改めまして、自己紹介。〔人生前半の記録〕
貴重なご縁に感謝いたします。
以下、あまり略してない略歴を。
※この記事の日付は最終更新日です。
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最近している事
自然派ネットコンビニ『Good&News』即席店主
生い立ち
【2000年代】(~2009年まで)
2009年8月
ゆる体操準指導員試験2級合格
2009年6月
アルバイトを完全に辞めて
自宅療養生活を開始。
2009年5月
それまで音信不通にしていた母へ詫びを入れ、
実家に戻る。
2008年の誕生日に求人面接を受けて入社した職場で、
夏頃から本格的に化学物質過敏症を発症。
「右を向いて左を見たら、もう右のことがわからない」
まだらボケ状態にも見舞われ、
日常生活で普通のことを当たり前にこなすのが
難しくなる。
コールセンターのフルタイムバイト+
つなぎの短期バイトを7か所ほど経験。
アクアプレイスでナレーションの勉強は続けたものの、
タバコの煙をはじめケミカルなものを回避きしれない仕事で
収入を得ることに疑問を感じ、
仕事がいただけるようになる前に受講をやめる。
この頃から、通名『日野由乃香』を使い始める。
敷金・礼金・保証人不要のアパートを探して
阿佐ヶ谷へ転居。
このとき、荷物はすべて手運びでした。
(1週間ぐらいかかった)
それまで住んでいたゲストハウスの建物が老朽化していて、
台風が来たとき2階で寝ていたら
震度4ぐらいの揺れを体感したので、
引越しを決意。
東京アナウンスアカデミー
CM・ナレータープロ育成コース修了。
2004年7月頭~大塚のゲストハウスに住む。
一戸建ての個室を専用出来るタイプで、
台所・トイレ・シャワー・洗濯機が共用。
(洗濯はコインランドリーを使ってました)
2004年6月
某大手コールセンターのフルタイムバイトにありつく。
某ampmでは、賞味期限切れのお弁当類を
1か月以上の間ずっと分けてもらってました。
当時の店長は、今でも心の父です。
(対外的にまずいので店名等はあえて伏せますが)
自殺を覚悟するも、周りの人が親切すぎて断念。
日雇い単発のワンコールワーカー工場内軽作業等で
日銭が入るとネットカフェ
→なくなると恵比寿駅の地下鉄入り口階段で雨風をしのぐ。
駅ビル内のスペースで居眠りこいてたら
警備員さんに病気と間違われて
「大丈夫ですか?」
と声をかけられたり。
広尾の都営アパートで生活保護を受けて暮らしてる人に
キュウリ1本まるごと貰ったり。
この頃、入所間もなかったテアトルアカデミーを中退。
2004年5月28日(金)
第31回 NHK古典芸能鑑賞会@NHKホールで
『五節舞』舞人を務めたのを最後に、
それまでの人間関係を全部断ち捨てて蒸発失踪。
この頃、身長163センチで
自分史上最軽量の体重43kgを記録する。
荷物を恵比寿のトランクルームに預けて
神田大明神の軒下等で夜を明かす
プチホームレス生活を開始。
2004年4月末、
無一文で最低限の身の回り品だけ持ち出し
実家を離れる。
幼少時からの化学物質過敏&電磁波過敏体質で
人並みの体調を保つための食材・衣類その他日用品に要するものと
音楽関係の活動を続けるためにかかる費用の負担と、
それらをやり繰りしてもなお
“一般大多数の人にとって普通の対人関係”の場に加わることで
避けて通れないタバコをはじめとする化学物質の曝露により、
心身ともに甚だ疲弊した。
試食・試飲のデモンストレーター/
宣伝チラシorティッシュ配り/
分譲マンションのモデルルーム該当案内等の単発バイトをしながら、
古典雅楽の演奏活動を大学の人脈頼りで細々と続ける。
2003年(平成15年)
東京芸術大学音楽学部邦楽科
雅楽龍笛専攻卒業。
副科はバロックオーボエで三宮正満先生、
バロックフルートで前田りり子先生にお世話になりました!
大学3年次、
芝祐靖先生の定年退官を筆頭に
雅楽担当教官の総入れ替えが行われる。
→雅楽を始めたルーツである伶楽舎をはじめ
学校での指導教官以外の演奏団体に関与することを差し止められる。
(演奏会の受付手伝い等も一切禁止)
もともとやりたかった創作方面と
古典本来の美意識の探求が両立出来ない現実に直面。
生活費やコンサート鑑賞等の費用を捻出するため
キャバクラバイトも掛け持ちしていて、
睡眠不足で課題に向かう時間もなくなる。
↑この頃に浴びまくったタバコの煙等も、
後に化学物質過敏症を発症した一因と思われる。
当時発売された●ァブリーズが雅楽部屋でも使われ始め、
他の人が何ともないのに
1人だけ気管支炎の症状に見舞われ、
約1ヶ月もの間、咳が止まらず苦しんだりもした。
大学2年次まで景 友乃加(けい・ゆのか)のクレジットで
コンピレーションアルバム『tokyo species』に参加。
また、
『Chance Co-Operation』
『くじを恨んで人を恨まず』
『分化の非』等にパフォーマンスアート参加。
大学入学後は興味最優先で座学や美大の集中講座に現をぬかし、
「専攻実技がいちばん苦手」
「古典雅楽がいちばん理解出来ない」
という事態に悩む。
【1990年代】
1999年(平成11年)
東京芸術大学音楽学部邦楽科
雅楽龍笛専攻に入学。
実技専攻は龍笛・高麗笛・箏・打物・左舞。
龍笛を笹本武志氏、越後眞美氏らに師事。
ホテルセンチュリーサザンタワー等で配膳バイトをしながら
1年間の浪人フリーター生活。
専門学校東京ミュージック&メディアアーツ尚美
作曲部門現代音楽専攻卒業。
(課題が追いつかず、当時の先生方には相当ご面倒をおかけしました)
佛教大学社会学部社会学専攻(通信課程)は
卒論のみ残して2年修了。
楽器演奏と雅楽の音楽理論の双方を掘り下げたい意味で
東京芸大雅楽専攻への進学を決意。
雅楽の
「陰陽五行説に裏打ちされていて、様式美優先で絶対音楽的」
→恋愛をはじめ感情の機微に疎くても、
音楽そのものの美意識だけ究めれば
やっていけそうなところに魅力を感じる。
もとより
「日本的・和風な素材を活かして斬新な創作活動をしたい」
という希望から作曲志願が始まったため、
和の素材として雅楽を選ぶ方向性が決まる。
1996年(平成8年)11月11日(月)
中野区役所にて戸籍名を『友乃加』に改名。
11月8日(金)
浦和家庭裁判所より改名の許可を受領。
この頃、日本音楽概論を担当していた
東京芸大楽理科出身の戸田紗織先生のご厚意で
芸大雅楽部を紹介していただき、龍笛を始める。
「これでやっと本格的に作曲が学べる!」
と思ったところ、学校側の方針は
「教えるのは専門コースまで、研究科はとにかく実際に作れ」
ということで進学直後に目標を失い、
燃え尽き症候群で鬱になる。
尚美学園の専門コース卒業後、
音楽社会研究コース作曲部門現代音楽専攻へ転科進学。
このぐらいの時期に、生田流箏曲を市橋京子氏に師事。
→初心者用の小曲を練習しただけで
血豆が出来る現実に耐えられず、挫折。
洋楽演奏もしやすい琴風式篠笛を、石高万紀子氏に師事。
→宮城曲は好きだったものの、江戸前な古典曲に興味が持てず、挫折。
専門学校東京コンセルヴァトアール尚美
専門コース電子楽器部門電子楽器専攻に入学。
第一志望は作曲部門電子楽器専攻だったが、
自宅にシンセサイザーもパソコンすらも持ってない未経験者のため
「作曲を勉強したいなら、商業音楽専攻だったら合格出来るよ」
と審査担当の先生に言われるも、
手段優先で第2志望に入る。
同年、佛教大学社会学部社会学科社会学専攻(通信課程)も履修開始。
↑専門学校卒業と同時に教職免許も取らせる『ダブルスクール』の制度があって、
サポート体制が充実していた。
高校3年の進路指導では
「推薦枠でどこの大学でも選べるよ」と担任に言われながら
大学進学に興味が持てず、
“就職前にやり残して後悔しそうなこと”を考えた結果、
音楽方面への進学を決意。
音大は経験的に無理なのが明らか
+当時アレンジャー&キーボーディストに憧れていたことから
コンピュータミュージックを学べる専門学校を狙う。
とにかく面倒がなく高卒資格を得るということだけ考えて進学したため、
勉強に関しては惰性で過ごして首位から脱落。
それでも、入学式の新入生代表の言葉
→卒業式の在校生代表の言葉
→→卒業式の卒業生の言葉を務め、
3年連続壇上に立つ。
実際には学生時代の中でも恵まれた部類の佳き日々を過ごす。
★ユニークな先生が多くて面白かった。
★当時「自由の井草」と謳われただけあって、
最初の1年は中学時代の制服をそのまま着続けて通うような奴でも
ふつうにクラスの中にいて過ごせた。
昼休みにホットプレートを持ち込んで焼肉やって、
午後の授業の先生に
「この教室は、ずいぶん香ばしい匂いがしますねぇ」
と言われるようなクラスメイトもいた。
卒業式には卒業証書授与で自分のクラスの番が来ると、ウェーブをやるのが基本。
+バカ殿とか着ぐるみ系のコスプレで参列する人もいるのが恒例だった。
卒業式のコスプレまではやってはいないけど、
文化祭で『男装女装コンテスト』があったとき
丸刈り坊主&作務衣姿で参加し、1位獲得。
(ちなみに商品はペットボトルの水1.5リットルだった)
★図書委員を2年間務めたが、先輩方との関係も円満だった。
★司書の先生が寛容で、図書室の本の貸出手続きをペンネームでさせてもらっていた。
(この頃から、通名『友乃加(ゆのか)』を名乗り始める)
★校歌が8分の6拍子。
芥川也寸志作曲による校歌と思えない端麗な旋律は、未だに自慢♪
都立井草高等学校へ進学。
中学3年の進路決定の時期に
「うちは母子家庭だから、お金がない」
という母の愚痴を真に受けて中卒就職を希望するも、
「今どき高校に行かないのは、どこの高校を受験しても落ちる奴だけ。
将来のためにどこでもいいから、とりあえず進学しなさい」
という担任の指導に負けて断念。
体面的に当たり障りの無さそうな
「自宅から近い」
「通勤ラッシュに巻き込まれない」
「体育会系ではない」
「偏差値50以上」
なおかつ学費の安い都立を単願するということで
かなり投げやりに進路決定。
中学時代の成績は、偏差値64~69。
教科によっては70を超えた。
【1980年代】
中学2年生の夏頃からテクノポップユニット
『radish』の吉村龍太氏に傾倒し、
アルバム収録曲を弾けるようになりたいがため
ピアノを習い始める。
音楽担当の先生から、
同じ中学出身の音大生で
当時の国立(くにたち)音大教育II類に在籍していた
堀江敏子さんを紹介してもらう。
YMOファンでガムランサークルに所属されていた影響を受け、
ワールドミュージックに興味関心を持つようになる。
※ピアノ指導は先生のご結婚に伴う転居により、高校進学後に終了。
中野区立第八中学校へ入学。
この頃に般若心経を覚える。
先輩後輩の上下関係が変なところで厳しい校風に耐えられず、
卒業まで帰宅部を通す。
公社鷺宮西住宅への転居を機に、中野区立西中野小学校へ転校。
校舎の構造がロの字型で、子供心に
「建物の氣が良くなさそう。大丈夫かな?」
と心配しつつ、大した事件は無く卒業。
鼓笛隊の活発な学校で、
6年生は3班に分かれて
1つの班が打楽器類+α、残りがリコーダーという編成で
朝礼後に教室へ帰る行進曲の伴奏等をやっていた。
持ち楽器を決める際、見た目のカッコ良さで副指揮を希望するも
「副指揮は楽器が出来ない子の役目だから、あなたにはもったいない」
と音楽教諭に言われ、
第2希望だった3班のベルリラに加えて
全く想定していない2班のアコーディオンも担当。
(つまり担当する楽器が毎回変わった)
放送委員で放送室に置いてあったナレーションの本に興味を持ち、
他のみんなが見向きもしない中
ひとりで「アエイウエオアオ」等とやっていた。
(∴6年生のときの担任が鼻濁音の発音がきれいな人だと気付いたのも、この頃)
小学2年~3年次くらいに
母の勧めで家庭用電子治療器に当たり、
電磁波過敏体質を獲得。
その後、市販の台所用洗剤で指先がヒビ割れたり
シャンプー・ボディーソープ類で皮膚がクレーターのようにめくれ上がるような、
合成界面活性剤の毒性による症状が現れ出す。
練馬区立豊玉南小学校へ入学。
同時に学童クラブへ入所。
最初の1年は上級生から
「下の名前が似ていてムカつく」
という理由でイジメに遭う。
↑
後にこれが戸籍名を変える理由の1つとなる。
【1970年代(昭和50年代)】
生後1年程で豊玉保育園ひよこ組に入所。
以降、チューリップ→ことり→すみれ→ひまわり組まで過ごし、卒園。
東京都練馬区中村南、今は亡き西武中央診療所で生まれる。
「本当は出たくないけど、
これ以上おなかの中で大きくなっちゃうと
つかえて出られなくなるよなぁ~。
しょーがないか...」
と思いつつ世に来た記憶が
あるようなないような。
幼名:操(みさお)
後に改名するも、
「名は体を表す」性格はしっかり引き継がれる。
生まれた時点から母1人子1人のまま、
10才の8月まで母子寮で育つ。
※ちなみに、私の戸籍に性別はありません。
この上なくMz.ダンディになりやすい条件に恵まれましたが、
男社会で逞しく渡り合う氣になれず
性転換したいと思うほどの不満も無かったため断念しました。
中学~大学時代にかけて、一部の女友達からは
「彼氏にしたいキャラ」と言われ続けたこともあり。
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ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
以下、あまり略してない略歴を。
※この記事の日付は最終更新日です。
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最近している事
自然派ネットコンビニ『Good&News』即席店主
生い立ち
【2000年代】(~2009年まで)
2009年8月
ゆる体操準指導員試験2級合格
2009年6月
アルバイトを完全に辞めて
自宅療養生活を開始。
2009年5月
それまで音信不通にしていた母へ詫びを入れ、
実家に戻る。
2008年の誕生日に求人面接を受けて入社した職場で、
夏頃から本格的に化学物質過敏症を発症。
「右を向いて左を見たら、もう右のことがわからない」
まだらボケ状態にも見舞われ、
日常生活で普通のことを当たり前にこなすのが
難しくなる。
コールセンターのフルタイムバイト+
つなぎの短期バイトを7か所ほど経験。
アクアプレイスでナレーションの勉強は続けたものの、
タバコの煙をはじめケミカルなものを回避きしれない仕事で
収入を得ることに疑問を感じ、
仕事がいただけるようになる前に受講をやめる。
この頃から、通名『日野由乃香』を使い始める。
敷金・礼金・保証人不要のアパートを探して
阿佐ヶ谷へ転居。
このとき、荷物はすべて手運びでした。
(1週間ぐらいかかった)
それまで住んでいたゲストハウスの建物が老朽化していて、
台風が来たとき2階で寝ていたら
震度4ぐらいの揺れを体感したので、
引越しを決意。
東京アナウンスアカデミー
CM・ナレータープロ育成コース修了。
2004年7月頭~大塚のゲストハウスに住む。
一戸建ての個室を専用出来るタイプで、
台所・トイレ・シャワー・洗濯機が共用。
(洗濯はコインランドリーを使ってました)
2004年6月
某大手コールセンターのフルタイムバイトにありつく。
某ampmでは、賞味期限切れのお弁当類を
1か月以上の間ずっと分けてもらってました。
当時の店長は、今でも心の父です。
(対外的にまずいので店名等はあえて伏せますが)
自殺を覚悟するも、周りの人が親切すぎて断念。
日雇い単発のワンコールワーカー工場内軽作業等で
日銭が入るとネットカフェ
→なくなると恵比寿駅の地下鉄入り口階段で雨風をしのぐ。
駅ビル内のスペースで居眠りこいてたら
警備員さんに病気と間違われて
「大丈夫ですか?」
と声をかけられたり。
広尾の都営アパートで生活保護を受けて暮らしてる人に
キュウリ1本まるごと貰ったり。
この頃、入所間もなかったテアトルアカデミーを中退。
2004年5月28日(金)
第31回 NHK古典芸能鑑賞会@NHKホールで
『五節舞』舞人を務めたのを最後に、
それまでの人間関係を全部断ち捨てて蒸発失踪。
この頃、身長163センチで
自分史上最軽量の体重43kgを記録する。
荷物を恵比寿のトランクルームに預けて
神田大明神の軒下等で夜を明かす
プチホームレス生活を開始。
2004年4月末、
無一文で最低限の身の回り品だけ持ち出し
実家を離れる。
幼少時からの化学物質過敏&電磁波過敏体質で
人並みの体調を保つための食材・衣類その他日用品に要するものと
音楽関係の活動を続けるためにかかる費用の負担と、
それらをやり繰りしてもなお
“一般大多数の人にとって普通の対人関係”の場に加わることで
避けて通れないタバコをはじめとする化学物質の曝露により、
心身ともに甚だ疲弊した。
試食・試飲のデモンストレーター/
宣伝チラシorティッシュ配り/
分譲マンションのモデルルーム該当案内等の単発バイトをしながら、
古典雅楽の演奏活動を大学の人脈頼りで細々と続ける。
2003年(平成15年)
東京芸術大学音楽学部邦楽科
雅楽龍笛専攻卒業。
副科はバロックオーボエで三宮正満先生、
バロックフルートで前田りり子先生にお世話になりました!
大学3年次、
芝祐靖先生の定年退官を筆頭に
雅楽担当教官の総入れ替えが行われる。
→雅楽を始めたルーツである伶楽舎をはじめ
学校での指導教官以外の演奏団体に関与することを差し止められる。
(演奏会の受付手伝い等も一切禁止)
もともとやりたかった創作方面と
古典本来の美意識の探求が両立出来ない現実に直面。
生活費やコンサート鑑賞等の費用を捻出するため
キャバクラバイトも掛け持ちしていて、
睡眠不足で課題に向かう時間もなくなる。
↑この頃に浴びまくったタバコの煙等も、
後に化学物質過敏症を発症した一因と思われる。
当時発売された●ァブリーズが雅楽部屋でも使われ始め、
他の人が何ともないのに
1人だけ気管支炎の症状に見舞われ、
約1ヶ月もの間、咳が止まらず苦しんだりもした。
大学2年次まで景 友乃加(けい・ゆのか)のクレジットで
コンピレーションアルバム『tokyo species』に参加。
また、
『Chance Co-Operation』
『くじを恨んで人を恨まず』
『分化の非』等にパフォーマンスアート参加。
大学入学後は興味最優先で座学や美大の集中講座に現をぬかし、
「専攻実技がいちばん苦手」
「古典雅楽がいちばん理解出来ない」
という事態に悩む。
【1990年代】
1999年(平成11年)
東京芸術大学音楽学部邦楽科
雅楽龍笛専攻に入学。
実技専攻は龍笛・高麗笛・箏・打物・左舞。
龍笛を笹本武志氏、越後眞美氏らに師事。
ホテルセンチュリーサザンタワー等で配膳バイトをしながら
1年間の浪人フリーター生活。
専門学校東京ミュージック&メディアアーツ尚美
作曲部門現代音楽専攻卒業。
(課題が追いつかず、当時の先生方には相当ご面倒をおかけしました)
佛教大学社会学部社会学専攻(通信課程)は
卒論のみ残して2年修了。
楽器演奏と雅楽の音楽理論の双方を掘り下げたい意味で
東京芸大雅楽専攻への進学を決意。
雅楽の
「陰陽五行説に裏打ちされていて、様式美優先で絶対音楽的」
→恋愛をはじめ感情の機微に疎くても、
音楽そのものの美意識だけ究めれば
やっていけそうなところに魅力を感じる。
もとより
「日本的・和風な素材を活かして斬新な創作活動をしたい」
という希望から作曲志願が始まったため、
和の素材として雅楽を選ぶ方向性が決まる。
1996年(平成8年)11月11日(月)
中野区役所にて戸籍名を『友乃加』に改名。
11月8日(金)
浦和家庭裁判所より改名の許可を受領。
この頃、日本音楽概論を担当していた
東京芸大楽理科出身の戸田紗織先生のご厚意で
芸大雅楽部を紹介していただき、龍笛を始める。
「これでやっと本格的に作曲が学べる!」
と思ったところ、学校側の方針は
「教えるのは専門コースまで、研究科はとにかく実際に作れ」
ということで進学直後に目標を失い、
燃え尽き症候群で鬱になる。
尚美学園の専門コース卒業後、
音楽社会研究コース作曲部門現代音楽専攻へ転科進学。
このぐらいの時期に、生田流箏曲を市橋京子氏に師事。
→初心者用の小曲を練習しただけで
血豆が出来る現実に耐えられず、挫折。
洋楽演奏もしやすい琴風式篠笛を、石高万紀子氏に師事。
→宮城曲は好きだったものの、江戸前な古典曲に興味が持てず、挫折。
専門学校東京コンセルヴァトアール尚美
専門コース電子楽器部門電子楽器専攻に入学。
第一志望は作曲部門電子楽器専攻だったが、
自宅にシンセサイザーもパソコンすらも持ってない未経験者のため
「作曲を勉強したいなら、商業音楽専攻だったら合格出来るよ」
と審査担当の先生に言われるも、
手段優先で第2志望に入る。
同年、佛教大学社会学部社会学科社会学専攻(通信課程)も履修開始。
↑専門学校卒業と同時に教職免許も取らせる『ダブルスクール』の制度があって、
サポート体制が充実していた。
高校3年の進路指導では
「推薦枠でどこの大学でも選べるよ」と担任に言われながら
大学進学に興味が持てず、
“就職前にやり残して後悔しそうなこと”を考えた結果、
音楽方面への進学を決意。
音大は経験的に無理なのが明らか
+当時アレンジャー&キーボーディストに憧れていたことから
コンピュータミュージックを学べる専門学校を狙う。
とにかく面倒がなく高卒資格を得るということだけ考えて進学したため、
勉強に関しては惰性で過ごして首位から脱落。
それでも、入学式の新入生代表の言葉
→卒業式の在校生代表の言葉
→→卒業式の卒業生の言葉を務め、
3年連続壇上に立つ。
実際には学生時代の中でも恵まれた部類の佳き日々を過ごす。
★ユニークな先生が多くて面白かった。
★当時「自由の井草」と謳われただけあって、
最初の1年は中学時代の制服をそのまま着続けて通うような奴でも
ふつうにクラスの中にいて過ごせた。
昼休みにホットプレートを持ち込んで焼肉やって、
午後の授業の先生に
「この教室は、ずいぶん香ばしい匂いがしますねぇ」
と言われるようなクラスメイトもいた。
卒業式には卒業証書授与で自分のクラスの番が来ると、ウェーブをやるのが基本。
+バカ殿とか着ぐるみ系のコスプレで参列する人もいるのが恒例だった。
卒業式のコスプレまではやってはいないけど、
文化祭で『男装女装コンテスト』があったとき
丸刈り坊主&作務衣姿で参加し、1位獲得。
(ちなみに商品はペットボトルの水1.5リットルだった)
★図書委員を2年間務めたが、先輩方との関係も円満だった。
★司書の先生が寛容で、図書室の本の貸出手続きをペンネームでさせてもらっていた。
(この頃から、通名『友乃加(ゆのか)』を名乗り始める)
★校歌が8分の6拍子。
芥川也寸志作曲による校歌と思えない端麗な旋律は、未だに自慢♪
都立井草高等学校へ進学。
中学3年の進路決定の時期に
「うちは母子家庭だから、お金がない」
という母の愚痴を真に受けて中卒就職を希望するも、
「今どき高校に行かないのは、どこの高校を受験しても落ちる奴だけ。
将来のためにどこでもいいから、とりあえず進学しなさい」
という担任の指導に負けて断念。
体面的に当たり障りの無さそうな
「自宅から近い」
「通勤ラッシュに巻き込まれない」
「体育会系ではない」
「偏差値50以上」
なおかつ学費の安い都立を単願するということで
かなり投げやりに進路決定。
中学時代の成績は、偏差値64~69。
教科によっては70を超えた。
【1980年代】
中学2年生の夏頃からテクノポップユニット
『radish』の吉村龍太氏に傾倒し、
アルバム収録曲を弾けるようになりたいがため
ピアノを習い始める。
音楽担当の先生から、
同じ中学出身の音大生で
当時の国立(くにたち)音大教育II類に在籍していた
堀江敏子さんを紹介してもらう。
YMOファンでガムランサークルに所属されていた影響を受け、
ワールドミュージックに興味関心を持つようになる。
※ピアノ指導は先生のご結婚に伴う転居により、高校進学後に終了。
中野区立第八中学校へ入学。
この頃に般若心経を覚える。
先輩後輩の上下関係が変なところで厳しい校風に耐えられず、
卒業まで帰宅部を通す。
公社鷺宮西住宅への転居を機に、中野区立西中野小学校へ転校。
校舎の構造がロの字型で、子供心に
「建物の氣が良くなさそう。大丈夫かな?」
と心配しつつ、大した事件は無く卒業。
鼓笛隊の活発な学校で、
6年生は3班に分かれて
1つの班が打楽器類+α、残りがリコーダーという編成で
朝礼後に教室へ帰る行進曲の伴奏等をやっていた。
持ち楽器を決める際、見た目のカッコ良さで副指揮を希望するも
「副指揮は楽器が出来ない子の役目だから、あなたにはもったいない」
と音楽教諭に言われ、
第2希望だった3班のベルリラに加えて
全く想定していない2班のアコーディオンも担当。
(つまり担当する楽器が毎回変わった)
放送委員で放送室に置いてあったナレーションの本に興味を持ち、
他のみんなが見向きもしない中
ひとりで「アエイウエオアオ」等とやっていた。
(∴6年生のときの担任が鼻濁音の発音がきれいな人だと気付いたのも、この頃)
小学2年~3年次くらいに
母の勧めで家庭用電子治療器に当たり、
電磁波過敏体質を獲得。
その後、市販の台所用洗剤で指先がヒビ割れたり
シャンプー・ボディーソープ類で皮膚がクレーターのようにめくれ上がるような、
合成界面活性剤の毒性による症状が現れ出す。
練馬区立豊玉南小学校へ入学。
同時に学童クラブへ入所。
最初の1年は上級生から
「下の名前が似ていてムカつく」
という理由でイジメに遭う。
↑
後にこれが戸籍名を変える理由の1つとなる。
【1970年代(昭和50年代)】
生後1年程で豊玉保育園ひよこ組に入所。
以降、チューリップ→ことり→すみれ→ひまわり組まで過ごし、卒園。
東京都練馬区中村南、今は亡き西武中央診療所で生まれる。
「本当は出たくないけど、
これ以上おなかの中で大きくなっちゃうと
つかえて出られなくなるよなぁ~。
しょーがないか...」
と思いつつ世に来た記憶が
あるようなないような。
幼名:操(みさお)
後に改名するも、
「名は体を表す」性格はしっかり引き継がれる。
生まれた時点から母1人子1人のまま、
10才の8月まで母子寮で育つ。
※ちなみに、私の戸籍に性別はありません。
この上なくMz.ダンディになりやすい条件に恵まれましたが、
男社会で逞しく渡り合う氣になれず
性転換したいと思うほどの不満も無かったため断念しました。
中学~大学時代にかけて、一部の女友達からは
「彼氏にしたいキャラ」と言われ続けたこともあり。
.:*゜..:。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.*゜
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。