ついに彼は介護施設に移って

そして、厳しい面会制限のせいで


お話をすると言う刺激がなくなり

手足も動かしてもらえなくて


せっかく良くなったのに

それ以上良くならない


挙句、介護士の腕のせいで

また痰が詰まって熱が出る


これ…ダメじゃん💦


本来なら9月末に退所して家に帰り

家で介護生活が始まり

リハビリをやって

少しでも動けるようになったら


日本へ移住する!


そんな計画だったのに…


何これ、、、


リハビリは?


え?熱があるからできない?

いや、、もう下がっているし、、、


もうグダグダ…


あぁ…日本に居てくれさえすれば

私がちゃんとやるのに…


かといって、台湾の家族が

ちゃんとやっていないわけではなく


彼らはどうしたら良いのか分からないのです


こちらとしては、もう気が狂いそうで…


そんなある日、、彼の弟から連絡が…


「トムを日本に連れて行くのを、早めて貰えませんか?彼は日本で治療してもらったほうが絶対回復が早いと思うんです。入国のための手伝える事は何でもしますので」


と、真剣なLINEが来た


私は、最初パニックになり

ええええ!!!何?何?

と思ったが


冷静に考えると、これは

決して悪い方向ではなく


むしろ、めちゃくちゃ良い方向で


トムを日本に連れてくることができる!!!


そのために行政書士さんと

少しずつ準備していた事を

一気に進めていくだけ


あー、、、

少しずつでも準備を始めていてよかった!!!


これからが大変だけどね


入管申請の準備

病院探し(リハビリの)

デイサービスさん探し


でも、どうなっているかわからず

毎日ヤキモキしているよりも


自分がすべてコントロールできるのであれば

安心して過ごせるし、何より毎日

自分がみる事が出来、一緒にゴールに向かって

頑張れるのです!!!


これってめちゃくちゃ良い方向じゃないですか!


最初から気づけよって感じ(笑)


10月になりました。


来週台湾に行って

すべての書類の準備をしてきます!


さ!


次のステップに進む時が来た‼️


行くよ‼️



 『トム闘病記録 Part1〜何があったの?〜』お久しぶりのところになってしまいました。6月中旬から始まった悪夢。。夫が倒れて、回復せず…気がつけば、もう7月の半ば6月から始まったその悪夢の話をやっとお話し…リンクameblo.jp


8月に入ってから彼はどんどん変わって行った

親友の名前を言ったり、エアー声だけど

何かを話してくる


その中でも印象的な日が8月15日


友達にお見舞いに行ってもらって

テレビ電話をつないでもらったとき


トムの声も体調も調子が良く

少しの間お話しができた


もちろんエアー声だけど

この日は、比較的

聞き取りやすかった


私は自分の部屋をルームツアーし

「ここはあなたの日本の家だよ、覚えてる?」

と、部屋中を見せて歩いた


音楽室を開けて


「ここには音楽室がある。あなたが少しでも歩けるようになったら、私はあなたを日本に連れて行こうと思っている。日本に行きたいですか?」


と聞いた。

彼の答えは


I will 


だった!


「よし!わかった!じゃあ、あなたの日本行きの準備を始めるね!あなたはリハビリを頑張るんだよ!」


そんな会話が出来た!


そこからわたしは、彼の日本行きのことを

一生懸命考えた。。


いつごろから連れて行けるのだろうか?

行政書士を雇うか?

健康保険はどうなるんだろうか?

障害が残った場合、保険はどうなるんだろうか?


いろんなことを考えた。。


そんな中、、、


家族のグループLINEにまたもや

重苦しくなるようなLINEが、、、


トムの弟の嫁からだ。。


「私たちは彼が倒れてから、一生懸命動きました。ここで私たちの立場をはっきりさせておきたいのですが、お金に関しては一切、負担しませんのでご了承ください」


と。。


いや、、、😅

そんなこと、普通いうか?

これが文化の違い?

台湾人ってみんなそうなの?


台湾人の友人に聞いた。。


「やめてよ〜、、、違うわよ!」


そりゃそうだ。。

国が違えども、相手を思いやる気持ちは

共通なはずだ。。


これは、家族の人もちょっと

疲れてきているんだろうなぁ…

(100歩譲って考えて)


だけど、弟さんはそんなこと一切言わず

いろんなことを、ただただ

黙々と?一生懸命やってくれた。。


ありがたい。

彼には感謝している。。


そんな気持ちもあったので

そろそろ家族の人たちに


私が考えているプランを

言わなければならないと感じた


「トムを日本に連れて行きます。それが全員にとって1番幸せなことだと思います。ただ、今の時点では飛行機に乗せれません。それまでどうか協力してください」


そんな気持ちを彼らに伝えました


すると、、

その気持ちが伝わって


家族の人たちが、トムの動画を送ってくれたり

トムに「日本に行きたいなら頑張れ!」と

声をかけてくれたりするようになった


そこから、私たちは、その目標に向かって

彼の看病を進めていくのでありました


そして、彼は病院から介護施設へ移りました


ところが


8月26日に台湾に行く予定で準備していたら

その2日前に連絡が入りました


トムが熱を出したから

同じ階にある病棟のほうに移します


と。。


どうやら、痰が肺に入って少し溜まっていた様で

それを取り除く治療が始まった


介護施設だったら、面会のリミットがあるが

たまたま、私が行っていた期間は

病院にうつされていたので

面会のリミットがなかった


だから毎日会いに行くことができた。。


それから、9月に入り

熱も下がったので


また、介護施設に移ることになった、


この介護施設…いわゆる老人ホームだ


正常な判断ができる今の彼にとっては

ものすごくショックだったに違いない


仲の悪かったお父さんに


「帰りたい…」と言ったのだ


今まで甘えたようなこと言わなかった彼が

お父さんにそういったので


お父さんは号泣してしまった😭


そして、介護施設では、面会のリミットがあり

しばらくの間は、1ヵ月間…少し寂しい

忍耐の施設入りとなった


今までのようにたくさん

テレビ電話ができなくなり

ものすごく心配の日が続きました


続く




今までのお話






前回のブログでは

MRIの結果を告げられた内容を

書きました。。


脳が3分の2やられてしまい

ある日の夜、トムのお父さんから

家族のグループLINEに連絡が入る


「看護師が、彼は認知症になり

手足も一生動かず、一生ベッドで寝たきりでしょう…

と言ってきた。もう治療を止めて、

自然に亡くなるのを見守りませんか?」


と…


私は、どうしたらいいかわからず

7月の末に台湾に行くので

それまで待ってくださいとしか答えれなかった


7月の頭からその悪夢は始まり

私は、毎日、毎日

泣いてばかりました


何も手につかず、ボーッとしては

突然泣き出したり

自分でも、このままでは

自分自身が壊れてしまうと

感じていました


そんな中で、彼の友達が

ビデオ通話をつなげてくれたり

トムの顔を見ることができました


その時に感じていたことですが


「あれ?これ…大丈夫なんじゃないの?」


なんだかそう思ったことが何度もありました


7月15日あたりに、保険の事などをしに

台湾に行きました


その時にもお見舞いに行きましたが

なんだか、大丈夫な気がしてなりませんでした


しかし、家族からは

お金の圧力や、いろんなプレッシャーをかけられて

私は精神的に崩れそうになりました


「トム…戻ってきて助けてよ…」


言葉の壁と文化の違いで

結構辛い思いをしていました


今だから言いますが


福原愛ちゃんの気持ちがとても分かりました


「トム…助けて…」


そうこうしているうちに

彼は、ICUから

呼吸器病棟に移りました


まだ気管挿管を入れています


私は


「あなたが選んでいいからね」


と言って日本に戻りました

すると…

7月22日、家族のグループLINEに


トムの首が大きく動いた!


と連絡が入った。


さらに…


7月26日に、気管挿管を外します


と連絡が入った!


そしてそれは成功した!


自発呼吸ができるようになったのです!


そこから彼は変わり始めました!


お父さんが「名前を言ってみろ?」

とトムに問いかけると、


彼は名前を言えました!!!


これには家族全員驚いた!


さらに他の家族の名前も言えて

住所まで言えたのです。。


私は7月末にまた台湾に行く予定だったので

7月28日のライブが終わって

次の日速攻、台湾に行きました


そしたら…そしたら…


7月30日…


私の顔を見て


ママ


って呼んでくれたんです


私は号泣しました

だって、、再び私のことを

呼んでくれるなんて…


そして更に更にびっくりしたのが


沖縄旅行の時の写真等を見せたら

なんと、母国語ではなく、英語で


I Remember


と言ったのです‼️


そうです!


7月中旬に、私が彼に言った言葉


「あなたが選んでいいからね」


彼は、生きることを選んでくれた!


生きることを選んだのです!


この時私は覚悟しました!


もう少し彼が回復したら

絶対私は、彼を

日本に連れて行く!!!


もう離れてはいけないんだ!

私たちは一緒になければならない!


そう決めたのでした。。


続く




これまでのブログ内容









前回のお話し



大阪から東京に戻った私はすぐに

パスポートを鞄の中へに入れ

成田空港へと向かう


夜の便で台湾へ…


「空港まで迎えに行くよ」


トムが倒れたホテルに連絡をしてくれていた

トムのミュージシャン仲間が2人迎えに来てくれた


現地時間で23:00着

車に乗って台北市内へと向かう


「お腹すいてない?何か食べないとだめよ」


Eliyaと言う壇蜜に似たきれいな女性が

レストランに行こうと言ってくれた


車を運転してくれていたサックス&キーボード奏者

Linは台北市内に着くやいなや、小籠包の

おいしいお店に連れて行ってくれた


「あぁ…食べ物…ちゃんとお腹に入るわ」


食べながら、涙が出てきた…

ここ…トムの地元だよね…?


もし彼が元気になったら、ここの小籠包屋さん

絶対連れてきてもらおう!!!


そんな少しの希望を胸に…


とりあえず、次の日は病院に行かなければならないので

このままホテルにチェックインし、休むことに。。


翌日…


別のLinさんが病院まで車を出してくれることに

午前中に奥さんと2人でホテルに迎えに来てくれた


このLinさん、実は日本語がとても堪能で

Pモーリアなどでもお世話になったことがある


病院に着くと、お父さんが入り口の

ところで待ってくれていた


爸爸!(パパ)


私は声をかけた。。


実は、お父さんはトムとあまり仲が良くなく

よくトムがお父さんの事、気にしすぎていた


しかし、実際ゆっくり接してみると


よくある、ただの息子が可愛い頑固な昭和親父って

ところでした(笑)彼らの気持ちはすれ違いなだけ


病室の面会時間が来た。。


ICUに入っているトム…


目は開いていたが、すぐに閉じる。。


生きている。。あぁ、、、生きている(T ^ T)✨


もう本当にダメかと思っていたのに

あの状態でよく助かった。。


意識はまだまだ朦朧としているものの

これで大丈夫なんだろうと

すっかり思っていた…


次の日もお見舞いに行きました

この日は、日本語を話せる台湾女性で

トムのお友達のメイちゃんと初めてお会いする


やはりどうしても通訳が必要だったので

会ったことのない彼女にお願いしてきてもらった


トムの弟とも会い、叔父さんやお父さんも

何かとコミニケーション

取らなければならなかったので

本当に助かりました❣️


次の日。。


やはり、日本語を話せる人の助けが必要なので

台湾在住のベーシスト藤井さん(トシさん)に

連絡してみたら来てくれた


やはりこちらもトムのお友達で

今年の6月に台湾での在留カードの取り方などを

電話で教えてもらっていたばかりだった


まさかこんな形で初めましてになるなんて…


なんだかんだと、過ぎて行き


ひとまず日本に戻ることにした。。


ICUに入っているので

まずは安心かな…


そう思っていたんだけど…


MRIの撮影があるとの事。。


まさか、脳が3分の2もやられているとは…


そこから悪夢の始まり…


しかし、人間て強い!

まだまだ、これから

生きなければならない人は

そのような悪夢を


跳ね返し、覆して行くのであった


Part 4に続く









6月19日の昼、トムとテレビ電話で話をしていた


「今日と明日はホテルに泊まることにした。家のベッドが固いから、背中が痛くて眠れない…」


そんなことを言っていたが、実は

5月25日、彼は補正されていない道で

つまずいてしまい、転んで怪我をしてしまいました

 

(のちに分かるのですが

そこから、細菌が入り込み肺炎球菌に侵され

糖尿病が邪魔をして合併症を起こしたのです)


そこから嘔吐が始まり

6月に入ってからはコントロール不能な下痢が始まり


6月6日以降、体の中から何かが攻撃しているような

体全体が痛いと言い始め


近所の病院へ行ったが、何もなく

それでもおかしいので、大きな病院に行った


胃腸科と整形外科…


当然、何もなく

ただ、血液検査はして貰いました


結果は1週間後に出るとのこと…


その1週間の間、彼はもがき苦しんでいました


その苦しみ方が、テレビ電話では

明確に伝わって来なかったこと…

私はとても後悔した


もっと強くもう一度病院に行くことを勧めていれば…


体全体が痛いのに、彼は仕事に出かけたり

友人のお父さんの49日にあたるイベントに出かけたり


とてもとても心配でした


夜な夜な家に着くと、テレビ電話をかけてきて


「手が勝手に震える…」


後に分かりましたが、これは髄膜炎の

痙攣だったのです。。


この痙攣が終わると

次は意識障害が始まります


6月19日、ホテルに着いた彼は

私にホテルの部屋の写真を送ってきました


「こんな部屋に泊まっている。今日はゆっくり寝る」


私は今日はゆっくり寝かしてあげようと思い

毎日続いていた23時30分のテレビ電話は

かけないようにしていた…


当然、彼からもテレビ電話がかかってこなかった


翌朝、6月20日


この日、私は京都へ行かなければなりませんでした


私たちは、毎朝


パパおはよう

ママおはよう


のLINEのやりとりをしていました


この日、私は新幹線の中から


パパおはよう

とLINEをしましたが、返事が返ってきませんでした


ただ、FacebookのMessengerの

既読時間は「何分前にオンライン」

と出ていたので、少し安心していた


ただ、この後もずっと連絡がつかない


電話しても、何度LINEをしても出ない


夜になって、いとことの食事会でしたが

気になって気になって会話にならず


めちゃくちゃ心配をしているところに

トムの今日の仕事場のミュージシャンや

お店の人たちから私に連絡が入った


「トムを知りませんか?彼は仕事をサボる人じゃないのに、今日は時間になっても来ないんです。2日前に調子が悪そうで、心配していたんですが…」


ますます悪い胸騒ぎがしてきました


私じゃ、何もできない…

とにかく中国語しゃべれる友人に頼んでみよう!


ドラムの坂本タケシさんに

電話をしたら出てくれました


事情を話し、先方のミュージシャンに

電話をしてもらいました


私はホテルの名前を聞いていなかったことを後悔した


ただ、手がかりは1つ


台北大使館の近くのリーズナブルなホテル


それだけ…


タケシさんにそれを伝えました


「台湾に大使館はないよ。多分交流協会のことだね」


そして、なにげに私はトムから送ってもらった

部屋の写真を送りました


すると、タケシさんは


「ここじゃないですか?!ほら、部屋の壁の模様が一致します!」


なんと

ホテルを特定してくれたんです!


そして、台湾のミュージシャン仲間に連絡!


仲間たちはすぐにホテルに連絡!


すると、ホテルは


「すみません…プライベートなので部屋を尋ねることができません…」


そんな…


みんな食い下がってしまいました…


「とにかく、翌朝のチェックアウトまで待って、出て来なければ、部屋を覗いてみますね」


そうホテルの人は言いました


私も、そうしなければならないのか…

どうしたらいいか分からなくなりました


すると、タケシさんがとても強く私たちに


「もっと強く言わないとだめです!ホテルだって営業内容に関わることだから、警察でも連れてってホテルに行ける人は行かないと!もっと緊急性を伝えないと!」


すると、現地の人たちは動いてくれました!


警察を連れてホテルに突撃!


ホテルのスタッフもさすがに開けてくれました!


ALIVE‼️


台湾のミュージシャンから私にメッセージが‼️


彼は生きていた‼️


ただ、もう意識はなく…


救急車で運ばれていきました…


私は、次の日の大阪ライブが終わったら

すべてのイベントをキャンセルし

すぐに東京に戻り

パスポートを取りに行って


台湾へと向かいました。。


今見ると、この新幹線から見える富士山が

これから起ころうとしている事を

守ろうとしてくれている


でも、この時は「奇跡」なども

想像すらできなくて


ただ、この富士山が

物悲しげに見えただけだった