オイルライター | 旅ノカケラ

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@人生は先がわからないから、面白い。
@そして、人生は旅のようなもの。
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zippo


 古いオイルライターがある。
 表面に施されている塗装はすっかり剥げ落ちて、真鍮がむき出しになっている。煙草に火をつけるその目的だけに何年も使われ続け、今では、手のひらと指が触れるところは磨けあげたようにぴかぴかに光り、他の部分はくすんで光を失っていた。一見するとただの古ぼけたライターにしかみえない。
 男はオイルライターを長年使い続けてきた。そして、よく失くす。本人は失くすつもりがなくても、気がつけば、いつの間にかなくなっている。不思議なことに、このオイルライターは彼のもとから消えずに手元に残っている。
 男が5年ほど禁煙をしていたある日のこと。ひょんなことから煙草を吸おうとしたが、火をつけるライターがない。そういえば、あのオイルライターがったはず。部屋の中のあらゆるところをひっくり返したら、オイルライターが出てきた。真鍮はくすみ、手に取ると表面はざらついていた。オイルライターのうわぶたを開けるとカンッと甲高い音が静かな部屋に広がった。そして、オイルライターのケースから本体を引っ張り出して、底に敷き詰められているフェルトをめくり、オイルを注ぎ込んだ。脱脂綿にじゅうぶんオイルがしみこんだのを見計らって、本体をケースに押し込んだ。そして、一回、二回と度着火用のホイールを指で回してみたが、空しく火花が散るだけで火がつかなかった。三度目。ジュポッと音がして小さな炎が立ちのぼり、ほのかなオイルの匂いが鼻腔をくすぐった。何年も使われていなかったにもかかわらず、必要なときに働いてくれる道具。単純な機能だからこそかもしれない。
 男はたまに旅に出ることがある。でも、オイルライターは持っていかない。失くすことが恐いのではなく、強風と寒さと雨に弱いことを知っているからだ。確かに少しぐらいの風でも問題なく着火してくれる。しかし、強風で運良く着火してくれても炎は横になり、最も悪い条件では炎が下の方へ広がりとてもライターを持っていられないときがある。しかも、オイルライターが着火するにはオイルが揮発されなければならず、寒いときはまったく着火できない。冷たくなったライターを懐へ忍ばせ人肌になった頃にやっと着火できるようになる。雨の中でもいったん火がつけば、多少の雨でも消えることはないが、問題なのは着火用のホイールと石が雨に濡れてしまうとまったく火がつかない。雨に強いオイルライターでも雨に濡らさないことが必要になってくる。面倒なことに常にオイル缶を携帯しなければならず、少しでも荷物を減らしたい旅には向いていない。この男が旅に持っていくライターは使い捨てのガスライターとなる。なんといっても小さく軽い。面倒なオイル缶も不要。ガスライターはちょっとでも風があればなかなか火がつかない。そこで男はジャケットの前合わせを片手でつかみ、もう一方の手でジャケットの内側にライターを持っていき、風を避けるように着火させる。ガスライターはオイルライターと同様に着火用のホイールと石が雨に濡れてしまうとまったく着火できなくなる。だから、雨の日はチャックつきのビニール袋に入れることにしている。雨の中でずぶ濡れになって火を使うことはまったくない。だから、安心してビニール袋からガスライターを取り出して使うことができる。
 男がこのオイルライターを使い始めてから、もう10年以上経っている。くすんだ輝きのないライターほど人を魅了するのか。男が煙草に火をつけたとき近くにいた男の視線を感じることがある。目が合うと、相手の男が言った。
 「フタを跳ね上げるときや閉まるときの音がいいっすね」
 「そお?」
椅子に座って煙草を吸いながら目の前のテーブルの上に煙草とオイルライターを置いていたとき近くを通りかかった男の視線を感じることがある。顔を上げて目が合うと、相手の男が言った。
 「ずいぶん使い込んでいて高そうなライターですね」
 「そお?」
ディスカウントショップで三千円もしないで買った安物も時間が経てば、貫禄が増すようだ。いつものようにフタを開け、いつものように着火用のホイールをまわし、いつものようにフタを閉じる。その繰り返しを続けて、何もかもがいつものごとく変わらず変化していない。音もオイルの漂う匂いも炎も、すべて。だから、男にはどうして他の人がこのオイルライタに価値を見出すのかわからない。休憩中に同席した男たちがかわるがわるオイルライターを貸してくれと言って煙草に火をつけていく。どの男も満足したような顔をして煙草の煙をひと吐きして、ありがとうと言ってオイルライターを男に返す。
 ある日、仕事の合間に男はオイルライターを見つめていた。何を思ったのか金属磨き粉を取り出して、ライターを磨き始めた。くすんだ表面が輝きを取り戻し、少しづつ鏡のようになっていく。少し粉をつけては少し布で磨き、男は単純な作業に没頭していく。やがて、休憩時間をいっぱい使って丁寧に磨き上げた。指紋がつかないようにかどを持ち、そっと引き出しにしまいこんだ。一日の仕事を終えて、煙草に火をつけようと昼間に丹念に磨き上げたオイルライターを取り出した。じゅうぶんに磨き上げたライターの表面がぴったり指に吸い付くような感じがした。煙草に火をつけ、テーブルの上にオイルライターを置いたとき、別の男が仕事を終えて部屋に入ってきた。いつもならば男にオイルライターを貸してくれとせがむのだが、テーブルの上のライターをチラッとみただけで通り過ぎてしまった。あくる日も誰も貸してくれとは言わなかった。その次の日も。
 それから一ヶ月経った。ずいぶんオイルライターがくすんできたからまた磨こうと男は思ったが、我慢した。ただオイルライターを磨く単純作業は無心になって、没頭するほど楽しいものだが、まだ磨くには早い。誰もが貸してくれと言うようになってから磨くことがもっと楽しい。