どうも、映画泥棒です。
今日は、お笑い芸人のみなさんに集まってもらいましたが、最近はみなさんのようなお笑い芸人の方が映画を撮られるようになってきてまして、まあ中には光るもの持ってる人もいるんですけど
基本、クソつまらない映画ばっかりなんでこっちとしてもまったく盗む気が起きません。
そこで今日は映画における「笑い」について学んでもらえたらと思います。
まず、最初に言っておきますとね
映画って、コントじゃねーんだわ。
コントというのは、「医者」だったり「コンビニ」だったり、ある場面の設定があって、それを崩すことで笑いを生みますよね。
つまり、場面の設定がしっかりしていれば、その中ではある程度何やっても許されるのがコントです。
しかし、映画は「人物」を描きます。
だから、その人物の性格によって場面場面における「行動」が規定されてくるわけです。
少なくともその行動には、その人物としてのリアリティがないといけない。
しかし、お笑いの人たちは「映画=コントの連続」だという勘違いをしているので、同じ人物なのにAの場面とBの場面の行動が全然違っているというか、その場の思いつきで行動させてしまっている。
しかも、そういうリアリティの無い人物が突然ラストで泣かせようとしてくるものだからサブいことこの上ありません。
でも、もし、お笑い芸人監督の中に、
「自分みたいな素人は映画を撮ることはできない。コント師である以上、コントを撮ろう」
と謙虚な姿勢で考える人がいたなら、話は変わってくるのです。
たとえばモンティ・パイソンが撮った最後の映画
「人生狂騒曲」
カンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞していますが、
モンティ・パイソンはこの映画で
7つのまったく別のエピソード(コント)を入れ、
かつ、映画の前後に「人生とは何か?」という挿入歌を流し
ばらばらのコントに一つの連なりを持つように見せました。
でも、実際は、7つの別の場面コントを作っただけです。
この「構造」、何かに近くありませんか?
そうです。
「お笑い芸人の単独ライブ」
です。
全体を貫く(薄い)テーマになぞらえながら、
まったく別の場面、違う登場人物を「同じ人」が演じる。
これこそがコントの「笑い」をお客さんに対して誠実に見せるための形です。
自分の「強み」を把握し、お客さんを喜ばせるために「映画」を撮ろうとしたのなら、まずこの形を検討しなければなりません。
しかし、驚くべきことに、今だ、この形をやっているお笑い芸人監督が一人もいない。
なぜか。
みなさん、映画が撮れると思ってるからなんですね。
なんなら、自分たちのセンスがあれば「映画界に革命が起こせる」と思ってるからね。
起こせませんから。
あなたたちが「新しい」と思ってやってることなんて、
映画の人たち、もうみんな知ってますから。
そりゃそうでしょう。
毎日毎日、映画のことだけを考えて、何十年やってきている人がいる。
それに対して、毎日毎日「コント」を考えてきた人たちにどうして革命が起こせるか。
それができると思うこと自体「思いあがり」以外のなにものでもありません。
しかも、映画を撮るなら撮るで、
実力者に頭を下げて映画の作り方を学びながら進めていくのなら分かるけど
はなっから「自分は映画が撮れる」と思い込んでるから普通に映画撮って「映画とは」みたいなことを語り出す。
本来、「サブい」ことを最も恐れなければならない仕事の人たちのはずが、
映画の内容もサブい、その後のコメントもサブい。
一粒で二度サブいことになってます。
い、いや、ただね、私も批判したいだけでこういうこと言ってるわけじゃないんですよ。
そもそも映画を撮る機会に恵まれているってことはすごいことで、みんな「撮りたい撮りたい」と思っていて撮れないのが映画です。
たからもっと謙虚になってほしいんですよね。
それでもし「笑いをふんだんに取り入れたちゃんとしたコメディが撮りたい」って言う人がいるのだとしたら
次の2本を参考にしてください。
「リトルミスサンシャイン」
「グエムル」
「リトルミスサンシャイン」は、
それぞれのキャラクーが一見、コントを演じているように見えますが、
その人物が言うべき言動、取るべき行動を取っていて観客を冷めさせません。
「コント」と「コメディ」の違いを知る上では格好の材料となるでしょう。
30回くらい見てください。
そして
「グエムル」
これはホラー映画ですが、
「笑い」という点でも大きく評価されている作品です。
グエムルのすごいところは、「リトルミスサンシャイン」のように人物をしっかりと描いていることはもちろん、
ある場面の笑いを「単なるその場しのぎの笑いに終わらせていない」ところがすごいです。
具体的にいうと(ネタバレになりますが)
お父さんが、バカな息子をフォローして
「こいつはイイ奴なんだ。責めないでやってくれ」と他の子どもに語り続けるのですが、お父さんがあんまり語り続けるので聞いている他の子どもたちが寝てしまうという笑いのシーンがあるのですが(お父さんは子どもたちが寝てしまっているのにひたすら語り続けます)、
その後のシーンで
このバカ息子がピストルの弾を数え間違えて、そのせいでお父さんが死んでしまうのです。
「バカ息子について語り過ぎる」場面は、ただの一つの笑いですが、
同時にそこは「父親の息子に対する愛情」を表現しており、
その後の父親が死ぬシーンの感動につながっている。
だから、父親が死ぬシーンは、バカ息子が弾の数を間違えるシーンに笑いながら、父親の愛情の深さに泣くことができるのです。
さらに、
この「息子がピストルの弾を数え間違える」も実は大きな意味があり、
最後のグエムルを倒すシーンで
仲間の一人が「火炎瓶を落としてしまう」シーンがあるのですが、
これが「ピストルの弾を数え間違える」が伏線としてあることで「あ、肝心なときに、またやっちゃった!」ということになり
最初の場面からずっとフリになってきた「アーチェリーを撃つ娘」の予定調和を崩すことに成功しています。
ポン・ジュノがどうやってこの映画を作ったのかは分かりませんが、
たぶん、人物をしっかり作り込んで、彼らのヒューマンドラマに仕上げた上で、笑いをスパイスとしてまぶす、という順序で作っていったはずです。
とにかく、このグエムルには表面上は「笑える場面」なのに、それが後々のカタルシスの伏線になっているという
「一つの場面(笑い)に複数の意味を持たせている」シーンが数多く登場し、
映画泥棒の私としても、こういう映画は盗みがいがあるというものです。
ま、実際この映画盗みまくりましたからね。
ぜひこれらの映画を参考にして日本の映画界を盛り上げていっていただけたらと思います。
それでは今日の講義はこれで終わりたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。