夜と煙とアルコールと…
Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

原子爆弾

みなさんはマンハッタン計画を御存じでしょうか?
第二次世界大戦中、ナチスドイツが核兵器開発中という情報を得たアメリカが、ユダヤ系科学者の協力のもと、ルーズベルト大統領の下、核兵器開発を進めた計画です。1945年7月には核兵器開発に成功し、原子爆弾の実験にも成功。その頃、日本は平和的解決を模索し、連合国側に平和会談を申込んでいました。
しかし、核兵器実験を望んでいたアメリカは8月6日広島に原爆を落し、3日後には長崎に原爆を投下したのです。
アメリカは広島にはウラニウム型を長崎にはプラトニウム型を投下し、2つの原爆の殺傷能力の人体実験を行ないました。
その証拠に、終戦直後の1945年9月、日本に進駐してきた米陸軍報道班は当時貴重品であったカラーフィルムを惜しげもなく使って被爆地の様子を記録したのです。
占領軍は当時被爆者の治療に当たっていた陸軍病院宇品分院を強制閉鎖。米軍はB―17を特別機として外国人による被爆地取材ツアーを組み、メディアを監視下に置いて厳しい報道管制をしきました。そんな中、単身で広島に入ったオーストリア人記者は放射能障害により次々と死んで行く被爆者の惨状を世界に打診したのです。米軍のファーレル准将は「広島、長崎で死ぬべき被爆者は全員死んだ。原爆で苦しんでいる被爆者は現在一人もいない」と発表して翌日から被爆地の単独取材を禁止する為に外国人特派員を横浜郊外に隔離し、広島と長崎への立ち入りを禁止しました。


こうして、広島と長崎は内外から隔離されました。この隔離された状態で被爆者は何の救護もなく、次々と亡くなられていきます。9月に入っても両県合計で数十万人もの方が亡くなられています。アメリカが報道されるのを一番恐れたのはこの事実であったでしょう。
アメリカが使用した原爆の効果は使用した者が思った以上の惨劇をもたらし、又、放射能がもたらす後遺症は死の連鎖をもたらしました。この事実は国際法違反のはずなのですが…
又、アメリカは原爆が人体にどういう影響をもたらすのか?という調査もしており、被爆者の観察や臓器の摘出等を行ないましたが、治療行為はしなかったと聞いています。(治療したら被爆経過観察ができない為)

あきれた行為ですが、アメリカは今、日本が最も頼りにしている国で、同盟関係はかなり良好です。
ただ、裏が多い国なので常に注意深く構えないといけないでしょう。

最後に、原爆を投下する前のアメリカ首脳の言葉で締めたいと思います。

「砂漠の島のような所で実演をしない事が戦争を終わらせるようだ。いつ、何処に原爆を使用するかという最後の選択は私に任された。私は原爆を兵器と見なし、それを使用すべき事に疑問すら持たなかった。軍の最高司令官がそれを使うよう勧めた」…
↑ハリートルーマン大統領(原爆使用を認めた人で、水爆製造にゴーサインも出した)
「広島・長崎にこの野蛮な兵器を使う事は、日本に対しての戦争になんの物質的援助にもならない、というのが私の意見である。日本は既に敗北しており、海の封鎖と複合した兵器での爆撃によって既に降伏しようとしている」…
↑アドミラル・ラヒー アメリカ軍事顧問


広島・長崎に投下されて以降、核爆発を伴う核兵器は戦争で使用されていません。(劣化ウラン弾は使用されている)
それがどういう意味を持つのか、皆さんも考えてみましょう…
平和は尊いものです。

チェルノブイリ原子力発電所事故③

(初めての方はチェルノブイリ原子力発電所事故、②を参照願います)

ボタンを押した理由は様々言われていますが、急激な出力増加を食い止める為というのが一般的です。
制御棒の先端は空洞となっており、その空洞が冷却材となり一時的とはいえ置き換わってしまい、結果、原子炉の反応率は増加してしまいます。
増加した出力エネルギーにより制御棒を抜差する為に必要な装置が変形してしまい、制御棒は原子炉に1/3しか入らず途中で止まってしまいます。
こうなると、原子炉は暴走し始め、出力は30GW(定格出力の約10倍)になり、1:24に蒸気爆発が起こりました。
そして、原子炉の蓋(1000t)が変形して酸素が大量に流れ込み、火災が発生した、合わせて、核爆発も起こり(広島に投下された原子力爆弾の約500倍の放射能量と推定されている)放射能を付近に撒き散らしました。


事故が起こった後、現場の放射線レベルは約20000レントゲン/hでした。致死量が500レントゲン/hであるといいますから、直に浴びれば即死する量です。しかし、事故現場である原子炉内の放射線計測器は壊れているものか、計測可能な量が微量な物しかなく、作業員たちは原子炉は放射線に汚染されていないと勝手に判断し、朝まで原子炉復旧を試みました。(しかし、作業員のほぼ全員が事故後2~3週間以内に死亡した。原因は放射線障害。作業員は保護服を着用していなかった。)

こうして、放射能は近辺を汚染していきます。
しかし、この事故をソ連は発表しようとせず、ひた隠ししようとしたのです。しかし、スウェーデンの原子力発電所の作業員の服から放射能が付着しているのが判明、スウェーデンによる放射能物質の捜査により、スウェーデン国内のものでなく、国外、それも西側からきていると判明し、そこから判明しました。
チェルノブイリ4号炉は放射能漏れを防ぐ為、建屋ごとコンクリートで囲み固めました。これが俗に「石棺」と言われるものです。しかし、事故後20年以上経過し、老朽化が進んでおり、今も放射能が漏れ続けています。

チェルノブイリ原子力発電所事故②(再掲載)

(初めての方は前回のブログを見てから読んでください)

実験はその状態でスタートしました。まず実験する時の出力値にする為(実験開始時よりも低くする必要あり)制御棒を再び挿入していきました。
それにより、原子炉の出力は一時期30Mワットまで落ち込みました。
低下しすぎたにも関わらず、実験は継続され、しかも、出力を30Mワットから200Mワットまで引揚げる事にし、安全規定で許されていない事を行いました。抜いてはならない制御棒を抜いて出力を上げる事にしたのです。
実験は非常用発電機が冷却水ポンプを外部からの給電がストップした場合にうまく稼動するか?の実験でした。実験スケジュールは4号炉の力で非常用発電機を動かしてその後切離し、惰性で冷却水ポンプを動かす、というものでした。
その為、前出の原子炉出力調整と平行して非常用発電機に冷却水ポンプをつなぎ、起動していました。しかし、これによってできた水の流れが原子炉の中性子を吸収してしまいます。
操作員は出力維持の為、手動用制御棒を引き抜きました。
これより、危機は着々と進んで行きます。非常用発電機が4号炉に接続されて冷却水ポンプを回している状態は良かったのですが、実験の為、4号炉と非常用発電機を切離し、惰性にて冷却水ポンプを回し始めると、水の流れも弱くなり、水の中性子吸収量も少なくなります。
冷却する媒体が原子炉の熱で熱くなると、冷却配管内は気圧が上昇します。
ですが、炉の出力は安定しており、制御盤上では何の異常もなかったのです。
そして最悪の行動が取られます。アキーモフという操作班長がAZ-5と呼ばれる、制御棒を一斉挿入するボタンを押してしまいます。(またまた続く)

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>