亀戸駅からスタート。

第四十番札所、普門院
家康入国以前の戦国時代の大永2年に浅草の石浜に創建され、当初は観音菩薩を本尊とし、疫病流行の折に霊験があったと伝わる。
江戸の初めの元和2年、亀戸村の現在地に移り、慶安2年には幕府から御朱印地五石が与えられた。
現在の本尊は大日如来。
墓地には、小説「野菊の墓」で知られる伊藤左千夫の墓がある。
お正月には「亀戸七福神の毘沙門天の寺」として賑わうそうだか、工事中で全体的に閑散としていました。






第七十三番札所、東覚寺
門前には「大山同木同作 不動明王」と彫られた、天保2年銘の石柱が立っている。
戦国時代の享祿4年に明王山の山号で創建され、本尊は奈良時代の良弁作と伝わる不動明王で、良弁開基の相州(神奈川県)雨降山大仙寺の不動尊と同じ木から作られたという。
江戸時代は「盗難除け不動」の伝承もあり、今は「亀戸不動」の名でしられる。
明治41年、本所本村町にあった開創期の札所・法號山覚王寺を合併したことから、現在の山号・寺号に改め、大日如来を本尊として祀るようになった。
「亀戸七福神の弁財天の寺」として、こちらもお正月には七福神巡りで賑わうそうだ。
朱印・納経をしていただく時、初めて真言を唱えて頂きました。お若い僧でした、有り難うございます。




両国へ移動。

第五十番札所、大徳院
家康が文禄3年、紀州(和歌山県)高野山に祈願寺として建立したのが始まりと伝わる。
江戸時代に移った年代などは未詳だが、貞享元年、南本所元町つづきの現在地に寺地1200坪を与えられたという。のち、門前に町屋をもった。
江戸時代の大徳院は、高野山御仏殿別当の宿院として諸国末寺触頭を務めたというが、明治に一切の公的な役目を返上し、以来「本所一ツ目のお薬師様」として東京市民の信仰を集めた。
大正の震災、昭和の大空襲で堂宇をすべて焼失してしまったが、本尊の薬師三尊像をはじめ、弘法大師や明治天皇の賜衣など、寺宝は難を免れた。
現在は驚くほど近代的なビルに変わっていました…。






隅田川を渡り、東日本橋へ。

第二十三番札所、薬研堀不動院
本尊の不動明王は、興教大師覚鑁(真言宗中興の祖)が平安後期43才の時、無事に厄年を越えた御礼として、一刀三礼して刻んだものという。
長く根来寺に安置されていたが、天正13年、豊臣秀吉が根来寺を焼き討ちした際、大印僧都が葛籠(つづら)に納め、東国へ下った。
そして隅田川のほとりに一宇を建立して不動尊を安置したのが当院の始まりという。
「葛籠不動」と呼ばれるこの本尊は、竹
葛籠に納まる秘仏で、正月の三ヶ日のみ開帳される。
江戸時代には、目黒不動・目白不動とともに「江戸三大不動」と称され、広く信仰を集めた。
また、薬研堀が講談発祥の地とされることから境内には碑があり、定例の講談の会も催されている。
明治25年、川崎大師の東京別院となる。
大正の大震災のため、本堂が倒壊。再建にあたっては、街の再開発のため境内を移転・縮小して現在に至る。
元の札所は市谷田ヶ久保の薬王寺であった。主印領百石、独礼の格式を誇っていたが、明治の初めに廃寺となり札所も移されたが、現在でも市谷薬王寺町の地名が残っている。






馬喰横山駅から森下へ。

第四十六番札所、弥勒寺
慶長15年、小石川鷹匠町(文京区)に創建されたが、寛永10年に馬喰町(中央区)に移り、さらに元禄2年に本所二ツ目の現在地に移転。
江戸時代は新義真言宗の触頭「江戸四箇寺」の一室として御朱印地百石を与えられ、子院を持つなど高い寺格を有した。
御三家の水戸光圀の政策で、領国の常陸(茨城県)の諸宗寺院が迫害を受けることがあった。あるとき薬師如来像が川に流されたが、像は川をさかのぼっていった。後にこの像が弥勒寺に納められ、以来「川上薬師」と呼ばれるようになった。
隣には昭和20年3月10日の東京大空襲で没した3500有余名の納骨堂がある。