呉座勇一『陰謀の日本中世史』、「第六章 本能寺の変に黒幕はいたか」メモ。
【第一節 単独犯行説の紹介】
・本能寺の変の問題となるのは、明智光秀の動機。この問題を難しくしているのが、手掛かりの乏しさ。
…山崎の戦いで敗れ、重臣も命を落し、生き証人がいなくなった。
…自分に味方するように書状を送った筈だが、光秀が負けてしまったので、これもあまり残っていない。(証拠隠滅を図ったものと思われる)
・怨恨説の根拠とされる事件は全て江戸時代の俗書が創作したもので、歴史的事実はない。
・野望説が本格的に論ぜられるようになったのは戦後から。画期となったのは高柳光壽『明智光秀』(1958年)より。高柳の野望説を「一種の観念論であって、現実性に乏しい学説」と批判したのが桑田忠親『明智光秀』(1973年)。
・光秀勤王家説、光秀幕臣説にしても、織田信長を革新的な合理主義者、明智光秀を保守的な教養人と捉え、本能寺の変を守旧派による改革潰しと評価するが、光秀が保守的な人物だったという見方には明確な証拠がない。
【第二節 黒幕説の紹介】
①朝廷黒幕説
[概要]
・信長は自分に反抗的な正親町天皇を譲位させて皇太子誠仁親王の即位を計画。最終的には猶子にした五の宮を即位させ、自らは太上大臣になろうとしていた。
・信長最晩年の自己神格化も、五の宮を天皇、嫡男信忠を将軍とするための布石だった。
・朝廷内で誠仁親王、近衛前久、吉田兼見、勧修寺晴豊らによる反信長同盟が結成され、勤王家の光秀を誘って妥当信長を計画した。
[問題点]
・現在の主流学説は堀新氏の「公武結合王権論」であり、信長と朝廷の相互依存的関係が強調されている。信長の経済的援助により、危機に瀕していた朝廷の財政状況は劇的に改善された。朝廷が信長を敵視していたとは考えられず、むしろスポンサーである信長の歓心を買うことに必死だった。
・譲位圧力の一例として挙げられる、天正9年2月の馬揃は、お祭り的色彩が強かった。正親町天皇も喜び、再度開催するよう要請している。
・織田信長が天皇権威を超越しようとした証拠として掲げられる”自己神格化”については、ルイス・フロイスの書簡および『日本史』にしか見えない。信長が驕り高ぶり自己神格化を図ったがゆえに全知全能の神デウスの怒りを買い非業の死を遂げた、というストーリーのでっちあげか?
・誠仁親王…本能寺の変の時、わざわざ危険な二条御所に留まっていたのは、謀反を知らなかったことを示唆する。
・近衛前久…明智軍が前久邸から二条御所を銃撃したが、不可抗力と見るべきであるし、信長から破格の知行を与えられていた前久が陰謀に関与する理由はない。
・吉田兼見…固有の武力を持たない朝廷・公家はその時々の京都支配大名に従うしかなく、変後の光秀との交渉も、陰謀に関与していた証拠にはならない。
・勧修寺晴豊…日記に「(斎藤利三は)信長打ち談合の衆なり」と記しているが、前後の記述より利三のことをよく知らない書きぶり。光秀に荷担する積極的な動機はなく、もし晴豊が計画に関与していたら、自分の悪事の証拠を残しておくはずがない。
②足利義昭黒幕説
[概要]
・京都追放後、足利義昭は「鞆幕府」という陣容を持ち、毛利輝元を副将軍に任命することで信長に対抗した。
・本能寺の変後の6月12日、明智光秀は紀伊雑賀衆の土橋平尉からの書状に対する返書で、足利義昭の京都復帰に尽力すると述べており、義昭が光秀に指令してクーデターを起こさせた。
・光秀は謀反を起こす前に、長宗我部元親・本願寺顕如・上杉景勝と連絡を取っており、義昭を奉じることで反信長勢力を糾合しようとしていた。
・朝廷は信長を将軍に任命する意向を示しており(=義昭の将軍解任)、光秀はこれを阻止するためにクーデターを起こした。
・朝廷黒幕説に比べて説得力を持つのは、義昭が信長を恨んでいたのは明白であり、対信長包囲網を築いた実績があるから。
[問題点]
・天正10年時点の足利義昭に、全国の反信長勢力を糾合するほどの力があったのか。
・光秀が義昭と提携する最大の目的は、義昭を通じて毛利氏を動かし、秀吉を中国地方に釘付けにすることであろうに、毛利氏は中国大返しの際、秀吉を追撃していない。
・信長は「将軍になる」とは言っていない。
・土橋平尉宛て書状には「上意馳走申し付けられて示し給い、快然に候、然而、御入洛事、即ち御請け申し上げ候」と書かれているが、「以前に」という意味の言葉は含まれていない。さらに言えば、光秀が義昭の上洛に協力すると既に返事をしているにもかかわらず、土橋が「将軍家のご入洛にご協力下さい」と光秀に依頼するのは不可解。
・6月9日の細川藤孝宛書状にも足利義昭の名前は出てこない。
・陰謀の事前連絡は危険すぎる。上杉景勝との連携を裏付ける直江兼続宛て河隅忠清書状は一次史料ではあるが6月3日付という日付はあまり当てにならない上(柴田が撤退した6月8日以後では?)、5月末に織田方によって包囲されている魚津城に明智の密使が紛れ込むのは危険すぎる。上杉が味方してくれるとは限らないのに。
★実は乏しい共同謀議のメリット
”「信長はもうじき死ぬので、反撃準備を整えておけ」と家臣たちに触れ回るわけにもいかない。光秀が謀反計画を実行前に告白したとしても、上杉氏や毛利氏が事前にできることは少ないのである。
せいぜい事前通報のメリットは、追いつめられた上杉氏や毛利氏が早まって織田氏に降伏することを防ぐ、といった程度である。(中略)逆に彼らが明智光秀に対し事前に協力を約束していたとしても、約束を守る保証はどこにもない。もともと上杉景勝や毛利輝元は光秀とは全く面識がなく、彼らの間に信頼関係などない。織田領侵攻が難しいと判断すれば、織田家と光秀との戦いを静観し、有利な方につくだけである。”
③イエズス会黒幕説
[概要]
・イエズス会は南欧勢力によるアジア征服の尖兵を担っていた。
・イエズス会は信長の天下統一事業を軍事的・経済的に支援した。その目的は信長に中国を武力征服させ、キリスト教国にすることにあった。
・しかし信長は自己神格化を図るなど、イエズス会からの自立を志向するようになったため、イエズス会は光秀を動かして信長を討たせ、さらに秀吉を動かして光秀を討たせた。
[問題点]
・イエズス会が織田信長に軍事的・経済的な援助を行ったことを裏付ける史料が全く存在しない。
・イエズス会日本支部の財政は逼迫しており、とても信長の天下統一事業に資金援助するような余裕はなかった。
・本能寺の変後、オルガンティーノは途中で追いはぎに襲われたり、湖賊に財産を奪われたりと、散々な目に遭っている。
★黒幕説の特徴(出典『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』鈴木眞哉・藤本正行)
⑴黒幕が事件を起こした動機に触れても、黒幕とされる人物や集団が、どのようにして光秀を勧誘・説得したかの説明がない(光秀が同意せず、逆に信長に通報する恐れがある)。
⑵実行時期の見通しと、機密漏洩防止策への説明がない。
⑶光秀が謀反に同意しても、重臣たちへの説得をどうしたのかの説明がない。
⑷黒幕たちが、事件の前も後も、光秀の謀反を具体的に支援していない事への説明がない。
⑸決定的なことは、裏付け史料がまったくない。
④明智憲三郎説
[概要]
・織田信長が明智光秀に(中国出陣に偽装して)徳川家康を討つよう命じたところ、信長の政策に不満を持っていた光秀は家康と結び、逆に信長を殺した。
・謀反の動機―四国政策転換への反発・信長の唐入り計画の阻止
[問題点]
・天正十年六月の時点で、自らの信用を失墜させ家臣たちを動揺させてまで織田信長が家康を葬らなければならない積極的な理由が見当たらない。(関東平定のための手駒として利用する方が得策なのでは)
・「家康と重臣を一堂に集めて一挙に抹殺してから三河へ攻め込み、指揮能力を失った徳川軍を降伏させること」という信長の計画は可能なのか。明智光秀らが京都から三河まで遠征するには多くの労苦が伴う他、家康抹殺計画は陰謀なのでバックアップ不可能。
・信長が家康を殺そうとしていたという主張の、唯一の史料的根拠は『本城惣右衛門覚書』の記述のみ。
・信長は「家康が謀反を起こして自分を討とうとしたから返り討ちにした」と宣伝することで、家康抹殺を正当化しようとしたのではないか、と推測しているが、瞬く間に徳川領に侵攻しておいて、信長の言葉を信じる者がいるか?→織田政権の自壊を招く。
・光秀はどうやって家康を味方に引き込んだのか。明智憲三郎氏は、家康が五月十五~十七日に安土に逗留した際に、信長から饗応役を命じられていた光秀が直接会って談合したと説くが、信長のお膝元である安土で、光秀と家康が二人だけで密談することは極めて困難であり、危険ではないか。
・「東国織田軍や徳川家康の攻撃を防ぐためには、家康との同盟は不可欠」という明智説の前提は正しいのか。(秀吉以外)みな人間不信になって身動きがとれなかった→家康の協力なくして足止めは可能。明智氏のいうほど戦国時代は合理的なものではない。
・明智氏の主張は結局は「信長神話」の上に立っている。(※天才信長が騙される訳がない、天才信長が油断し光秀事気にあっけなく殺されるはずがない)実際の信長はそうではなく、弱点はあり隙もあった。明智光秀が己の才覚で信長を討ったことを殊更に訝る必要はない。