父もやはり50代の若さで亡くなった。

病床にお見舞いに行ったとき、もともと痩せていた体は骨と皮だけになっていた。
当時小学生だった僕には正面からはまともに見れないほどショッキングな姿で、それでもむりやり笑顔を作って僕の名前を呼んでくれた事を今でも覚えている。
数か月間の入院のあと、亡くなる直前にウィスキーをひと口なめ、「うまいなぁ」と最期の言葉を残して旅立ったと記憶している。

叔父の死は、「死」が訪れる事を覚悟できる期間があったので、子どもの僕にさえ悲しさは淡々と訪れ、ある意味「純粋に」受け入れることができたのかもしれない。

それ以降、僕は父が家で昼間から酒を飲んでいる姿に、それまで感じていなかった「嫌悪感」を感じるようになっていた。
露骨に嫌な顔をして不快な思いをさせたこともあった。

僕も同じように娘たちから嫌な顔をされるようになった今、その悲しさを父も感じていたんだと思うと少し申し訳なく思う。

10代の多感な時期に僕が感じていた「嫌悪感」はやがて「気まずさ」となり、成長とともにいつからか会話もなくなり、父との関係は日に日にドライなものになっていった・・・。

中学、高校時代は日々野球に明け暮れたが、心は乾いていて、ともすればひび割れそうな表面の薄皮1枚。汗と涙が弾力を保つ役割を果たしてくれていた。
生活の半分以上を野球に費やしたおかげでグレる暇さえなかった10代の青い時代は過ぎていった。

この青い期間、果たして僕は父と何を話していたのか・・・。そもそも同じ時間を過ごしていたのか・・・。何も思い出せない。
父と息子にそもそも言葉なんて必要ないのかもしれないが、それまで父と子を繋ぐ唯一のツールであったキャッチボールさえもすることはなくなっていた。

お互いに不器用で面と向かって話が出来なかったせいもあり、大学に進んで野球をやめてしまった僕に父は船上から何通かのエアメールを送ってきた。
野球を続けて欲しかった思いと同時に、たばこを吸い始めたことを知った父が同封していたのはZIPPO。すでに他のZIPPOを使っていたのでそれを使うことはあまりなかったが。

エアメールには何か印象的な言葉を書いてくれていた気がするが、そのZIPPOと一緒にどこかの時代に置き忘れてしまった。

続く・・・。
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 (前回の続き・・・)

1時間ほどで金縛りからは解放され、そのまま深い眠りについた。

 この金縛りの中で現れた青いつなぎの男性の記憶が無くなりつつあったある日突然、父の死を聞いた。

 翌日の始発で帰った実家。

 父の遺体と一緒に置いてあったのは青いつなぎ。
「倒れられた時に着ていた作業服です。いつも船上ではこれを着て仕事をされていました。」
父の同僚が涙ながらに話してくれた。
助けられなくて申し訳ないと。

そこで初めてあの時ベランダに立っていたのは父だったんだと、僕も初めて涙がこぼれた。
 どうして会いに行かなかったのか。
 何故会えなかったのか。

47才という若さで逝った父。
今年、僕も同じ47才を迎える。

この間28年、四半世紀はあっという間に過ぎた。僕は就職し、結婚しそして父になった。

一方で、本当の意味で父の死を僕は受け入れていなかった。
受け入れるどころか、父が本来ならその後生きていたであろう人生を代わりに生きようとしていた。


父はいつもプライベートではジーンズを履いていた。

身長185センチ、スマートで、同世代の近所のおじさんたちに比べて圧倒的にカッコ良かったし、昭和の映画スター並に、外出する時はRay-Ban でキメていた。

日本酒が大好きで、家にいる時は毎晩一升瓶を抱えて豪快に呑んでいた。
外国航路の船員だったので、帰って来る時は世界中のウィスキーやブランデーを何ケースも買って来ては近所に配っていた。

ジョニ黒(ジョニーウォーカー黒ラベル)のケースを今でも覚えている。
僕が初めて知ったブレンデッドのスコッチウイスキーだ。

いつも集団の真ん中にいて、後輩の面倒見も良く、皆に親しまれていた一方で、ケンカっ早い面もあった・・らしい。

亡くなった時、そのあまりの突然の死に、「死ぬ時もカッコよかったな。」と言った知人もいた。

「カッコ良かった」自慢の父。
けどそんな事は息子からしてみればそんなに意味の無い事。

3ヵ月間の休みを終えると、また遠くへ行ってしまう"淋しさ"は、成長と共にやがて"気まずさ"に変わっていた。

(続く。)
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 今年の3月で47歳になる僕は、この年までは生きられないだろうと漠然と思っていた・・・。
 

 自分の意思を押し殺し、または意思を持たずに、周りの流れに合わせることの中に存在していた自分の人生が、10年前の心臓の手術をきっかけに、【生き急ぐ生き方=色々考える前に一歩を踏み出すこと。】それが自分の人生を生きることだと、死をすぐ隣に意識する事で、そう変わらざるを得なかったんだと思い込んでいた。
 
しかし、最近になってそれが本来の自分の性格なんだと気が付いた。

 
結果的にその生き方が自分にもたらしているものは「破滅願望」や「彷徨」であって、その"甘え"の中に身を置くことで、なぜか慰められているかのような、甘美な感覚を覚えてしまうのはなぜだろうか。

 それは同時に自分の内側の闇の深さを自覚させるものでもあり、それを他人に見抜かれてしまう事の怖さと同時に悦びすら感じてしまうこともある。


 そこに自分の本質があるんだろう。


生き急ぐ事、時にそれは自分本意と自己満足を写し出し、気が付いたときには周りを置き去りにして自分のみが突っ走っていて、だからといって引き返せない状況を自ら生み出している。



 外国航路の船乗りで1年の6分の5は船の上、2ヶ月ほどを家で過ごしていた父。

 47歳で突然逝ってしまった。

 僕はまだ19歳で、アルバイトをしていた大阪のスナックに突然かかってきた親戚からの電話で唐突に父の死を告げられた。
 
 最後に父に会ったのがいつだったのか、正確には思い出せないが、僕が大阪へ向かう特急列車を母と一緒に見送ってくれた姿は覚えている。
 僕はそっけなく、手を振る事すらしなかったような気がする。


 実は亡くなる一週間前、父の乗ったコンテナ船が大阪港に入港していて、僕に会いたがってらしいと、人伝いに聞いた。


 ただ、僕はその時に不思議な体験をしている。
 スナックのアルバイトから帰ってきた明け方、ワンルームの床に倒れ込むと同時に金縛りに襲われた・・。

 身体は動かないが、意識の中で僕は立ち上がり、一階のベランダに立っている。
商店街の中にあるアパート。周囲は全て建物で塞がれていて、人が入ってくる事は出来ない。
 
 何故かそこに青いツナギを着た男性が立っている。顔はハッキリしないが、大柄でスマートな男性だった。

 そこで目が覚め、その時は"変な夢"くらいにしか感じていなかった。

 後日、父が船の上で倒れた時に着ていたのは、「青いツナギ」だったと聞き、愕然とした。

 よほど僕に会いたかったんだなと思うと同時に、何故僕は会いに行かなかったのか。

《続く。》
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