2767.中庸と詩経(11)假を奏して言う無し、時に争うこと靡し | 論語ブログ

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中庸と詩経(11)假を奏して言う無し、時に争うこと靡し

 

詩に曰わく、假を奏して言う無し、時に争うこと靡し。

是の故に君子は賞せずして民勧み、怒らずして民鈇鉞より威る。

   仮名中庸 第三十三章 84頁4行目

   伊與田先生の解釈

詩経(高頌烈祖篇)に、「大楽を奏して神をまつるとき、人は皆神明に感銘して一言を発することもなく、神威に感化されて争う者もない」とある、

そこで盛徳の君子は、賞せずとも民は勧みはげみ、怒らずして民は罪人を刑するおのやまぐさきりよりおそれる。

 

「詩に曰わく、假を奏して言う無し、時に争うこと靡し」・・・独りを慎むという修行を積んだ君子は、人々に対してどのような影響力を発揮するのでしょうか。「詩経」商頌・烈祖篇には、大奏を演奏して神を祀り、祈りをささげて神を迎えるのに、皆謹んで何も言葉なく、ただ和やかで争うものはない。と歌われている。

「是の故に君子は賞せずして民勧み、怒らずして民鈇鉞より威る」・・・そうしたわけで、独りを慎んでいる立派な君子は、ただ内心の誠をささげるばかり、ことさらに賞を与えて勧めたりはしないが、それでいて民衆は仕事に励み、ことさらに怒って威厳を見せたりはしないが、それでいて民衆は死刑の宣告よりも恐れて服従する。

いつものように、「詩経」を見てみましょう。一章二十二句の詩です。

商頌・烈祖

第一章

嗟嗟烈祖、有秩斯祜。申錫無疆、及爾斯所。

嗟嗟(ああ)烈祖、秩(つね)なる斯の祜(さいわい)有り。申(かさ)ね錫うこと疆り無きまでにして、爾の斯の所に及ぼせり。

載淸酤、賚我思成。亦有和羹、平。

に淸酤(せいこ)を載(の)す、我に賚(たま)うに思いて成れるをせり。亦和羹(わこう)有り、に戒めに平(やわ)らげり。

・祭りをする為に、既に清酒を載せ、それを進めささげて神に供し、髣髴(ほうふつ)として神を仰ぎ視、その声を聞くが如き思いがする。既に清酒をそなえ、亦よく調味して羹の汁を鼎に入れてそなえる。事を戒め謹んで為し、熟して調味をととのえる。

鬷假無言、時靡有爭。綏我眉壽、黃耇無疆。          (出典箇所)

鬷(すす)め假(いた)して言うこと無し、時に爭い有ること靡し。我を綏(やす)んずるに眉壽(びじゅ)、黃耇(こうこう)にして疆(かざ)り無きをせり。

・神前に進み至って、精誠を神に致すに当たっては、粛敬(しゅくけい)して言語を発する者は無く、争いさわぐ者も無い。神は我を安んじて、眉壽の福を賜い、限り無き長寿にまで至らしめる。

錯衡、八鸞鶬鶬。以假以享、我受命溥將。

約(まと)える軧(こしき)錯(かざ)れる衡(くびき)、八つの鸞(すず)鶬鶬(しょうしょう)たり。以て假して以て享(たてまつ)る、我が命を受くること溥(ひろ)く將(おお)いなり。

自天降康、豐年穰穰。來假來饗、降福無疆。

天より康きを降し、豐年穰穰たり。來り假り來り饗(う)けて、福を降すこと疆り無し。

顧予烝嘗、湯孫之將。

予が烝嘗を顧みよ、湯の孫の將(たてまつりもの)。

確かにこの祖廟を祭る場の雰囲気や、天子、諸侯などの立派な聖徳ある君子の姿を見ると、「中庸」の「賞せずして民勧み、怒らずして民斧鉞(ふえつ)より威る」の語がわかりますね。さらに、この詩を読むと、上に立つ人の心構えが大事であることがよくわかります。

なお、いつものことながら、この詩も学者によって読み方や解釈がまちまちなところがあります。また、詩序を見ると「烈祖は中宗を祀るなり」とありますが、集伝では「此れも亦成湯(せいとう)を祀るの樂なり」となっています。

 

つづく

                                                                                             宮 武 清 寛

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