ブラジルのリベルダージ-2/2 | penのフランス語日記

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「虎と小鳥のフランス日記」でフランス語を学習中のpenの日記。独学です。トリュフォーの映画を字幕なしで楽しむのが目標。フランス語とフランス全般の情報を楽しくご紹介。初心者むけの文法、語彙、ディクテなどの学習法、フランス映画、フレンチポップスの話題もあり。

こんにちは。penです。ブラジル、サンパウロの「リベルダージ」地区にある日本人街について、その2です。

photo:Maneki Neko by Tony Gálvez


きょうはブラジルにおける日系移民の歴史を見てみました。

前回のブラジルの歴史を見ればわかるように、ブラジルにはポルトガルから大量に移民が入り、また労働力として連れてこられた黒人奴隷も移民です。ほかにも労働力としてヨーロッパから移民がたくさん入りました。

1905年より日本からの移民開始(移民は家族単位)。ちなみになぜ移民するかというと、そのころの日本の農村はとても貧しく生きていけないからです。ブラジル政府は、奴隷制廃止でまかえなくなった労働力が欲しかったので、はじめは労働は過酷、待遇もひじょうに悪く、コーヒー農園から夜逃げする人が多かったです。

しかし自作農となり、日本人の移民同士で協力し資金を出しあい、組合も作り成功します。日本人は勤勉ですから、知恵を出しあい、それこそすごく働いたんじゃないでしょうか。

コーヒーの価格が暴落したあとも、綿、胡椒、お茶、ジャガイモに転換する人もいてがんばる。現在ブラジルで栽培されている農産物の多くは、日系移民が持ち込み、品種改良を重ねて、ブラジルの赤土でも栽培できるようにしたものだそうです。

サンパウロに日系移民むけのお店、工場、お医者さんなども登場。このようにして日系移民は成功し、定住化します。

このあと、第二次世界大戦があり、アメリカにおける日系人は強制収容がありましたが、ブラジルではそこまでの迫害はなく、戦争景気で羽振りのよかった日系移民もいたそうです。

photo:Liberdade (Freedom) by Marcio Cabral de Moura


第二次大戦後は政府により移民支援策があり、さらに移民。この頃の移民は恵まれた環境からスタートできたので、日系人の多くはブラジル一般社会で成功します。みな勤勉だし、教育に重きをおく文化風土があるので、たくさんの日系人が大学を卒業しました。

ブラジルはラテンアメリカなので、基本的に日本人のような「勤勉が美徳」という文化ではないんでしょうね。

さて、ここまで書いてようやくリベルダージが登場します。


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この頃、サンパウロ市中心部のリベルダージというところに日本映画専門の映画館がオープンし、多くの日本人や日系人がこのあたりに移リ住み、日本人街として発展します。

1950年代以降、たくさんの日本企業がブラジルに進出。駐在員の数が増えます。しかし、日本社会が豊かになったので、ブラジルに移民する人は減少。

現在は1950年以降にブラジルで生まれた日系人が活躍する社会です。彼らはもう日本人ではなく、ブラジル人なので、このあたりは昔は日本語が通じたらしいですが、今はポルトガル語の街です。


photo:Liberdade, São Paulo by Tony Gálvez



リベルダージはかつては日本人街と呼ばれましたが、近年、韓国や中国からの移民が多いので、今は東洋人街と呼ばれているそうです。


※ちなみに地名のリベルダージはポルトガル語のLiberdadeで自由という意味だそうです。このあたりは奴隷制があった時に、刑場があり犯罪者や奴隷が処刑される場所でした。処刑されることによって、囚われていることや奴隷として働かされている束縛から逃れられる、それが自由だ、という意味だそうです。


※ソースは
日系ブラジル人 - Wikipedia引用元: 日系ブラジル人 - Wikipedia
です。