遙かネットの昔話 「三笠山委員会」編(2) | 空飛ぶ栗鼠と星の海(跡地)

遙かネットの昔話 「三笠山委員会」編(2)

■其の二「迷走」
委員会発足後、エニックス関係で懇意にしていた方たちを中心に、少しずつ会員も集まりだしました。
当初は「20人集まればいいほうかな」と思っていたんですが、あれよあれよという間に20人を超えて、さらに増え続けました。
連載が終わってから1年以上も経っていたのに、忘れ去られることなく、いまだ多くのひとに支持されているこのマンガの底力を、つくづく感じたものでした。

1998年から99年にかけての時期は、わたしのネットでの活動のピークでした。
とにかく更新しまくって、書きまくって、曲を作りまくってました。
ネットで何かやってるのが楽しくてしょうがない。そんな感じでした。
まァ、そういう時期だったからこそ、夏センセの「うめ謎を復活させたいなら、その復活の舞台(ギャグ王)も盛り上げていかなければ」という言葉にもすぐ反応して、新サイトを立ち上げることができたんでしょうな。
そんなわけで、今度はネット初のギャグ王専門サイト「ギャグ王振興事業事務局」の誕生となったわけです。

けれども、そうした更新ラッシュの一方、三笠山委員会に関してはほとんど大きな更新を行っていませんでした。
他の更新に熱中するあまり、そっちの活動を忘れていた、というのが実際のところです。
折しもSO2ndが発売して、そのせいで「Evolotion R」の更新が主流になっていましたからね。
会員は順調に増えていたんですが……申し訳なかったです。
わたし個人は楽しかった時期なのだけど、委員会にとっては不遇の時代でしたな。

そんなこんなで停滞気味だったあるとき、サイトに思わぬ来客がありました。
三笠山先生本人です。
これにはさすがに度肝を抜かれました。
そもそも三笠山先生が見ることを想定して作ったコンテンツではないから、勝手にこんなことやって怒られるんじゃないかとヒヤヒヤしてまして。
幸い(?)にも、先生の反応はまずまずだったようで、有難い言葉もいくらか頂戴しました。
一方で、先生の弟さんが委員会に登録して、それを知った先生が解除を申し入れるといった出来事もありましたが、それはまた、別の話。

99年に入ってすぐに、ショッキングな出来事がありました。
ギャグ王の休刊です。
委員会の目標は、再び三笠山先生がギャグ王に戻ってくることだったのですが、その戻るべきギャグ王が、なくなってしまったのです。
ギャグ王事務局は閉鎖して、サイトにかける比重はより一層ERのほうに向けられることになりました。
このまま進展がないなら、委員会もじき止めてしまってもいいかな、と、ぼんやり考えるようになりました。

そんな折に、三笠山先生がサイトを立ち上げました。
言わずと知れた「うめじゅく」です。
たちまちファンが押し寄せて、掲示板も大いに賑わいました。
わたしはその頃には、他のサイトで書き込みをする習慣がなくなっていた(というか、自分のサイトの掲示板を巡回するので手いっぱいだった)ので、うめじゅくにもほとんど書き込みはしませんでした。
そのせいもあったんでしょうな、先生のサイトを訪れるひとたちとわたしとの間に、なんとなく「距離」のようなものを感じてしまったのは。
ネット上の別の場所――三笠山先生自身が動かしているサイトで、「うめ謎の好きなひとたち」のコミュニティができている。
わたしの入り込む余地は、既にそこにはないと感じました。

コミュニケーションの場としての「三笠山委員会」は、もはや存在意義を失っていた。
それなら、最後に委員会でしかできないことをやって、それできっぱり終わらせよう。
わたしはそう決心しました。

委員会でしかできないこと。
それが、愛蔵版発行の嘆願署名でした。
自分のサイトやうめじゅくでも呼びかけて、会員内外を問わず署名を募りました。
そうして集まった79人のリストを添付して、エニックスの飯田氏(ガンガン編集長・当時)宛に「上申書」を送りました。
そのときに書いた内容がこちら
なんつうか、改めて読むとかなり痛い内容なのがアレですが。
自分の普段書いている文章と、かしこまった場合の文体とが中途半端に入り混じった結果、こんな変な文章になってしまった気がします……。

なんにせよ、やることはやって、後は返事を待つばかりでした。
たとえそれが「YES」でも「NO」でも、回答があった時点で三笠山委員会は終わらせるつもりでした。
しかし、いつまで待っても答えは返ってきませんでした。