213系の写真で227系を語る !?
頭文字が2から始まる電車と言えば、国鉄時代に中央線で長く働いた201系が思い起こされます。
では通勤形電車ではなく近郊形電車でとなると、211系が115系の後継車種としてデビューし、東京口ではグリーン車を連結して堂々たる運用でした。
201系の後継車種は203系・205系と順当に209系まで連なったものの、211系の後継車種は続番とならなかったグループになってしまいました。
車種の213系はそのスタイルこそ211系の後継車ですが、実際には117系・115系3000番台の後継車種で、乗降扉が前後2ヵ所しかありません。
この2扉車という存在、かつて日本全国を駆け抜けた急行形車両をベースに、優等列車ではない運用に就くために生まれてきた型式です。
デッキが無い分、直接客室を出入りできるものの、扉が前後2ヵ所しかないため、居住スペースとしては快適な車両です。
が、混雑してくると、車両中央付近に乗っている旅客は、扉までたどり着くのに苦労することとなり、それ故に旅客は奥へ入ろうとせず、扉付近に固まると言った現象が発生します。
そうすると乗降に時間がかかり、停車時間が伸びる分、列車が遅れを発生させる根本原因となってしまいます。
213系の続番形式に215系がJR東日本へいましたが、2扉な上に2階建ての普通列車だったことから、尚更顕著に負のスパイラルが発生していました。
215系は185系15両組成分の人数を、わずか10両で運んでしまい、利用客としても快適性は抜群でしたが、乗降には極端に利用し辛い車両でもありました。
それ故に運用も使い勝手が悪く、デビューは211系や213系よりも後にもかかわらず、既に廃形式となってしまっています。
ところでその215系という形式ですが、実はJR東日本の215系が名乗るのではなく、JR西日本の新型車両が名乗る予定だったのを、ご存知でしょうか。
1980年代に関西圏で一世風靡した新快速は、117系でその人気を不動の物としていましたが、その需要から運行エリアが拡大の一途を辿っていました。
停車駅も増える傾向にあって、しかしダイヤは寝かさず所要時間を変えない姿勢から、後継車種は3扉車となりました。
民鉄との競合が激しい関西圏において、新快速の新型車両には社運がかかっており、3扉にもかかわらず座席間隔が2扉の117系と同じ910mmなのに、中間車両の座席定員は同数。
驚異的な設計と言うよりも、ほとんど奇跡もしくは魔法と呼んで構わない、JR西日本の本気が詰め込まれた電車でした。
それ故にJR西日本が初めて設計・製造した新型車両は「末尾を1から始めたい」ということで、215系とならずに221系と名づけられました。
221系のその脅威の設計は、広島を皮切りに今は岡山へ新製増備中の227系へも引き継がれ、3扉なのにゆったり座れる快適な居住空間を、今も保持し提供し続けています。
と、227系 Urara との並びなんて1枚しかないのに、国鉄色の381系や213系トップナンバーのことを、放っといて延々と語ってしまいましたわ。
途中で5000系マリンライナーも発車して行ったので、その写真も間に挿し込んでいるのに、全く触れていません(笑)
381系 国鉄特急色も、解体が着々と進んでいますよねぇ~•••••••。
▼本日限定!ブログスタンプ ☆頭から離れんCMソングある? |
あんたもスタンプをGETしょうや |
来年は昭和100年と言うことで、ブログでいろいろ語ろうかな?と、今から準備しているのですけど。
三菱を語るに自動車でね、ランサーにするかコルトにするかジープにするかで悩んだのよ。
日本で1番ロングセラーな車種は日産のスカイラインなんですが、コルトは2番目なんですよ。
戦後の自動車史で言うとジープを語るのがセオリーなんでしょうけれど、1970年から続くランサーも名車揃いなもので。
で、頭によぎってここ暫く耳から離れなくなってしまったCMソングなんですが、同世代の諸氏はもうお気づきになられましたね?
ランサー セレステですよ。
松崎しげるチックに、歌い上げるように口ずさわむ ── 。
ではご一緒に•••••••,「セレ~ステェェェェ~っ♪」
ってCMパターンはいくつかあって、YouTubeで探してみたのですが、松崎しげるバージョンだけが•••••••,無かったですわ ── 残念。
115系 2024初夏 -④ / 岡山駅にて
岡山駅での115系電車です。
前回の記事では全部115系の写真、そして全部オリジナルな 東海形フェイスばかりでした。
今回は113系、そして貫通型切妻の食パン電車をUPします。
JR型のステンレス電車が往来する中で、まだまだ右を向いても左を向いても、国鉄型電車がひっきりなしに発着する、最後の幸せな時代なのかも知れません。
編成番号は判りませんが、D編成の食パン電車が早速の登場です。
貫通型の食パンフェイスは姫路側の先頭車で、反対の広島側はオリジナルな東海形フェイスです。
2番 3番ホームでオリジナルの115系が並びましたが、それも束の間で2番ホームの電車は三原を目指して発車して行ってしまいました。
2編成併結での、堂々6両組成での旅立ちです。
そして3番ホームの電車は入庫回送となりましたが、後追いの撮影で D-29編成であることが判明しました。
前回の記事で写真は無いものの、廃車回送の記述をした車両です。
D編成は3両組成で31本の編成が在籍していましたが、現在は D-01~D-12、D-14~D-22 、D-26~D-28、D-30・D-31の26本となっています。
その内、食パンフェイスはD-28・D-30・D-31の3本で、写真に写っているD-29編成は9日前の8月28日、もう逝ってしまって•••••••。
どうやら私は、この時がD-29編成と出会った、最後の日だったようです•••••••と言うか、最後は西広島駅を通過して行く姿を、偶然に見かけたんですけどね。
と言うことで、広島エリアの時と同様に、少しずつそして着実に113系も115系も淘汰されて逝くので、最後にちゃんと編成番号も明記しておきましょう。
まず2番ホームを発車して行く三原方はD-17編成で、後ろの3両はD-05編成ですが、これは冒頭の写真もD-05編成です。
続いて2番ホームへ到着したのは4両組成のA-07編成、273系 新型やくもとお絡みになっているのは、113系電車のB-08編成と姫路方へ発車して行くのは、113系 B-18編成です。
ラストは1番ホームに止まる115系 D-18編成でした。
▼本日限定!ブログスタンプ ☆黒いモンと聞いて思い浮かぶんは何? |
そもそも毎年思うんだけど、9と6で黒の日って••••••••••••••意味分からん。
で、黒いモンと聞いて思い浮かぶんは、最近やたらと朝から騒がしい街に住むあの野鳥や、パンダのあそこらへんとか、壊れたテレビの画面とか。
あぁ、うちの一眼レフもシルバーじゃなくて黒いですが。
やっぱり広島と言えば″かきしょうゆ″かな。
思い浮かぶと言うよりか、思い出したのはブラックムーバーだったりしますけど。
デビューまでの短期間だったんだけど、つや消しの黒いラッピングが、何かカーボンチックで好きでした。
いや。マジでオシャレと思ったし、5000型にもよく似合ってたし。
あのまま黒い電車で走ってても、カッコ良かったよねぇ。
と、いろいろ思い出しましたです。
カープV号 と 赤いきつね
まだまだ暑さが続く毎日ですが、冷房を入れたまま眠っていたら、明け方に少し寒く感じるようになりました。
日中はツクツクボウシが鳴き、夕方から夜にかけてはコオロギやスズムシの声が響きます。
夕暮れが訪れる少し前あたりでは、ヒグラシの声が聞こえてきて、少し胸が締め付けられるような。
そんな切なさにも包まれる、初秋と晩夏が交じる季節です。
しかし今日の写真は、さぁこれから夏が本番だっ!な季節の頃なんですけれど。
7月30日にコイプレにいた、もみじ銀行カープV号です。
2017(平成29)年3月8日から運用開始した移動店舗で、もみじ銀行は前年に25年振りのリーグ制覇を果たした記念に、広島東洋カープの常勝と地域の発展に願いを込めて登場させました。
もみじ銀行の「~カープV号の概要等~ 」によれば、ATM1台と窓口カウンターを搭載した、マツダ4WDトラック。
イベント回りやカープの主催ゲームの他、発電機を搭載していることにより、万一災害等が発生した場合でも、被災地での ATM サービスをはじめとした金融機能のご提供、さらには電力供給が可能な車両仕様となっているそうです。
あと、宣伝ではないのですが、一応 カープV号の業務内容も紹介します。
(1) 窓口(営業) 平日の9時から15時までの間を営業時間とする出動では、ご預金の入出金、新規口座のご開設、お振込みなどの窓口業務を行います。 また、個人ローン(住宅・その他)のご相談・お申込のほか、資産運用に関する相談業務を行います。
但し、次の業務はお取扱できません。
※ 法人のお客さま(個人のお取引に限ります)
※ 小切手等他店券の受入、代金取立、国債等の代理業務
※ 多額現金のお取引(入出金)
【取扱業務】 ・ 普通預金、定期預金の新規口座開設 ・ 普通預金、定期預金の入出金(現金、お振替) ・ 通帳記帳、繰越 ・ 振込 ・ 税金、公共料金の納付 ・ 住所変更等諸届 ・ ご相談業務
* お手続きの内容によりお取扱できないものがあります。
(2) ATM カープゲームや、地域(市町村等)におけるお祭りなど、主に休日に開催されるイベントに出動する場合、ATMのみの営業を行います。 窓口業務はお取扱できませんが、個人ローン(住宅・その他)や資産運用に関する相談業務は行います。
フラワーフェスティバルみたいに市街地イベントならまだしも、周辺に銀行がないコンビニもない地域でのイベントには、とてもありがたい存在でよね。
だって、お金がおろせるんだもの!
さてさて、カープV号を久しぶりに見かけたので、写真を思わず撮ってしまったものの、なかなか蔵出しできなかった8月でした。
続いては最近、STU48のメンバーで広島出身の池田 裕楽(いけだ ゆら )さんの歌声が響く、ゆめマートにて。
カープの寮とコラボした骨付きから揚げにハマってます。
醤油や塩コショウは控えめで、レモンを利かせた味付けになっていて、選手食堂では人気の一品な「カープ骨付き唐揚げ」
で、ついでになんですけど、マルちゃんブランドで知れる東洋水産•••••••,の、赤いきつねがカープとコラボしてます。
緑のたぬきもコラボパッケージのんですけど、やっぱり広島と言えば厳島神社、RedWing-227系、そして広島東洋カープの″赤″ですよね。
東洋水産と東洋カープそして赤、で、コラボとなったようですが、残念なことにこれはパッケージだけで、カープうどんじゃないんですよねぇ。
確かに広島市民球場の時と、風味が変わっていて、昔のカープうどんが懐かしく思い出されるのは、紛れもない事実なんですけと。
と、言うことで、広島市民球場の最終年にガラケーで撮ったステレオグラフから、カープうどん関連3枚をUPして見ました。
覚えているかな?── あの熱気そしてあの香り。
写真はその台風10号が広島最接近を迎える直前なんですけど、何かマッタリな彼女を見ていると、台風たいしたことないよか?と、ちょっとこっちが安心してしまいました。
カープも今年は首位争いで1位をキープすることの多い戦績なんですが、ひょっとしたら今年は優勝もあるのかな?と、ちょっと期待の大きい秋を迎えられそう。
あ、ラストは赤いきつねのバックに使った鬼滅の刃は何?って思った人へ•••••••2021(平成3)年にコラボしたんですよ~☆彡
特急南風としおかぜ / 岡山駅にて
岡山~高知間を結ぶ特急南風や高松~徳島間を結ぶ特急うずしおで活躍する、JR四国の2700系です。
優しいフェイスの2700系ですが、メイクによってこんなに厳ついイメージに、変わって見えてしまいます。
2700系は特急「南風」「しまんと」「あしずり」「うずしお」に、2019年から投入された特急用車両です。
特急南風は特急しおかぜと共に、四国初の特急列車としての生え抜きですが。
特急うずしおはかつて、特急「つばめ」「はと」「しおじ」と並び、山陽特急に名前を連ねた列車でした。
晩年は利用客が減少傾向にあったものの、特急しなのの大阪発着が人気列車だったことを考えると、ゴールデンウィークなどで特急うずしおの大阪発着があっても、ちょっと嬉しい存在かも知れません。
まぁネームドトレインなだけで、151系もしくは485系のボンネットで走る訳ではないので、会社間を超えてJR西日本もJR四国も、やりたがらないでしょうけれど(笑)
続いてはJR四国 8000系特急電車 アンパンマンしおかぜです。
以前UPした時は、アンパンマントロッコ列車と抱き合わせだったので、側面のデザインをはしょってしまっていて。
なので、今回は2700系との•••••••,やっぱり抱き合わせなんですけれど、UPしてみました。
アンパンマン、バイキンマン、メロンパンナちゃんにドキンちゃん、うどんちゃん、そして虹の子とカビルンルンもいるし•••••••。
アンパンマンはギネスブックに載っているほど、登場キャラクターが多いのですけど、よくまとめていっぱい描かれています。
特急しおかぜも、四国初の宇高連絡船接続で誕生した特急列車で、生え抜きの伝統列車ですね。
そしてラストは、もう一度2700系 特急南風です。
もうすっかり陽が落ちて帷に包まれてしまっていますが、ヘッドライトを輝かせて入線した先では、最後の国鉄特急 381系の特急やくもとのコラボです。
キハ181系と151系のイメージ写真を挿入したので、やはりトリにはこの子に登場して頂かないと、記事の終わりが締まりませんよね。
▼本日限定!ブログスタンプ ☆もしもん時の防災対策しとる? |
今年は″防災の日″制定の理由となった、関東大震災から101年です。
去日、南海トラフ地震の警報が出ていましたが、そもそも地震予知は今の科学力では不可能です。
が、そこは備えあれば憂いナシだったのですけど。
準備しておきながら、家の下敷きとなって、腕1つ動かせない状態で閉じ込められるなら、その瞬間に即死させてくれと願うばかりです(謝)
まぁホントはそんなコト言っちゃダメなんでしょうけどね。
TwilightExpress 瑞風 / 草津M字カーブにて
8月31日は日曜日だと月初めに勘違いしたまま、1ヶ月が経ってからの、実は土曜日だったと29日に気づいた源です(笑)
毎月最終日曜日にUPする予定としている、トワイライトエクスプレス瑞風ですが、何と!
月末土曜日の記事になってしまいました。
何か日付と曜日が合わないよねぇ~と、職場での会話で「?????」となってしまって、気づいた次第です。
運転日は9月24~25日、10月14~15日、11月4~5日と、月1回と言う極少運転日となっていますが、来年1月は2回と倍に増えるようです(笑)
新運転予定時刻も30日に発表されていて、下関を9時26分に発車すると、防府には13時47分に到着して、新山口を折り返し駅とした後、17時1分に防府を発車するようです。
尾道には翌8時14分到着なので、呉線乗り入れは継続されるようですが、広島市内は恐らく•••••••,1月14日 23時36分に西広島駅3番ホームを通過して行くのを見かけましたが、やはりあれがそのダイヤになるのでしょうか?
と言うことで、曜日を勘違いしていたことから、トワイライトエクスプレス瑞風の新ダイヤについて語ることができた、今月の記事でした。
さぁ乗る人も見る人も、新たな「瑞風」の旅を共有して楽しんでいきましょう。
-JR西日本 Facebook公式-
115系 2024初夏 -③ / 岡山駅にて
今日の写真は全て115系電車です。
「タイトルがそうじゃん」とか「いつもそうじゃん」と言われてしまいそうですが、そうじゃなくて。
今日の写真には113系電車の写真は無いですよ~って意味です。
「みんな黄色いんだから、関係ねぇじゃん」っていわれたら、まぁそれはそうなんですけれど(笑)
ツーショットとしては、黄色く無い電車も共演していますが、実はもうそれぞれの記事で、一度UPしているものも多々あります(爆)
ところで、今日の写真は115系と言いましたが、デザインもオリジナルフェイスの東海形ばかりなんですけれど。
8月28日に、西広島駅を下関へ向かって高速で通過して行く、115系7両組成の回送列車を見かけました。
最後尾は貫通型食パンフェイスの〇〇でしたが、このデザインが西広島駅を通過して行く景観は、ちょっと新鮮に感じました。
この回送列車は″回8345M″で、A-14編成 + D-29編成の幡生入場だったようです。
通常、幡生入場と聞くと検査入場をイメージしてしまいがちですが、岡山エリアでは227系 Uraraが増殖中の現在です。
そっかぁ廃車回送かぁと思って見ていたのですけれど、A-14編成は検査入場のようです。
但し、貫通型食パンフェイスのD-29編成は、やはり感じた通り廃車回送だそうで、最期の4本存在していたこの切妻顔が、1本消えることとなったようです。
ちなみに検査入場のA-14編成は、元々 広島エリアを走っていた元 L-16編成です。
クモハ + モハの編成が主流の岡山エリアにおいて、MM’編成のモハ115 + モハ114ユニットが、まだ暫く生き残ることとなったのは、寂しさの中の少し嬉しく感じる出来事です。
時代の流れ•••••••,人間も機械も同じように、老朽化と共に健康体は保てなくなって、その生涯を閉じてしまわなければならないのは、それこそ諸行無常の響きなのかも知れません。
そっかぁ、貫通型切妻フェイス ── 貫通型食パン電車も、残り3本しかいないのかぁ•••••••。
台風近づく夏の終わり
暑くて熱い夏だから、夏の氷だ第3弾(笑)
まぁ9月も近いので、氷の写真を冒頭へ貼るのも、これで最後かな?
まだまだ当分の間は、燃えるように熱いんでしょうけれどねぇ~。
でも日中の気温の割には、朝夕の気温だけはめっきり過ごしやすくなった広島市西区です。
てね、西区って限定したのは、そうじゃない市内もあるらしくて••••••─,そんなに南北に長い旧市内じゃないのに、驚きです。
先日、チビはクロネコさんと出会ってしまったようで、何かねフリーズしていて面白かったんですけど。
そして午後は午後で、夏草をジッと見つめて動かない•••••••。
葉っぱと石の影に何がいるのやら ── あそこに何かいるにゃん!
で、何でしょう、疲れてしまったのか、お水を結構な量を飲んでました。
そして話は変わるのですけど、ネコの手形まんじゅう「なごにゃん」売ってたので、買ってみました。
そもそも名古屋に「なごやん」って言う洋風饅頭が銘菓なのらしいですけれど、これは形をねこの手にしたパロディーで、やっぱり名古屋銘菓ならしいです。
ねこの手 ── 肉球っぽくはないんだけど、同じぐらい柔らかくて、癖になりそうな美味しさでした。
と言うことで、久しぶりですが、宮島 大聖院です。
ここ近年、異様に暑いので、参拝客サービスと山火事防止を兼ねて、大聖院では人口の霧を散布します。
これがね、大迫力のスケールで、夏なのに境内で霧にホワイトアウトしてしまいそうな•••••••,って、ゴミ燃やして煙りがもくもくな訳ではありませんからね(爆)
9月もやるのかどうかは分かりませんが、気候次第なのでしょうから、行くな7月~8月です。
そうそう、台風10号近づいてますよねぇ。
中心気圧 = 980hPa、中心付近の最大風速 = 35m/s、最大瞬間風速 = 50m/s、中心から半径55km以内では風速 25m/s以上の暴風。
27日夜遅くから影響が出始めて、風速12m/s以上、雨量 50~150mm/h•••••••,って、この台風は暴風雨じゃん!
はぁ~、明日の夕方からかぁ(吐)
キハ187系 / 平和月間ラストは特急ウクライナ?
さてさて、冒頭の写真は何に見えますでしょうか。
キハ187系のボディ?
あぁ•••••••,正解ですわ(笑)
でも、答えて欲しかった不正解は、ウクライナ国旗でした。
一昨年、″鉄道撮影で反戦を訴える! 「ウクライナ国旗」を再現できる車両で反戦を訴える!″ってのあったの。
知ってる方や覚えている方、おられますかね?
まぁ長かった日本の8月 平和月間も事実上、もう終わりなんですが、シベリア抑留の記事に嗣いで、最後に載せてみました。
ロシアによる侵攻によって反戦の象徴となった国旗ですが、現在も軍事侵攻が続き民間人の尊い命が奪われ続けています。
熊本市や松本市では日没後に、城を青色と黄色のウクライナカラーにライトアップし、犠牲者の哀悼を訴えていました。
ウクライナ国旗の青色は「空」、黄色は「大地を染める小麦と農業」を表しているのだそうです。
一時は反戦の象徴となったウクライナ国旗でしたが、鉄道車両の一部分を撮影するだけで、この国旗を再現できる ── と言うことで、ツイッターなどでUPされた方も多いのではないでしょうか。
堅苦しく重々しい記事が続きましたが、最後はキハ187系のウクライナ国旗で、8月の平和月間を締めくくりたいと思います。
あ ── でも平和記念日と世界史には含めていませんよ~⭐彡
213系 と 5000系 / 岡山駅にて
JR西日本 213系と JR四国 5000系です。
新旧のマリンライナーと言うことで、一緒にUPすることが多いのですが、今回は ラ・マル・ド・ボァ も、久々に登場です。
列車としてはちゃんと日程通りに走っているのですが、私がね(笑)
暑いのは仕方ないとして、腰が治ってくれるともう少し、カメラ持ってウロウロできるんですけど。
まずはオリジナル213系 先頭車同士の連結面を、ちょっと失敗気味ながら流し撮りで捉えてみました。
そして3番ホームへ止まる213系 C-06編成ですが、この編成には久しぶりに会いました──そう、JRマーク無しのクハ212-6です。
反対側のクモハ213-6には、ちゃんとJRマークは付いています••••••で、2番ホームには227系 Urara が入線してきました。
5番ホームには213系7000番台 観光列車のラ・マル・ド・ボァが、回送ながらの入線です。
3番ホームの213系 C-06編成は吉永行きで、静かに発車して来たので、ラ・マルとツーショットを狙います。
3両組成のC-06編成の跡追いは、やはりJRマークが無いオリジナルに近い顔立ちに、一瞬見とれてシャッターを押し忘れそうになります(笑)
結構、強い雨で日中でも暗かったので、露出が稼げずスローシャッターとなってしまっていたのですが、まぁこの程度のブレなら及第点です。
しっかりとJRマーク無しの顔立ちも、ちゃんと縦列気味で撮影して、ブレの無い姿も押さえておきます。
そうこうしている間に、ラ・マルも発車して行ってしまいました。
3億人ヘッドマークを掲げた5000系 マリンライナーも発車して行くので、ちょっと手すりが邪魔なものの、流し撮りで•••••••うーん。
さて、冒頭ではオリジナル213の先頭車連結面でしたが、今度はオリジナルと213系100番台の連結面です。
よく見なくてもその違いは歴然なのですが、こうして見てみると更にも増して、違う電車みたいな(笑)
ちなみに所属記号はまだ、岡オカでした。
シベリア抑留の日 / 戦死とは異なる犠牲
被爆2世が語る平和記念日と世界史シリーズ |
8月23日は″シベリア抑留の日″です。
日本が連合軍に対して降伏を受け入れる準備があると打診した8月10日。
その前日にアメリカ合衆国によって長崎市内へ2発目の原子爆弾が投下されましたが、同じ日にソ連が日ソ不可侵条約を無視し、突然 日本を占領し始めました。
8月23日に発せられたスターリン書記長の命令によって、満州・樺太・国後・千島などから約57万5千人の軍人や民間人を、シベリアやモンゴルへ強制移送の開始。
十分な食料や医療が提供されないまま、重労働を課し多くの方が亡くなられました。
さて今日の記事ですが、終戦記念日2024の続きを記し、話を完結させる内容です。
終戦記念日の記事では日本の降伏に関連して、日中戦争の顛末を簡略的に綴りましたが、日本の大陸政策の終焉は、日中関係だけでは終わらなくなりました。
それは冒頭で少し触れたソビエト連邦共和国の対日参戦です。
それと、確認のために記しておきますが、話の本題はあくまで″8月15日は終戦記念日であって終戦の日ではない″なので、ここからもそのように進みます。
戦争は対戦国があっての戦闘で、交戦国だった各国はアメリカ合衆国で9月2日と、ヨーロッパ各国も降伏文書を調印したこの日を、終戦の日としています。
中国では9月3日が終戦の日で「日本の侵略に対する中国人民の抗戦勝利日」としています。
しかし法的にそう定められたのは2014(平成26)年2月に開催された「全国人民代表者会議」でのことで、70周年を迎える前に制定したいとの思いから、やっと正式に決定されたものでした。
中国は統一国家と言えども、合衆国や連邦国などと形態が異なり、紀元前の古代国家体制が現代で生きている、非常に稀な国家システムです。
それ故に、中国4000年の伝統とも言えるのですが、日本の幕藩体制は天皇家があって組織として成立しており、ギリシアなどのポリス国家は互いが対等な関係でありつつ、神の下に集う同一民族によるもの。
中国はコミックスやアニメで見る″キングダム″で分かる通り、強者が覇権を握り各都市が恭順を示して、統一国家の体制を保っています。
なので、国には警察も軍隊も存在せず、全ては共産党の私兵であることから、近年の海軍に海警局(中国の海上保安庁)が組み入れられたのも、元々の組織の根底が同一だから可能な訳です。
中華統一•••••••,秦の始皇帝から始まり清王朝の終焉まで続いた王朝政府は、政党政治へと移り変わりましたが、国ではなく共産党が警察権や国防権を握っています。
一般的に任命権や人事権と言った物が為政者の伝家の宝刀ですが、中国では乱世の時代の旧国が、現在の省である以上、統治権こそが最高権力となります。
各省が共謀して離反をすれば、かつての清王朝のように共産党も一瞬で瓦解してしまう、危うい国家体制であることは紛れもない現状です。
最近、アメリカに対して「中国には中国の民主主義がある」と言ってのけた、その言葉の真意は統一中華15省の総意と言う、考えようによっては恐ろしい本質のことばでした。
言い変えれば「仮に間違いだと分かっていても、国家として止められない」と言う暴走を孕んでいる国家体制でもあると言うことです。
さて、同じ共産主義社会国家のロシアですが、こちらは本来 大統領が「止める」と言えば、直ぐにでも国の方針を変えられる体制ではあるのですが。
なかなかプーチン大統領の思い1つで、ウクライナへの侵略戦争を止められない、ロシアも深い闇へ陥っています。
そんなウクライナ侵攻の初期に、プーチン大統領が「妨害する国には核兵器の使用も辞さない」と世界を恐喝しましたが、ロシアはソ連時代にアメリカから同じ恫喝を受けたことがあります。
米ソ密約のヤルタ会談にて、スターリン書記長がトルーマン大統領へ、日本の降伏後には北海道の割譲を申し入れたものの、それをトルーマン大統領が拒否します。
8月9日に満洲帝国へ侵攻し、続いて南樺太や千島列島を占拠し始めた頃、再びスターリン書記長はトルーマン大統領へ北海道の割譲を打診するのですが。
その時にトルーマン大統領は占領地経営が安定したら、ソ連には日本列島侵攻の可能性があるとして「ソ連の取り分はヤルタ会談で決まった通り。もし強引に侵攻するのなら余った原爆を全部、ロシア領内へ落とすぞ」と脅迫したと伝わります。
まだ原爆の開発もままならなかったスターリン書記長としては、その呑まされた煮え湯にはらわたは煮えくり返り、南樺太の占領と千島列島の占領を終えた後、腹いせに北方四島までを手中に納めたようです。
ロシアと言う国は、その国民性からなのか昔のことを延々と根に持つことが多く、日本人のシベリア抑留はロシア革命の報復だと、国家安全保障省(MGB)の関係者のことばもあります。
ロシア革命と言えば1914(大正三)年の第一次世界大戦を引き金に、苦しい生活を強いられる国民の不満が爆発して、労働者のストライキや兵士の反乱により皇帝 ニコライ2世が処刑された事件です。
皇帝が処刑されるよりも前に暫定政府が樹立しており、その政府の要請によって自ら退位したニコライ2世でした。
暫定政府はブルジョワ派とされ、当初は国民の支持も高かったのですけど、労働者や兵士など労働階級の人々によって組織されたのが、ソヴィエトでした。
国会なるものがまだ制度として確立していなかったため、政府へ公式に意見陳述するための組織でしたが、やがてソヴィエトはロシア衛星国にも組織されていきます。
そうすると暫定政府よりもソヴィエトの方が力を持つようになり、レーニン、トロツキー、ボリシェヴィキなどが参加。
これによりソヴィエトは社会主義へと傾倒し、やがてレーニンが筆頭となって連邦政府樹立の立役者となり、ボリシェヴィキによって世界初の社会主義国家・ソビエト連邦共和国が誕生したのは1922(大正11)年のことでした。
さて この一連の革命の中で、日本がどのように関わったのかと言うと、社会主義国家が誕生することに危機感を抱いた西側諸国に、日本が連合国軍として名前を連ねたことから始まります。
参戦名目は、第一次世界大戦末期の1918(大正7)年、皇帝退位によるロシア帝国崩壊の結果、極東に取り残されたチェコスロバキア軍捕虜の救出を名目に、イギリス・フランス・アメリカ・日本などの連合国軍がシベリア出兵を開始。
さらに,日本は満州や朝鮮半島に進出していたため、社会主義がこれらの地域に広がることを、非常に重く懸念していました。
連合国軍に参加することで、他の国々と同様にチェコスロバキア救出作戦を実行しながら、ソ連国内の反革命勢力援助を遂行し、社会主義国家誕生を阻止することを目的としていました。
連合国で協調して社会主義国家誕生の阻止作戦は遂行され、日本は特にロシアの主権を侵害せず国内政策に干渉しないこと、ロシア国民との友好関係を維持することを出兵宣言で謳っていました。
それ故に、協同で出兵し たアメリカに対抗する意味で、現地住民への支援にも力を入れていました。
しかしこの作戦は失敗し、ブルジョワ派 反革命勢力の敗北に終わります。
軍事作戦が終了し、各国の派遣軍が撤退する中で、日本は軍を常駐させたことから、この後、信頼を失墜させるのですが、実はここに日本の政府と陸軍に、ダブルスタンダードの隠密作戦がありました。
政府としてはあくまで連合軍の一員としての参加で、陸軍も当初はその予定で参戦していたものの、駐ロシア大使館員や諜報員・間諜の情報から、革命派と裏取引をする話を受けます。
何か特別な作戦を実行する訳ではなく、武器供与をすることで、ソ連社会主義国の成立後の外交が、他国よりも優位に進められると言うものでした。
かつて、日清戦争の勝利と下関条約により、日本に割譲された遼東半島を清国に返還せよと、1895(明治28)年にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が、日本に対して行った勧告──三国干渉もありましたが。
実際に満洲国建国や経済面で海外市場拡大に求めた満州の権益を、内蒙古や中国北部に拡大しようと画策した時も。
華北分離工作を推し進めた冀東防共自治政府や、察南自治政府、蒙古聯盟自治政府、晋北自治政府などの中国北限における日本の活動に、ソ連は干渉してきませんでした。
ソビエト連邦成立の影の功労者として日ソ不可侵条約が結ばれたためでしたが、ドイツとソ連が開戦しようとしていた頃、日本とソ連の間に亀裂が入ります。
日本は国際連盟を脱退した後、ドイツそしてイタリアと三国同盟を締結し、相互で技術開発の供与を開始していました。
ドイツとイタリアは同じヨーロッパにいることで、協調作戦を実施することも可能でしたが、日本は遠く離れていたため、敵対国を東西からそれぞれ牽制し合う役割を担いました。
日本はドイツとは同盟関係にありながら、ソ連とは日ソ不可侵条約を結んでおり、軍として動けなかった事情があり、結局、満洲軍が満ソ国境で陣地を張ることとなったのですが。
ソ連はロシア帝国時代の第一次世界大戦の折、ドイツに敗退に敗退を次ぐありさまだった上に、ナチス政権によるドイツはヨーロッパで連戦連勝を繰り広げていました。
シベリア駐留部隊をドイツ戦へ移動させたかったソ連でしたが、満洲軍の展開によってシベリア部隊が釘付けとなり、日ソ不可侵条約はその時点において、有名無実と化します。
日本としてはドイツとソ連の両方の顔を立てた積もりでしたが、そこはいつまでも根に持つソ連ですから、報復の機会をずっと伺っていました。
戦績が一進一退で硬直状態に陥り始めた国際状況の中で、アメリカの参戦が連合国側の福音となり、一気に形勢逆転へと傾きます。
圧倒的に優位にいた日本でしたが、ミッドウェー海戦を境に形勢が不利となり、どこかのタイミングでアメリカとは、和睦をしなければならないと日本は考えます。
その頼みの綱がソ連で、ソビエト連邦政府成立の貸しを、アメリカとの仲介を取り持つことで、返してもらう算段でしたが。
アメリカもこの大戦のキーマンはソ連が握っていると踏んでおり、イタリアは自壊させるとして、ドイツと日本を米ソで2面方面にて撃破したいと考えていました。
アメリカからソ連に対する1回目の対日参戦の伺いは早く、日米開戦翌日にソ連の駐米大使へ、大統領と国務長官から立てられています。
このときはソ連外相からドイツ討伐戦へ集中している最中で、日本とは中立条約の制約があり参戦は不可能と回答しています。
しかし1945(昭和20)年2月4日、ソ連のクリミア自治共和国ヤルタ近郊にあるリヴァディア宮殿へ、イギリス・ソ連・アメリカの首脳が秘密裏に集まりました。
ここで話し合われたのが国際連合の設立と、ソ連の対日参戦で、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける、米ソの利害関係を調整し確定しました。
極東においては、ソ連の戦利地都市で満洲帝国全土と日本の租借地 大連、南樺太と千島列島とし、アメリカは日本本土を占領することで決まりました。
スターリン書記長はルーズベルト大統領へ、留萌と釧路を結ぶラインを国境として策定し、北海道北半分を割譲させろと要求しました。
ソ連としては太平洋の不凍港が必要で、スターリン書記長は北海道割譲をベースにいずれは全道、そして東北の侵攻も考えていたようですが、満洲帝国全土をくれてやるのだから日本本土は断念しろと拒否されます。
ヤルタ会談より遡りますが、日米開戦直後には日本政府はアメリカのソ連へのアプローチを察知しており、自分たちの手柄で締結した日ソ不可侵条約を過信していた大本営とは、対極的な対応を取っていました。
1945(昭和20)年1月6日、アメリカ軍の動きを懸念した昭和天皇は、重臣の意見を求めて奏上するよう促したものの、全ての謁見が完了したのは2月26日となっていました。
近衛文麿や吉田茂が推した和平交渉案は、そこから策定するには既に時が遅かったものの、7月には近衛文麿がモスクワに派遣されました。
しかし、ソ連に対し連合国との和平調停の仲介を求めたものの、2月4~15日にかけて既にヤルタ協定が成立していたため、ソ連から仲介は拒絶されます。
ソ連の対応を以て大本営も事の重大性を悟ったものの、中国とアメリカの両面作戦で手一杯だった状況に、ソ連参戦に対応する余力は無かった故、満ソ国境は満洲軍の増強のみで日本軍の派遣は実施されませんでした。
そして1945(昭和20)年8月9日、人類史上初の核兵器実戦使用において、2発目となる長崎への投下が敢行されます。
その3日前の8月6日には広島へ原爆が投下され、ソ連は慌てて予定を繰り上げての対日参戦を強行したのですが、満洲帝国への侵攻は長崎の原爆使用日と同日となってしまい、スターリン書記長はアメリカへの怒りを顕わにします。
8月10日には日本は連合国側へ降伏を受け入れる準備があると打診し、14日にはポツダム宣言を受託して無条件降伏を実施しました。
15日には国民へ向けて昭和天皇が降伏を前提とした休戦を宣言したものの、北はソ連軍が侵攻を続けて停戦に応じず、南方では前線に休戦の指令が届かずに日本と米英による戦闘が続いていました。
日本軍側も連合軍側も、休戦協定が結ばれた情報が行き渡ったのが8月下旬、互いが疑心暗鬼から発生する戦闘も、月末には落ち着きを得て停戦となりました。
北方はソ連の快進撃が続いていましたが、停戦に応じないソ連軍に対して、日本軍が自衛権を行使して応戦し、ソ連の侵攻を食い止めていました。
そもそもはソ連対日参戦の翌日に、日本がポツダム宣言受諾を連合国に通告したため、降伏文書調印までの極めて短期間の間に、ソ連は戦果に対して日本の領土を選られるという、有利な現状を生み出してしまいました。
停戦どころかスターリン書記長は、占領が完了した南樺太にいた第八十七歩兵軍団に、北海道上陸のための艦船舶の準備を指示しているが、これは是が非でも、日本が降伏文書に署名する前に占領を終え、既成事実にしたかった願望の現れでした。
留萌には8月24日の上陸予定でしたが、日本側の反撃は有能でソ連の作戦全体の計画に修正不能なズレが発生し、結果的に9月1日 色丹島、9月2日 国後島、9月3日 歯舞諸島の占領を以て第二次世界大戦は終結します。
連合国側に名前を連ねたことで、第二次世界大戦としては戦勝国となったものの、対日戦においては降伏している日本軍に負けたという事実は、今もロシアにDNAとして脈々と受け継がれています。
それは2019(平成31)年1月22日の安倍総理大臣との首脳会談における、プーチン大統領の平和条約締結に向けたことばに、しっかりと現れていました。
この北方領土問題を抱えたソ連とは1956(昭和31)年に日ソ共同宣言を交わし、両国が国会で批准した条約扱いになっているものの、実は未だに平和条約は結ばれていません。
日本とロシアは79年に渡って戦闘を行っていませんが、平和条約が締結されていない以上はまだ交戦国同士であって、8月15日の昭和天皇による休戦宣言が、今も生きている状態に過ぎません。
現実的にはビジネスや観光などの人の往来が可能で、貿易による流通も確立していることから、事実上は戦争状態にありません。
しかし、法的には終戦予定の休戦協定中という関係であることは、現実としての事実です。
終戦記念日2024で記述した通り、中国とは中華民国 国民政府と降伏文書調印式で終戦を迎えています。
しかし中国ではまだ戦争は終わっても内戦が継続しており、反乱軍 共産党が覇権をかけて国民政府打倒を目論んでいました。
日本軍は武装解除に応じるものの、安全な撤退を遂行するため自衛権の発動をしなければならず、国民政府軍とは戦闘をしないが、共産党軍とは自衛目的の戦闘は必要でした。
そこで陸軍支那派遣軍は1945(昭和20)年9月9日に、南京で国民政府と公式な降伏調印をしています。
ところがあくまで法的な手続きはこれで良いのですが、現実は中国では戦線が複雑になり過ぎていました。
本来の日中戦争を戦った陸軍支那派遣軍の敵は連合国軍の中華民国 国民政府軍であるものの、北部の華北地方で関東軍が戦っていたのは共産党軍(八路軍)でした。
国民政府と共産党は互いに中国の覇権をめぐって内戦中であるところへ、第4の勢力としてソ連軍が侵攻して来ます。
日ソ不可侵条約があるにも拘わらずヤルタ協定による裏切りだと日本側は非難しますが、ソ連側からすればドイツの侵略を受けた際に、軍の移動を妨害したのは満洲軍であり、その時点において条約は日本側により破棄されているとしています。
これは国際法や同盟国・条約国のルールとマナーの観点から、非は日本側にあってソ連の主張は正当だと言わざるを得ません。
話は少し逸れましたが、突然現れたソ連軍に満洲軍はあっと言う間に瓦解し、精鋭を対米戦へ取られていた関東軍は、ソ連軍に圧倒されて投降します。
当然、関東軍の投降相手はソ連軍であり、支那派遣軍についての武装解除は国民政府軍が行い、日本軍もそれに従いました。
しかしソ連が共産党に関東軍の投降兵士たちを引き渡したことから、関東軍に対しての武装解除は投降相手のソ連軍ではなく、共産党となってしまいました。
これは日本からすると交戦国は中華民国であって、共産党はテロ組織でしかない故に筋は通らず、ここで関東軍は共産党による武装解除を拒否することになります。
関東軍はテロに屈したのではなく、ソ連軍に投降したという意識があったためで、これにより共産党は関東軍に攻撃を仕掛け、8月15日から11月末までの期間に、戦死した日本人将校や兵士の数は2,900名に上ったと記録されています。
ソ連軍は共産党へ引き渡した隊は武装解除させたまま放置したため、そのような殺戮が起きた反面、8月23日には関東軍将兵と民間人 約57万5000人をシベリアやモンゴルなどに強制連行し、過酷な労働に従事させました。
ソ連では1920年後半頃から政治犯などの囚人に過酷な強制労働が課せられましたが、これは不足している労働力を補うもので、戦時下では捕虜も労働力として活用しました。
これらの捕虜の多くは内務人民委員部等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役させられました。
特に独ソ戦で捕虜となったドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人の内、終戦後にドイツへ帰国できたのはわずか5,000人でした。
スターリン書記長は8月16日、日本人は捕虜として用いないという命令を、内務人民委員に下していましたが、8月23日にはこれを突然翻して、日本軍捕虜60万人をソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下します。
満洲帝国では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護についてソ連と合意しましたが、現実にはその通りに行われることはありませんでした。
戦争で荒廃したソ連国内の復興に必要な労働力として、シベリア鉄道の建設や開拓のための森林伐採、鉱山での重労働などに従事させられます。
収容所の食料事情は極端に悪く、衛生上の設備・管理も不備だったため、餓死の他 風邪やインフルエンザ、結核や肺炎、食中毒やチフス 赤痢などの疾病 伝染病を防げず、大量の死者を出しました。
抑留者の詳細記録は残されていないため、移送された氏名や性別など不明な部分も多いながら、記録に残っていた人数では367名の女性も含まれていました。
女性は比較的早く解放されて帰国できたようですが、それでも2~3年抑留させられ、男性では最長11年の拘束と強制労働に従事させられました。
このポツダム宣言に反する非人道的行為は1993(平成5)年10月に来日した、ソ連の継承国であるロシア連邦のエリツィン大統領が公式に謝罪の意を表しました。
但し、ロシアの公的見解として、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしています。
しかし実際の移送先は、コムソモリスク ナ アムーレ市、ハバロフスク地方、シベリア、ブラーツク市ダム建設現場、アリシェル ナヴォイ記念国立アカデミー大劇場建設現場、ナホトカ市の他、
ウズベキスタン首都タシケント、タタールスタン共和国エラブガ市、中央アジア各国、カフカス地方、バルト三国、ヨーロッパロシア、ウクライナ、ベラルーシなどソ連領内各地、ソ連の衛星国だったモンゴル人民共和国でも抑留と強制労働が行なわれています。
歴史学者の宮脇淳子氏は「シベリア抑留」という言葉について、実際にはシベリア以外にも多くの抑留者がいたことから、正確には「ソ連抑留」あるいは「共産圏抑留」と言うべきとして、相応しい呼称を提案しています。
さて、最後に2回に渡る連載の主題″終戦記念日″と″終戦の日″について、少し語ってまとめとしたく思います。
ロシアでは、ソ連時代と現在とでは、終戦の日が変わっていて、ソ連時代では降伏調印式翌日の9月3日を対日戦勝記念日としていました。
ソ連は前述の通り8月9日に対日参戦し、5日に千島列島全島の占領を完了、降伏調印が行われている9月2日には、北方領土の歯舞島攻略作戦の発動中でした。
そのため、日本への侵攻作戦実施中の9月2日を戦勝記念日とは言えなかったのですが。
ソ連を含む連合国が調印式に参加している手前 無視することもできず、とりあえず翌3日に戦勝記念式典を開いて体裁を整えたと言ったところです。
ところが連邦政府崩壊後の2010(平成22)年7月、政権を受け継いだロシア連邦共和国議会が、9月2日を「第二次世界大戦が終結した日」と制定する法案を可決します。
そうすることによって、ロシアが正式にソ連の後継政府であり、連合国として戦った国であるとアピールしたのです。
それと同時にこの終戦記念日の制定は「日ソ中立条約違反、シベリア抑留、日本の正式降伏調印以降の不法な戦闘行為、および北方領土の不法占拠など、対日戦で行ったあらゆる行為をソ連が行った事であり、ロシアとは関係がないとして帳消しとし、あらためてロシアが北方領土の実効支配者として自らを正当化できるという、したたかな政治的計算の上に成り立った終戦記念日制定だといえよう」と、″日本人だけが知らない「終戦」の真実″の著者: 松本利秋氏は記しています。
また、終戦記念日2014で語った中華民国 国民政府は、ミズーリ号上の降伏調印日である9月2日を終戦の日として区切り、翌3日から3日間を抗日戦争勝利記念の休暇としたことから、中華民国では9月3日が終戦記念日となっています。
では、現在の中華人民共和国ではどうかとの話になりますが、これは終戦記念日2024と今日の冒頭で述べたように、2014(平成26)年まで法律に則った正式な終戦記念日は存在していませんでした。
繰り返しとなりますが、日本は中華民国も加わったポツダム宣言を受け入れることで、敗戦国となった訳なので。
日本が正式に降伏するとすれば、その相手は南京に政府を置いていた、中華民国 国民政府ということになるのですが。
現在の中華人民共和国が、自らの政権の正当性を確保するために、戦勝国を名乗るのであれば、日本軍は中国大陸でいったい誰と戦っていたのかという、最初の話へ行き着くことになります。
と、日本の対戦国は全て9月2日を起点として、当日を戦勝記念日とするか翌日を戦勝記念日とするかに別れますが、第二次世界大戦が終わった日 = 終戦の日は9月2日となっています。
もちろん、日本でも終戦の日は法的に9月2日です。
8月15日はあくまでもメモリアルデーであり、終戦記念日を終戦の日と呼ぶのは、英霊を軽んじ蔑ろにしていること他なりません。
8月15日を昭和史の中で語り継いでいくことはとても大切なことですが、79年が経った今、国際社会そして世界の中の日本という、大きな枠組みと流れの中で捉えて見ていく視点が、昭和100年を迎えるにあたって必要だと感じます。
それはもう、いつまでも世界の敗戦国ではないのですから。
~2021 | 2022~ |
8月15日を「終戦の日」と呼びたい人へ問いたい! その日を「終戦の日」と呼ぶならば、8月16~31日に最前線の戦闘において戦士した、日本軍の兵士と連合軍の兵士は何なのかと。 歴史上 無名な過去の人とは言え、人の命を蔑ろにするべきではない。 彼らは国のため家族のため平和と安寧のために戦って死んだ戦士である。 | |
私が言っていることは正論です。
が、やはりそこは人間なので心理的な要因も考慮して、通称を他人に押し付けることは止めなければなりません。
韓国と北朝鮮は日本の占領地や傀儡国家だった訳ではなく、併合していたため日本国そのものでした。
それ故に終戦記念日は祖国復活の日であり、韓国の光復節は日本と同じ8月15日に制定されています。
戦前・戦中における当時の日本国民(この場合 朝鮮人含む)は、新聞やラジオ放送などによる虚偽の報道、世論誘導などによって、侵略戦争の実態をまったく知らされないまま強制的に戦争に動員されました。
なので日本人や北朝鮮・韓国人にとっての8月15日は、戦争によって肉親や自分自身の命を奪われる心配がなくなった日でもありました。
そう言う意味では、終戦記念日を終戦の日と呼んでも差し支え無いのかも知れません。
「終戦記念日」という言葉が一般的に使われているのは、戦争が終わり平和な時代への区切りとなった日を、端的に現すメモリアルデーなんだと言えるのですから。
そう、どちらにせよあくまでも通称です。
ところで中華統一を握っている共産党政府の中華人民共和国ですが、共産党がまだ反乱軍だった当時、国民党が樹立させた中華民国ですけれど。
共産党は政府を打ち倒して新政府を開府した訳ではなく、中華民国 国民政府が中国内に逃避したため、共産党が覇権を握れた訳ですが。
中華民国は現在どうなっているのと言えば、それが台湾です。
台湾有事と言うことばが時折 飛び交いますが、まだ国民政府と共産党政府の決着は着いていないため、いつ決戦が勃発するか分からない現状です。
台湾では今年1月13日に選挙が行われ、与党 民主進歩党からの候補が、3期連続で総統に当選しています。
1912(明治45)年2月12日に清王朝が倒れて以降、アジア初の共和国家 中華民国を牽引してきた国民党は、現在 台湾最大の野党となっており、候補者の候氏の得票率33.5%で、民進党候補の頼氏が40.1%で総統の地位に就きました。
尚、3位は台湾民衆党の候補者 柯氏でしたが、共産党政府に下って統一をする意識は無いものの、もっと交流を持っても良いと考える融和政策の政党です。
国民党も長い間、共産党とは内戦で殺し合いをしてきた間柄でありながら、中国との融和政策を掲げています。
民進党のみが統一拒否と親米継承を訴え、その結果が新総統当選であり、共産党政府の中国が危険人物として警戒している頼氏です。
任期は4年ですが、台中関係はこの間に動きそうな気配はあるものの、アメリカ合衆国の動向にも左右される、台湾事情です。
そのアメリカ合衆国も大統領選挙が序戦を繰り広げており、トランプ大統領の再選となるかどうかは、国際情勢を左右するものの、結果は神のみぞ知ると言うことです。
名門 ケネディ家からの立候補があったかと思うと、途端に取り下げてトランプ陣営の支持に回るなど、現在アメリカ大統領選は混迷の様相を見せています。
人気面では話題を欠かさないトランプ陣営ですが、内政では自国ファーストで今の時代を乗り越えられるのか、また国際社会では未だ続くロシアによるウクライナ侵攻や、イスラエルとパレスチナ ガザとの内戦など •••••••。
この大統領選の結果次第で、世界情勢が一気に変わってしまう可能性も大きく、それが人類にとって最悪なものなのか、未来に向けて希望の見えるものになるのか、そこは図り知ることは叶いません。
不安定な社会の中でルーズベルトがアメリカ大統領となったことで、戦争は第二次世界大戦と変わり、各戦地で凄惨な結果をもたらすこととなりましたが。
ルーズベルト大統領が現職中に逝去されたことから、副大統領のトルーマンがアメリカ大統領に昇格したことで、凄惨な戦争は破滅を生み出しながらも終結に至りました。
誰がアメリカ大統領に選ばれるかはアメリカ国民にとっても死活問題のようですが、選挙権を持っている方々には世界の平和も考慮して、冷静に選んで欲しいと願うばかりです。
☆被爆2世が語る平和記念日と世界史☆
May the world be filled with peace and happiness.
(世界が平和と幸福で満たされますように)
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