「小児がんにかかる確率は、

 

長野県で一年間に生まれる子の中の

 

たった一人がかかるくらいの割合です。」

 

 

 

医師は病状を説明したあと

 

そう付け加えた。

 

 

 

想像できないくらいの確率に

 

(長野県の中の、たったひとりが渓太郎なんだ・・・。)

 

と、意識が遠のく感じがした日から

 

数日後。

 

 

 

 

今度は

 

病理検査の結果を見たこども病院の医師が

 

私に言った。

 

 

 

「渓太郎くんの病気はとても珍しい種類の腫瘍です。

 

東京近郊でも、これまで3例ほどしか症例がありません・・・。」

 

 

 

 

(東京近郊で3例・・・)

 

 

 

 

絶望を超えた意識の中、

 

なんとかその言葉の意味を理解しようとしていると、

 

医師は私をかばうように続けた。

 

 

 

「お母さんのせいではありません。

 

どの子が病気になるのかは誰にも決められないんです・・・」

 

 

 

 

するとその時、ふと湧いてきた心の声。

 

 

 

(渓太郎が病気を引き受けたことで、

 

もしかしたら、多くの子どもたちが助かったのかもしれない・・・)

 

 

 

それは、渓太郎が病気になったことの意味を

 

なんとか見出そうとした心のつぶやき。

 

 

 

 

しかし、その傍らでは

 

(・・・渓太郎だって、生きたいの。)

 

という想いがこみ上げる。

 

 

 

 

 

絶望を超えた意識の中で知った

 

「いのち」が持つふたつの意味。

 

 

 

 

 

どんな人の 「いのち」

 

 

数え切れないほどある 「いのち」 の中のひとつ。

 

 

そして、それと同時に

 

 

誰にも代わることのできない、たったひとつの 「いのち」

 

 

 

 

 

 

 

私が渓太郎の短いいのちを

 

受け入れることができたのは

 

『いのちは 「多くの中のひとつ」  であり  「たったひとつ」である』

 

ということを教えてもらったからなのかもしれない。