呉座勇一『陰謀の日本中世史』、「第六章 本能寺の変に黒幕はいたか」メモ。

 

【第一節 単独犯行説の紹介】

 

・本能寺の変の問題となるのは、明智光秀の動機。この問題を難しくしているのが、手掛かりの乏しさ。

…山崎の戦いで敗れ、重臣も命を落し、生き証人がいなくなった。

…自分に味方するように書状を送った筈だが、光秀が負けてしまったので、これもあまり残っていない。(証拠隠滅を図ったものと思われる)

 

・怨恨説の根拠とされる事件は全て江戸時代の俗書が創作したもので、歴史的事実はない。

 

・野望説が本格的に論ぜられるようになったのは戦後から。画期となったのは高柳光壽『明智光秀』(1958年)より。高柳の野望説を「一種の観念論であって、現実性に乏しい学説」と批判したのが桑田忠親『明智光秀』(1973年)。

 

・光秀勤王家説、光秀幕臣説にしても、織田信長を革新的な合理主義者、明智光秀を保守的な教養人と捉え、本能寺の変を守旧派による改革潰しと評価するが、光秀が保守的な人物だったという見方には明確な証拠がない。

 

 

【第二節 黒幕説の紹介】

 

①朝廷黒幕説

[概要]

・信長は自分に反抗的な正親町天皇を譲位させて皇太子誠仁親王の即位を計画。最終的には猶子にした五の宮を即位させ、自らは太上大臣になろうとしていた。

・信長最晩年の自己神格化も、五の宮を天皇、嫡男信忠を将軍とするための布石だった。

・朝廷内で誠仁親王、近衛前久、吉田兼見、勧修寺晴豊らによる反信長同盟が結成され、勤王家の光秀を誘って妥当信長を計画した。

 

[問題点]

・現在の主流学説は堀新氏の「公武結合王権論」であり、信長と朝廷の相互依存的関係が強調されている。信長の経済的援助により、危機に瀕していた朝廷の財政状況は劇的に改善された。朝廷が信長を敵視していたとは考えられず、むしろスポンサーである信長の歓心を買うことに必死だった。

・譲位圧力の一例として挙げられる、天正9年2月の馬揃は、お祭り的色彩が強かった。正親町天皇も喜び、再度開催するよう要請している。

・織田信長が天皇権威を超越しようとした証拠として掲げられる”自己神格化”については、ルイス・フロイスの書簡および『日本史』にしか見えない。信長が驕り高ぶり自己神格化を図ったがゆえに全知全能の神デウスの怒りを買い非業の死を遂げた、というストーリーのでっちあげか?

・誠仁親王…本能寺の変の時、わざわざ危険な二条御所に留まっていたのは、謀反を知らなかったことを示唆する。

・近衛前久…明智軍が前久邸から二条御所を銃撃したが、不可抗力と見るべきであるし、信長から破格の知行を与えられていた前久が陰謀に関与する理由はない。

・吉田兼見…固有の武力を持たない朝廷・公家はその時々の京都支配大名に従うしかなく、変後の光秀との交渉も、陰謀に関与していた証拠にはならない。

・勧修寺晴豊…日記に「(斎藤利三は)信長打ち談合の衆なり」と記しているが、前後の記述より利三のことをよく知らない書きぶり。光秀に荷担する積極的な動機はなく、もし晴豊が計画に関与していたら、自分の悪事の証拠を残しておくはずがない。

 

 

②足利義昭黒幕説

[概要]

・京都追放後、足利義昭は「鞆幕府」という陣容を持ち、毛利輝元を副将軍に任命することで信長に対抗した。

・本能寺の変後の6月12日、明智光秀は紀伊雑賀衆の土橋平尉からの書状に対する返書で、足利義昭の京都復帰に尽力すると述べており、義昭が光秀に指令してクーデターを起こさせた。

・光秀は謀反を起こす前に、長宗我部元親・本願寺顕如・上杉景勝と連絡を取っており、義昭を奉じることで反信長勢力を糾合しようとしていた。

・朝廷は信長を将軍に任命する意向を示しており(=義昭の将軍解任)、光秀はこれを阻止するためにクーデターを起こした。

 

・朝廷黒幕説に比べて説得力を持つのは、義昭が信長を恨んでいたのは明白であり、対信長包囲網を築いた実績があるから。

 

 

[問題点]

・天正10年時点の足利義昭に、全国の反信長勢力を糾合するほどの力があったのか。

・光秀が義昭と提携する最大の目的は、義昭を通じて毛利氏を動かし、秀吉を中国地方に釘付けにすることであろうに、毛利氏は中国大返しの際、秀吉を追撃していない。

・信長は「将軍になる」とは言っていない。

・土橋平尉宛て書状には「上意馳走申し付けられて示し給い、快然に候、然而、御入洛事、即ち御請け申し上げ候」と書かれているが、「以前に」という意味の言葉は含まれていない。さらに言えば、光秀が義昭の上洛に協力すると既に返事をしているにもかかわらず、土橋が「将軍家のご入洛にご協力下さい」と光秀に依頼するのは不可解。

・6月9日の細川藤孝宛書状にも足利義昭の名前は出てこない。

・陰謀の事前連絡は危険すぎる。上杉景勝との連携を裏付ける直江兼続宛て河隅忠清書状は一次史料ではあるが6月3日付という日付はあまり当てにならない上(柴田が撤退した6月8日以後では?)、5月末に織田方によって包囲されている魚津城に明智の密使が紛れ込むのは危険すぎる。上杉が味方してくれるとは限らないのに。

 

★実は乏しい共同謀議のメリット

”「信長はもうじき死ぬので、反撃準備を整えておけ」と家臣たちに触れ回るわけにもいかない。光秀が謀反計画を実行前に告白したとしても、上杉氏や毛利氏が事前にできることは少ないのである。

せいぜい事前通報のメリットは、追いつめられた上杉氏や毛利氏が早まって織田氏に降伏することを防ぐ、といった程度である。(中略)逆に彼らが明智光秀に対し事前に協力を約束していたとしても、約束を守る保証はどこにもない。もともと上杉景勝や毛利輝元は光秀とは全く面識がなく、彼らの間に信頼関係などない。織田領侵攻が難しいと判断すれば、織田家と光秀との戦いを静観し、有利な方につくだけである。”

 

 

③イエズス会黒幕説

[概要]

・イエズス会は南欧勢力によるアジア征服の尖兵を担っていた。

・イエズス会は信長の天下統一事業を軍事的・経済的に支援した。その目的は信長に中国を武力征服させ、キリスト教国にすることにあった。

・しかし信長は自己神格化を図るなど、イエズス会からの自立を志向するようになったため、イエズス会は光秀を動かして信長を討たせ、さらに秀吉を動かして光秀を討たせた。

 

[問題点]

・イエズス会が織田信長に軍事的・経済的な援助を行ったことを裏付ける史料が全く存在しない。

・イエズス会日本支部の財政は逼迫しており、とても信長の天下統一事業に資金援助するような余裕はなかった。

・本能寺の変後、オルガンティーノは途中で追いはぎに襲われたり、湖賊に財産を奪われたりと、散々な目に遭っている。

 

 

★黒幕説の特徴(出典『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』鈴木眞哉・藤本正行)

⑴黒幕が事件を起こした動機に触れても、黒幕とされる人物や集団が、どのようにして光秀を勧誘・説得したかの説明がない(光秀が同意せず、逆に信長に通報する恐れがある)。

⑵実行時期の見通しと、機密漏洩防止策への説明がない。

⑶光秀が謀反に同意しても、重臣たちへの説得をどうしたのかの説明がない。

⑷黒幕たちが、事件の前も後も、光秀の謀反を具体的に支援していない事への説明がない。

⑸決定的なことは、裏付け史料がまったくない。

 

 

④明智憲三郎説

[概要]

・織田信長が明智光秀に(中国出陣に偽装して)徳川家康を討つよう命じたところ、信長の政策に不満を持っていた光秀は家康と結び、逆に信長を殺した。

・謀反の動機―四国政策転換への反発・信長の唐入り計画の阻止

 

[問題点]

・天正十年六月の時点で、自らの信用を失墜させ家臣たちを動揺させてまで織田信長が家康を葬らなければならない積極的な理由が見当たらない。(関東平定のための手駒として利用する方が得策なのでは)

・「家康と重臣を一堂に集めて一挙に抹殺してから三河へ攻め込み、指揮能力を失った徳川軍を降伏させること」という信長の計画は可能なのか。明智光秀らが京都から三河まで遠征するには多くの労苦が伴う他、家康抹殺計画は陰謀なのでバックアップ不可能。

・信長が家康を殺そうとしていたという主張の、唯一の史料的根拠は『本城惣右衛門覚書』の記述のみ。

・信長は「家康が謀反を起こして自分を討とうとしたから返り討ちにした」と宣伝することで、家康抹殺を正当化しようとしたのではないか、と推測しているが、瞬く間に徳川領に侵攻しておいて、信長の言葉を信じる者がいるか?→織田政権の自壊を招く。

・光秀はどうやって家康を味方に引き込んだのか。明智憲三郎氏は、家康が五月十五~十七日に安土に逗留した際に、信長から饗応役を命じられていた光秀が直接会って談合したと説くが、信長のお膝元である安土で、光秀と家康が二人だけで密談することは極めて困難であり、危険ではないか。

・「東国織田軍や徳川家康の攻撃を防ぐためには、家康との同盟は不可欠」という明智説の前提は正しいのか。(秀吉以外)みな人間不信になって身動きがとれなかった→家康の協力なくして足止めは可能。明智氏のいうほど戦国時代は合理的なものではない。

・明智氏の主張は結局は「信長神話」の上に立っている。(※天才信長が騙される訳がない、天才信長が油断し光秀事気にあっけなく殺されるはずがない)実際の信長はそうではなく、弱点はあり隙もあった。明智光秀が己の才覚で信長を討ったことを殊更に訝る必要はない。

2017年、京都国立博物館であった海北友松展めっちゃよかったぞっていう…(遅い)

2015年頃から告知されてたキョーハク設立120周年記念展示で、当時よりめちゃくちゃ楽しみにしてました。

や……これだけ、海北友松の絵が集う機会ってのも中々ないですし、圧巻でした。

海北友松て前半生はっきりしないですし、中々謎が多い人なんですけど、彼の作品を見て、感じて、彼の人生に触れ合ったような心地がしたのを思い出します(※一年前)

初期と晩年で絵の雰囲気がガラッと変わるのも印象的でした。

音声ガイドもう一度聴きたい………

 

で、私の描いた上の絵なんですけど、行った人はわかる小ネタを色々散らしてます。

龍はいわずもがな、松の枝とか立て掛け書きとか平たい地面とか一部のみのほんのりとした色付けとか。

人間関係的にも、私の興味ありどころガッツリ取り上げて頂いて……ほんとに……

人間関係面での大きな収穫は、兼見卿記の記述よりはっきりと友松と幽斎の交流がわかった所ですかね。

2016年7月16日~31日に西米良村であった「西米良で名刀に出会う夏2016~刀匠の粋に酔いしれる日本刀の魅力~」のレポ漫画です

 

今井ふじ子『海北友松を歩く』まとめ。



【一 出会い】


・梅の枝は今にも紙を破らんばかり。屋根の稜線は剣先のように鋭い。竜は描き手の秘められた意志を伝えようとして咆哮しているかのよう。自己の思いに忠実とさえ思われる筆捌きは自由奔放でさえある。

・丸い線で衣装をぷうっと膨らませた人物を「袋人物」という。


・友松は長い間、友松寺といわれた建仁寺を中心に、絵のみで語る絵師として、その背景はほとんどわかっていなかった。ところが明治が終わるころ、京都海北家から『海北友松夫婦画像・賛』と『海北友松由緒記』及び『海北家家系図』が公された。


-『画像賛』

「居士、姓源、氏海北、名紹益、字友松、江州坂田郡ノ産」

浅井の重臣・海北善右衛門尉綱親の五男として生まれた

小谷城落城時、父兄は皆戦死したが友松だけは幼時から東福寺の喝食となっていたので難を逃れた

生来絵をよくし、東福寺の和尚が狩野永仙(元信)に師事させたところ、「余、何ゾ及バンカ」と嘆かせた

友松の本望は武道にあり(近江源氏の嫡流と呼ばれた武門を起てることにあり)

本能寺の変後註された斎藤利三の首級を、長槍をとって、真如堂塔頭の東陽坊長盛とともに奪回した話に多くの文字数を費やす

後陽成天皇をはじめ、信長、秀吉、家康と続く時の権力者たちに絵を賞賛され、多くの賞幣を下賜された


-『由緒記』

こちらでは三男

幼時より東福寺にあり

斎藤利三の首級奪取

父・綱親が利三の軍法の師であり、共に古田織部に茶を習ったこと、また友松が施薬院の茶会で秀吉にはじめて面識を得た際、父・綱親が秀吉の軍法の師であったことがわかったというのは、『由緒記』のみの記述

利三の娘・春日局との関係が半ば近く占めている:「斎藤内蔵助利三ノ御室ハ春日御局ノ御母公ナリ」ではじまり、友松が利三死後、その母娘の苦境を救ったこと、のち春日局が家光の乳母として江戸表へ出仕する際には、友松夫妻ともども世話したこと、友松亡きあと春日局が、後家妙貞と子息友雪を江戸表へ呼び寄せ、昔日の恩に報じたことが子細に記述されている




【二 生地】

滋賀県東浅井郡瓜生・珀清寺:海北友松の裔が住職をしている

友松画の墨絵の袋人物が描かれている「扇面流下絵押絵貼屏風(金地背景の扇画面の混在する六曲一双の屏風)」あり

友松の墓が付近の山裾の竹藪の中にあったが、大水が出た時に流れてしまい、行方知れず。ただ竹だけがよく繁るので、時々貰いに来る人に差し上げている。


海北家の外孫という人が、明治15年に一旦絶家となっていた海北家を興し、この人の養子が珀清寺のあとを継いで、海北の家は今は寺となって友松の生まれた里に残る。


海北顕英氏は、自らも画道を志された人だけあって、友松に対する思い入れは一通りでなく、友松に関するいくつかの著作がある。




【三 東福寺】


・臨済宗の定めた京都五山の一つ。1236年、九条道家によって創建。その後何度も焼亡の憂き目にあい、1346年の再建で寺観は漸く整えられた。しかし、1881年、仏殿と法堂、方丈、庫裏を焼失。現在の建物はその後漸次再建されたもの。ただ、三門と禅堂、東司だけは焼失を免れている。

・退耕菴:安国寺恵瓊の住持となって在住した塔頭。


・友松の孫・友竹が賛を書いたのは友松死後110年を経た1724年。京都海北家から発表されたのは明治の末。

・矛盾や誤りが多い!!!!!(それをもっとも調べ上げたのは近江海北家15代の顕英氏)

・『画像賛』の「江源ノ嫡流」、すなわち海北氏が近江源氏佐々木の出であることの否定(海北の名を見つけ出せず)

・海北綱親の戦死は小谷城落城時ではなく、それよりも38年も遡る浅井亮政の多賀城攻めの時。(郷土資料の『島記録』や『雨森文書』で確かめられる)

・小谷城落城時父兄皆戦死とあるが、次兄の次郎左衛門は生き延びて、現在の瓜生海北家へと続いている。

・『由緒記』:綱親は古田織部に茶道を習い、利三と秀吉の軍法の師であった⇒年代的に合わない!




【四 小谷城陥つ】


・1573年。友松40歳の時、小谷城が落城。


・亀井玆矩に友松はいつどこで相知る機会をもったのか?玆矩の仕えた尼子が、友松と同じ江州の出という繋がりしか見いだせない……

※亀井玆矩:雲州一円の覇者尼子の家臣、湯左衛門尉永綱の子として出雲に生まれた。玆矩は尼子再興を図る山中鹿之助に従い、各地で勇戦。鹿之助の娘を娶り、尼子の旧臣亀井能登守秀綱の家督を継いで亀井となる。鹿之助死後は秀吉の家中に入り、鹿野城主となり、武蔵守に。

・良馬を探してほしいと依頼し、気に入らないから返すほどの親しい間柄(『画像賛』)

…「因幡鹿野之館」の款記のある「飲中八仙図屏風」(京都博物館蔵)と、「進上亀井武蔵守様」と明記された「楼閣山水図屏風」(MOA美術館蔵)が残されている


・禅学をよく修めたことで、大徳寺の長老・春屋宗園に認められている(『画像賛』馬の話の続き)

・「還俗」という言葉はなし

・武士として立とうとした覚悟の上からも、一旦は離れようとした禅であったが、子供のときから纏っていた「禅」という衣は、そう簡単には脱ぎ捨てることはできなかった。再び同じ臨済宗の大徳寺で、禅学を修めていたと考えるのが妥当か。


・齋藤利三、東陽坊長盛とともに、千利休に茶の湯を学ぶ?

・三人が茶友であることは、長盛は利休の高弟であることや、二級資料『翁草』などから裏付けられる


・友松は和歌もよくしたことが画像賛に見える


・1577年、建仁寺291世住持梅仙東甫が、友松画に賛をしている⇒建仁寺の知遇を得ていたことを裏付ける

・1579年には安国寺恵瓊が退耕菴の住持に:のち建仁寺を再建して、その障壁画のすべてを友松に描かせる:恵瓊の東福寺への出入りは住持就任にさらに遡ると思われるから、友松とはとっくに東福寺のどこかで邂逅していたと考えられる:時代の激流に翻弄された者同士の深い連帯感のようなものがあったに違いない




【五 本能寺の変とその後】


・利三の首を奪い返す決行日が『画像賛』では6月20日夜。『由緒記』は6月17日夜。このことは『翁草』の「斎藤利三の墓」にいよいよ詳しく、東陽坊蔵の『記斎藤府君事』にも記録されている。

・当時の史料には事件については触れられず。

・利三の首の晒しものに耐えらえず、友松と長盛はその筋に然るべく話をつけて首級を貰い受け、長盛の寺の真如堂に手厚く葬ったというのが真相に近いのでは。


・『由緒記』によると、友松と長盛は、堅田に隠棲していたお安とお福に、米銀を贈って面倒を見るだけでは足らず、遠すぎるとして京に呼び寄せ、上長者町室町西入町に借家を見つけて住まわせたという。

・この話は、真如堂塔頭の東陽坊が、斎藤利三の墳墓のことで稲葉候に出した訴願文にもあり、また『翁草』には、延暦寺山下に避匿していたのを助けたと記されている。

・友松にしても長盛にしても豊かであろうはずがない。恐らく金子の捻出には、二人手分けして、西に東に駆けずりまわったと思われる。


・50代の友松。世に出るまでの10年間は、絵師としての雄飛に向けてのウォームアップの期間?

・師・狩野永仙(元信)は1559年に没した。永徳は友松よりも10歳も若く、友松の師とするのは受け入れがたい。むしろ永仙の死を契機に、狩野派からの自立を考えたとするのが妥当か。

・友松は南宋から元にかけての中国画の名手、牧谿や玉澗、特に粱楷から多くを学びとったといわれている。(狩野派の本領とする水墨画は、中国に渡った禅僧たちが持ってきたもの)

・さらに友松は、手近なところで越前朝倉氏に仕えた曽我蛇足の、ひょろひょろとした樹木の描き方をまねている。朝倉は浅井の盟友であったから、友松は蛇足の絵に接する機会も多かったのではないか?

・また、室町後期の画僧雪村の馬や水流の表現なども取り入れている。




【六 友松の時代】


・友松の画業は、建仁寺本坊・方丈の障壁画すべてを描くことによって不動のものになるが、それに先立って、まず建仁寺塔頭華渓院の障壁画を描いている、それは彼の60歳の時ではないかと追われている。

・それを裏付けるように、権門、貴顕への出入りの記録が残っている⇒友松は60歳にして、秀吉の知遇を得る

・西洞院時慶の日記『時慶卿記』の文禄2年11月3日と8日:友松、施薬院にて秀吉と引き合わされる。(6年前、北野大茶会の副席を勤めた長盛が、招かれついでに友松も誘った?)

・『由緒記』によると、施薬院の茶会の後、友松の絵に大いに感嘆した秀吉が、その出自を訊ねたところ友松は答えず、代わって施薬院宗全(秀吉の侍医)が、父は海北綱親であることを告げる。秀吉は驚き、「綱親は、わが軍法の師であった」と言った。すっかり打ち解けた秀吉は、綱親同様に思う故、以後、心おきなく「伏見に来るように」と目下造営中の伏見城に誘った上、唐の玄宗皇帝御調合の墨と白綾の小袖を下賜した。

・秀吉が生まれた時、綱親はもう亡くなっている⇒軍略を先人から学ぶことがあったという意味?(綱親の名前を知っていたところまでは信じてもいい?)


・『華頂要略』の文禄3年(1594)11月晦の条「友松来、五明二本進上、九慶同道、盃給之」

61歳の時、青蓮院尊朝法親王を訪ね、五明扇(五明は扇の異称)を進上

五明には友松得意の絵が描かれていた

※青蓮院は粟田口にある天台宗の門跡寺院。代々皇族が入寺したことから、「粟田御所」の別名があるほど、仏教界全体に君臨する権威ある寺。


・慶長元年(1596)友松63歳にして、清月と結婚。2年後に長男友雪が生まれている。

・絵による収入も増え、生活の安定と心の余裕が、彼を結婚に踏み切らせたのだろう


・慶長2年(1597)の冬から翌年にかけて、建仁寺296世進月正精によって、塔頭禅居庵が再建されるや、障壁画を描き上げる。292世英甫永雄の『倒痾集』に見える。

・その仕事が終わるか終わらないかの頃、友松は石田三成の筑紫下向に同伴。ソースは同行した是斎重鑑の『阿保家文書』の『九州下向記』。

※当時はカメラマンなどはなかったから、記録係や実景を写し取る絵かきの同行は不可欠であったと思われる。

・それによると、慶長3年5月29日に京を発ち、途中厳島神社にも参詣。「平家納経」を見る幸運にも恵まれる。

・二か月半に及ぶ道中

・好機はおそらく安国寺恵瓊あたりの斡旋。


・慶長4年(1599)は建仁寺再建の年。恵瓊は東福寺の茶堂や安芸安国寺の方丈を移して、建仁寺の仏殿(本堂)や方丈を再建したといわれる。この本坊・方丈すべての障壁に、健筆を揮う幸運が66歳の友松に巡ってきた。

・この時本坊・方丈に描かれたものは五十余点、さらに周辺の塔頭・末寺を加えると、優に百点を超す友松画が、建仁寺を取り囲む。

・時の建仁寺住職・進月正精に友松を推したのは誰だったかは記録なし。

・友松を建仁寺と結びつける役割を演じたのは細川幽斎では?幽斎と友松は利三を介して早くから交流があったと推測できる?

・幽斎と建仁寺の縁は深い。幽斎の姉・宮川尼と若狭武田歩蒲澗との息、英甫永雄は建仁寺292世となり、宮川尼も建仁寺に住してたと言われる。

・しかし、1577年、友松の絵に建仁寺291世住持梅仙東甫が賛をしており、それは幽斎の甥が住持になる前。




【七 転機】


・関ヶ原後、友松は権門や武門に距離をおき、代わりに後陽成天皇やその弟君、八条宮智仁(トシヒト)親王へ、あるいは禅門の人々へと接近。


・友松の絵で制作年代がはっきりしているのは、慶長2年から3年にかけての建仁寺塔頭禅居庵の障壁画と、慶長4年の建仁寺本坊・方丈の障壁画、慶長7年の款記のある亀井玆矩のための「飲中八仙図屏風」、智仁親王のために描かれた「山水図屏風」のみ。


『智仁親王御日記』

・慶長7年11月4日「何事モナク、友松来ルナリ 幽斎女房下国はなむけニ一束一端遣ス 幽斎ヘ正月小袖遣スナリ 使 御乳人ナリ」

5日、6日、8日「友松来ル、画クナリ」

⇒「山水図屏風」の「慶長七年十一月友松書之」の款記と一致。八条宮邸において描かれたことをあらわしている。

・12月15日「友松ヘ銀子五枚 焼物遣ス」 18日「友松所ヘ押絵ノ料紙遣ス」

・この後、慶長8年9年の正月にも、友松が自作の扇を年賀のしるしとして献上した記事が見出される

・友松を智仁親王に紹介したのは幽斎か。


・京都海北家に伝わる『中院通勝書状』『女房奉書』:友松が後陽成天皇の命によって、新造の琵琶の撥面、及びその箱に装飾した。(おそらく麒麟が描かれていた)

・女房奉書によれば、下絵の時以上の出来栄えに天皇が満足された旨が記されている

・『山科言緒卿記』 慶長18年(1613)7月23日「出御 番所ニ成ラレ 友松押絵共七拾枚バカリ 各ヘ拝見仕ルベク候仰セアリ」

 後陽成院は自ら番所に現れ、友松の押絵を詰居する公卿たちに得意げに披露


・智仁親王を通じて友松の絵は遂に宮中にまで賞玩されることに


・関ヶ原後、宮廷人のために絵を描いていた友松にとってのただ一人の例外:亀井玆矩


・絵の対象者を権門から宮廷人にかえ、画風も大きく様変わり⇒金碧画(キンペキ)へ

※金碧画:金と緑青や群青などの濃彩で描かれた唐の金碧山水にはじまる。画面の背景に金箔や、金泥をおくことによって華麗さを加えるとともに、色彩を与えて華やぎを加え、画風も装飾性のあるもの、情緒豊かなものへと変わっていく

・友松の金碧画へ向かった心の推移には、八条宮邸への出入りが大きな要因になっていると思われる(八条宮邸で描かれたものはまだ水墨画だったが…)

・宮廷やそれを取り巻く貴族たちの生活する空間には、禅とは異質の文化があった。

・厳島神社で見た「平家納経」の金色に荘厳された浄土を思わせる世界も、脳裏に焼き付いて離れなかったのかも……

・金碧画においても墨の果たす役割は大きく、金碧画の中で堂々と水墨画を描いているといえるのでは。


・作品は大画面から小品に(押絵)

・70歳半ばともなれば、大画面は流石にきついな……


・慶長13年(1608)の日付にある、朝鮮国の通詞・朴大根の友松の「雲竜図屏風」を贈られたことを謝する書簡(京都海北家に残る)

「…見るものに至っては目を粗い、聞くものは耳をそばだて、『これこそ東海より神竜が出てきたものだ、我が国のものに比べるものがあろうか。写すところの友松とはいかなる人物であろうか、今もつつがなきや否や』といいます。…」

めっちゃ褒めてる。そのあと、さらに絵を所望している。

・さらにあとのこと。朝鮮通信使の経由する対馬の藩主、宗家の家老・柳川智永は、友松の「雲竜図」や「李白観瀑図」を持ち、対馬以酊庵(禅寺)で日朝間の外交の文書作成にあたっていた景徹玄蘇にそれを見せたり、賛をもらったり。(景徹玄蘇の語録『仙巣稿』に記録されている)

※対馬以酊庵:天正8年(1580)にはじまり、以後、京の五山の中から交代で僧が詰めていたという。建仁寺とは限らないが、ここにやってきた僧たちが友松画を持参し、その中のいくつかは朝鮮にも渡っていったのだろう。









いい加減……記事にしようと思って………


Twitterでいつもお世話になっているネギ味噌さんと一緒に行った!!江戸の金地院です!!


金地院と言えば、察しはつきますが、徳川幕府に仕えた臨済僧・以心崇伝ゆかりの場所ですね。

南禅寺金地院に住したので、金地院崇伝と呼ばれており、こちらの名前の方が有名だと思います。



京都の金地院に関してはこちら

『吉田神社、真如堂、南禅寺、金地院(2014.8.6)』⇒ http://amba.to/1np3HON



こちらの金地院は、今、東京タワーの近くにあるのですが、移ったのは寛永16年(1639)。崇伝は寛永10年(1633)に亡くなっているので死後移転したということですね。

それまでは江戸城北の丸内にありました(日本武道館がある所です)。

元和4年(1618)に二代目将軍秀忠より江戸城北の丸に約2000坪の土地を拝領した崇伝は、翌年亡き徳川家康公を開基に仰いで、建立したと言われています。




この金地院に行って、思ったのは、本堂が凄く現代的だということ!でした!

少し調べてみたところ、現在の本堂は、本尊聖観世音菩薩と共に昭和29年(1954)に再建されたものだそう。

かつては広大な寺領に本堂・方丈等々大きな伽藍を有していたそうですが、天明6年(1786)・文化8年(1811)の火災によりほとんどの伽藍を焼失、昭和20年(1945)の東京大空襲により全てを焼失してしまったということです。

また、京都の金地院では頂けない御朱印ですが、此処では書いてもらえます。

奥様がゆったりとしていて素敵!中をじっくりと拝観させて頂き、有意義な時間を過ごすことが出来たと思います。


東京タワーや増上寺、芝東照宮なども近いですし、関東にお住みの方、行かれる方、いかがでしょう?

ちなみに私は上野(寛永寺、両大師、東照宮、天海毛髪塔)→金地院→江戸城址(外苑、北の丸)の黒衣の宰相コースでした!

これは記録といいますか、ちょっとした宣伝といいますか、東京都新宿区歌舞伎町に『戦国武勇伝』というお店があります。新宿駅から徒歩数分。歴史クラスタのオフ会にはもってこいの場所ではないでしょうか?


初めてお店に入ったのが去年の8月くらい…?でしょうか。(なお写真は去年11月、今年2月のもの)

お前その間何やってんだよ!ってどつかれてしまいそうですが、まあよしとします。


この店はビルの4階にあり、エレベーターで上がって頂きますと、下駄箱が!家紋!家紋!家紋!

右を向けば!甲冑!

席に向かう時は店員さんの「戦の始まりじゃ~!」の掛け声!

乾杯の時は!「戦勝万歳」!


そんな雰囲気のあるお店です。


メニューも武将に沿ったものが多く、楽しめるのではないでしょうか?

コースもあるのですが、それですと自由に選べないので、私は基本コースなしで、気になる料理や飲み物のみを頼んでました(笑)



【11/3】


お通し!!!!!!!がかわいくて!!!!!!!!!!!!

お通しは時によって異なるのですが、この時はお魚を桔梗型にくりぬいた大根の煮物でしたね。

凄く美味しいし、桔梗だし、明智クラスタである私は大興奮でした♡

こちらは南光坊天海五獣鍋の一つ、織田信長のすき焼きでした!

店員のお兄さんが目の前で作ってくれました。凄く美味しかったです。

ちなみにこれは冬季限定メニューで、11月~2月辺りくらいまで(だったかな?)だそうです。

そしてこちら!


人気オリエンタルロックミュージカルと戦国居酒屋がコラボレーション! http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000003.000010621.html


はい、コラボメニューです。天海のメニューです。

人参が桔梗型にくりぬかれてて、光秀を彷彿とさせます。

短い期間ですが間に合ってよかったです。


戦国武勇伝の蒸篭蒸しはとても美味しいので是非是非食べてみてくださいね!


あと、写真にはありませんが、竹千代(家光)のノンアルコールカクテルも頂きました(*´▽`*)♡



足軽から侍大将に出世したので、こちらのお寿司を頂いたり…!

二回来るごとに出世できるのです。



【2/8】


明智軍に所属しました。



こちらは明智光秀の間ですね。明智クラスタのフォロワーさんと一緒に!

オープンのテーブル席です。

戦国武勇伝には伊達政宗の間とか石田三成の間とか細川忠興の間とか、色々あります(こちらは全て個室だったと思います)。

間の指定は受け付けてないのですが、予約の電話の時に「空いているようでしたらこの間がいい」と言ったら、考慮してくれます。

ちなみに織田信長の間はカウンター席です。



手前は「長宗我部元親百箇条~禁酒解禁の杯~にごり酒とベリーの甘口カクテル」。

奥は「姫橘の水色桔梗紋 牛すじ煮込み」。まあ、光秀の料理ですね。


今期の武将総選挙メニューです。


しかし、カクテルの盃……大きいです。前期は信長の金平糖酒がこの盃を使っていましたかね。



光秀の料理のアップ。

光秀の料理は肉料理ばっかりなんですよね。前期も今期も固定メニューも…。最初は意外だな~と思ってました(あまりがっつくイメージない)。

肉を……焼いてるんでしょうね……(本能寺的な意味で)


侍大将から大うつけに出世したので馬刺しです。

凄く美味しかった~~~~



そして、こちらがデザートプレート。





お値段的にはすこーし割高な印象もあるのですが(好き勝手飲んで食ってしたら5000円を超えてしまったこともあるので…)、まあ、適度にセーブしたら3000円程度で済むんじゃないかな…?


気になるよ!って方は是非訪れてみてくださいね!

戦国武勇伝の雰囲気、一度は味わってみる価値があると思います\(^o^)/




ぐるなび - 戦国武勇伝 ―武将個室 新宿―(新宿/居酒屋) http://r.gnavi.co.jp/g600186/

Twitterで呟いたことを投下するだけ

あとでちゃんとした記事になおします



秀満についてごちゃごちゃ考えてたんだけど、津田宗及の『天王寺屋会記』では確か「三宅弥平次」の名前出てきてたんだと思うんだよね…いつだったかは忘れたけど……でも福知山統治後、天寧寺に宛てた唯一の秀満発給文書では「明智弥平次秀満」って名前書いてるから、こん時は明智姓使ってるんよなぁ


「明智左馬助」って名前は『信長公記』(良史料)『甫庵信長記』(創作的だけど同時代の人)『川角太閤記』(そこそこ良史料)より「明智弥平次光遠」って名前は『惟任退治記』(本能寺の変直後に書かれた)より ※「明智左馬助『光春』」は『明智軍記』(光秀死後100年後に書かれた軍記物)


「左馬助」って名前がいつ使われた始めたかちょっとわっかんないんだけど、使われてたことは確かっぽいよな。 で、『惟任退治記』の記述を見るに、ギリギリまで「弥平次」の名前使われてそう。


明智憲三郎氏は、「左馬助」は土岐明智一族が名乗っていた名前で、「光遠」の「光」は土岐明智一族の通字、「遠」は足利尊氏を支え一族繁栄の礎を築いた土岐頼遠からとられたんじゃないか?本能寺の変後に「左馬助光遠」って名前を光秀から与えられたのでは?とか推測してるっぽいね。


話逸れるけど、個人的に忠興が「義父上の小姓は律儀ですねー」って言う秀満小姓説はないかなーって思ってる。婚儀の際、珠子引き渡しの役やってたの秀満だから忠興が知らない訳ないし、天正9年には福知山統治に当ってる他、文書で「光秀」って敬称略してるから相応の地位を確保していた訳だし…ンン


今の秀満像は複数人物の伝承から成ったとか言われてたりもするけど一理あるよなと思う(年齢を眺めつつ)




日向山光秀寺(さらに桔梗紋)天正10年に仁海上人が創建したって聞いてたのだけれど、天正3年の頃には出来てたって資料が出てきたんだと。その資料が本願寺関連の資料で(確かうちは浄土真宗ですよ!って認める感じの)、でも戦いには一切関与してないから被害はなかったそうな


光秀が惟任日向守になったの何年だったかな~って思って、調べてみたら、天正3年だね


いつなったか忘れてたから天正3年って光秀が惟任日向守になる前でしたっけ?って言ったら、山号はコロコロ変えれるから始めから日向山ではなかったのかもねーと言ってた、けど、年的には合致してるから光秀様惟任日向守記念じゃ~~~!の可能性もあるのでは


あと、お寺に残ってた史料は先祖が売り払っちゃったみたいで残ってないらしい。あと、安土桃山時代のものとか言われる机があったみたいだけどめっちゃ古かったから捨てたわって言ってた。


あと、蘆山寺の光秀の念仏寺が地蔵菩薩でこれは珍しいって話してたら、「地蔵菩薩っていったら子供の守り神ですからね~家族を大事にしてた人と言われてますから子供への思いがあったんじゃないですかね」って言われて、はあ~~~~~~~~~~光秀様尊すぎか~~~~~~~~??????ってなった

①明智寺(札所番号9)

②慈眼寺(札所番号13)

③秩父神社


・もともと明智寺は明地正観音、慈眼寺は壇の下と呼ばれていたが、天海の時代にわざわざ改名されたという。

・家康が東照宮のひな形として造営を命じた秩父神社には、武士と僧侶の二体の像がある。この両者には桔梗の紋がついており、僧侶は天海、武士は光秀と考えられる。


明智光秀=南光坊天海説の根拠になっているこれらを見に、秩父へ行って参りました。(大分前のことですけど…)

2014年3月1日~11月18日まで本尊を開帳されていたので滑り込みです!総開帳は12年に一度!次の開帳は2026年、ですかね?(笑)


秩父札所について、秩父札所連合会発行のチラシから引用して説明します。


「秩父三十四ヶ所観音霊場(秩父市・横瀬町・小鹿野町・皆野町に点在)は、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所と共に、日本百番観音に数えられています。

秩父札所のおこりは、遠く文暦元年(1234)甲午3月18日開創と伝えられ、長亨二年(1488)の秩父札所番付(札所三十二番蔵)が実在することから、既に室町時代後期には秩父札所が定着したと考えられ、江戸時代になると観音信仰は庶民の心の支えとして流布し、隆盛をみるようになりました。

秩父巡礼は、一番四萬部寺から三十四番水潜寺まで静寂な山村と美しい自然の風光を背景に一巡約100km程あります。この間、ある時は谷をわたり、山路をたどり、野づらを横切っての巡拝は秩父札所ならではのものでしょう。

素朴な風土に培われた秩父札所霊場の観音様は多くの人々から親しまれ、幸せを祈る人々や救いを求める人々に、安らぎと御利益を与えたまうでしょう。」


まあ、私は日帰りだったので、34番まで回りませんでしたけどね。明智寺と慈眼寺だけです。

西武秩父線の横瀬駅で降りまして、明智寺→慈眼寺→秩父神社のルートで。

全て歩いて回ったのですが一日で余裕で回れます。4時間あれば大丈夫じゃないかな…?まあ、大分前の話だから記憶があやふやな訳ですが。


【明智寺(札所番号9)】



正式名称は「明星山明智寺」。元々は「明地正観音」と呼ばれていたものの天海が「明智寺」と改名させたといわれています。そして、「明星山」という名前ですが、何となく、光秀と天海を想起させますね(笑)


秩父札所9番寺の元の観音堂は、1881年(明治14年)に落雷のため焼失し、その後建造されたものは、間口4間、奥行3間のこじんまりしたものでした。しかし、平成2年3月に、新しく建立された新観音堂は、二間六面の六角堂形式の美麗なもので、ここに御本尊をまつるとともに、従来の建物も新しく造りかえられました。秩父札所9番の縁起によれば、昔この村に親孝行な少年がいました。盲目の母の眼を開かせようと、日夜老母の手を引いて観音様にお詣りしていました。ある日のこと、老僧が現れて、この母子の健気な姿を大いに哀れみ、母に眼を救いたければ観音経の「無垢清浄光・慧日破諸闇」の二句を唱えるよう論すとそのまま姿を消してしまった。母子は、堂にこもって、一心に観音経の二句を唱えつづけていると明け方、内陣から明るい星が光りまたたき二人を照らした。そのとたん母の眼が一瞬のうちに開いて、暗黒の世界から解放されたといいます。
(引用:http://www.geocities.jp/fudasyo34_jp/temple-09.htm )


 


明智寺は安産、子育て、厄除けの寺として知られています。こういった像が建っているのはそのため?


横瀬駅で買ったまんじゅうを明智寺で頂きました!!優しい甘さで、大変おいしかったです!!




ちなみにこれが昼食でした。秩父そば!!

慈眼寺・秩父神社方面に行く途中で見つけた「快晴軒」という店です。

公園と池が見える場所にありました。美味しかったです、ごちそうさまでした!


次の目的地である慈眼寺は西武秩父駅近くの御花畑駅近く。(かわいい名前ですよね~~)

てこてこと西進。途中に地図の看板があったのでそれを見ながら進みます。




【慈眼寺(札所番号13)】


正式名称は「旗下山慈眼寺」。元々は「壇の下」と呼ばれていたそうです。それを天海が改名したとのこと。明智光秀公木像と位牌が納められている寺も「慈眼寺」といいます。こっちの慈眼寺は京都府北桑田郡京北町周山です。


そして、こちらの写真は山門。線路を渡って真っ直ぐ行けば大体わかるんじゃないかな…?看板も立ってて行きやすかった印象。

瓦葺の山門は、薬医門と呼ぶ切妻造りの黒門です。


慈眼寺で頂いたパンフレットの《縁起》によると、

「太古の昔、大和武尊が東国征伐の折、当所に御旗を建てさせたことにより、当山は「旗の下」と言います。当寺草創以前より、この地は、佛様の意にかなう霊地でありました。(中略)諸々の菩薩が歌詠讃歎したので、人々は壇の下ともいいました。ある時、音楽響きわたり妙なる音が清らかに聞こえてきました。夜が明けてみると、観音様がその尊容巍然と岩の上に坐していました。里人皆たいそう感激し、永くこの地に止まって衆生済度たまわらんと強く願いました。信心の郷民は土木を運び、富有る居士は財宝投げうって力をあわせたので、観音堂はたちまちに完成しました。」



本堂です。

1878年3月の秩父大火に焼けてしまい、1901年頃に再建されたのが今のものです。

かつては広壮なものだったようですが、今は大分小柄になったとか。うす肉彫りの支輪、絵画のある格天上は荘厳なものです。聖観世音菩薩が祀られています。


薬師堂。「瑠璃殿」と書かれた額が目印です。

ここには薬師瑠璃光如来と呼ばれる目の神様が祀られています。

眼病治癒、身体堅固、家内安全等の御利益があるので、「め」の文字を入れた絵馬が沢山!

ちなみにこの慈眼寺には「メグスリの木」というものがあり、そのエキスから作られたお茶などは目に効くらしいです。黒田官兵衛もこれを飲んで目を療養したとか?


経蔵です。石造りのため、火災にも焼け残ったといわれています。

礼拝しながら三回回転させると、一切経を読誦したご功徳があるとか。

正面左側に聖観世音菩薩坐像、正面右側に阿弥陀如来立像、側面に秩父札所を創建したという十三権者像が祀られています。



福寿稲荷です。

寺の鎮守を司り、火災盗難の予防の御利益があると言われています。

また、福寿をもたらすと言われているので、商売繁盛、家門繁栄、入試合格など色々な祈願をする人が多く見られるということ。



慈眼寺の納経所にはグッズが沢山!!札所巡り用の服も売ってありました!!

私は「慈眼セット」(1500円)という、お守り、メグスリの木のお茶、タブレット、青汁、飴などが入ったセットを購入しました。




【秩父神社】

慈眼寺から北進して10分程度で着きます……多分。とても近いです。

そんな入り組んだ道もないので行きやすいかと思います。

これは一の鳥居。南門ですね。

秩父神社は平安初期の典籍『先代旧事紀―国造本紀―』によれば、入皇第十代、崇神天皇の御代、知知夫国の初代国造に任ぜられた知知夫彦命が、祖神である八意思兼命をお祀りしたことに始まります。



御本殿!!!!!


戦国時代の末期に兵火によって焼失したものを、天正20(1592)年9月、徳川家康公が大旦那となって、代官である成瀬吉衛門に命じて再建されたのが現在のご社殿です。

建築様式は、本殿・幣殿・拝殿の三棟からなる権現造りで、極彩色に彩られた数多の彫刻群に覆われた豪華な造りとなっており、建造時の棟札と共に埼玉県の重要文化財に指定されています。

(秩父神社パンフレットより)

 

←武将像 僧侶像→


目当ては!!!!!こちら!!!!!!ドン!!!!!!!


中々見つけるのに時間がかかりましたww武将はお堂の右側に、僧侶は左側にありました。

この二つに桔梗紋があるということで見に行ったのですが……
う~~ん、これは光秀の桔梗紋ではないですよね。

かなり見にくいですが、武将の方は桔梗と言っても丸に細桔梗。僧侶の方は桔梗ではないような。花弁が6つあってなんだかギザギザしてます。

これはこじつけじゃないかなぁ。


ちなみにこれが建てられたのは1592年ということ。天海が家康に大きく影響を及ぼすのは1600年を過ぎてからになります。1608年辺りだったか……あやふやなのですが。

だからちょっぴり違和感を感じたりはしますね。



こちらは東照宮。すごくこじんまりとしています……


そして、これが川の近くで売ってあったおみくじ。水にさらすと文字が浮かび出てくるという面白いもの。

写真ではちょっと見にくいですが、ちゃんと見えましたよ。

中々他に例を見ないものなので、来られた時は是非。







 

最後。夕食はこれを食べて帰宅しました。

西武秩父駅の近くのお店です。とってもリーズナブルで量もしっかりとあります!

そして、右の日本酒は金箔が浮いていたり…。総開帳記念のものでした。とてもおいしかったです!


お土産に買っていった豚肉味噌漬けも絶品でした♡

東叡山寛永寺発行資料「寛永寺」、天海の項目より、天海の業績についてまとめます。

なお、「大師」と書かれている所は「天海」と直しております。



①寛永寺の創建


1622年の暮、天海は二代将軍秀忠から上野の台地の寄進を受け、さらに、年が明けると秀忠は白銀五万両と品川の御殿山に在った高輪御殿を寄進した。(※この御殿はかつて家康が江戸と駿府とを往復した時に、秀忠自身が家康を送迎した場所である)

この年七月、将軍職は三代家光に譲られ、以後家光が寛永寺の建立にあたるのである。

天海は寛永寺の建立に当って、常に比叡山を東=江戸へ移すことを念頭に置いて事を進めた。

その一部を紹介する。


・琵琶湖の竹生嶋の辯才天を勧請して不忍池に辯才天を祀る

・京都の清水寺から観音像を迎えて清水堂を経てる

・比叡山西塔の荷負堂や釈迦堂を模した建物を建てる


これらの事象は枚挙に暇がなく、全て比叡山とその山麓である山城と近江のものに倣ったのである。

又、山号の東叡山は東の比叡山であり、寛永寺の寺号は伝教大師最澄上人が延暦年間に比叡山を開かれた時に、勅許をうけて時の年号を寺号としたのに倣い、同じく勅許のもとに、寛永の年号を寺号としたものである。更に、本坊の圓頓院の名も、延暦寺の一乗止観院と対をなすものなのである。

この時、寛永寺は幕府の祈願寺(直に朝廷の勅願所ともなる)として建てられたが、やがて三代将軍家光の頃から、増上寺と共に将軍家の菩提寺をも兼ねるようになっていくのである。

最終的に、寛永寺は境内地30万坪余、寺領11790石余、主要伽藍役35棟、山内子院36ケ院を数えるわが国屈指の大寺になるのである。

この寛永寺が産声を上げたのは1625年、天海90歳の大事業であった。



②朝幕間の斡旋


天海は朝廷に対しても大きな発言力を有していた。特に後陽成帝の天海への帰依は格別のものがあった。


・後陽成天皇と女御及び幕府との間に確執が生じた時(慶長19年)、天海は文書を以て上皇に諫言し、上皇もその諫言を快く受け入れたことがある。しかも、これを機に、天海はいよいよ上皇の信を厚くしているのである。天海は、上皇の年回法要の導師を務めたり、上皇から毘沙門堂の門室や鳩杖、法衣、燕尾帽を賜った。

・狩野探幽や木村了琢という当代きっての画家を朝廷に斡旋し、それぞれを法眼や法印に叙任されたのも天海自身であった。

(探幽は天海の下で出家して宮内卿と号し、了琢は天海の命を受けて日光山東照宮のもっとも大切な部分の仏画を描いた)



③法親王の下向


天海が寛永寺の建立と共に、実現したいと思っていたことは、「東叡山の山主に天皇家から皇子を迎え、天台宗を統括すると共に、その格式を諸宗の上に置く」というものであった。

しかし、これが実現したのは1654年、天海の生前には成就しなかった。

後水尾天皇の第三皇子守澄法親王は東叡山主に就任され、日光山主をも兼帯された。1655年には輪王寺宮の称号が勅賜された。

やがて歴代の宮は比叡、東叡、日光の三山の山主を兼帯されたため、世に三山管領宮とも呼ばれた。



④比叡山の復興


天海は家康の依頼で比叡山の内紛を解決した。それとはまた別に、比叡山の復興は天海の無私の心を示す。


天海は自らが創建した寛永寺に、まだ根本中堂はもちろん山門さえ整っていない段階で、家光を説き、寛永13年には大講堂を、同17年には根本中堂をそれぞれ比叡山上に寄進させ、さらに文殊楼や四季講堂をも建立している。このせいもあって、寛永寺に根本中堂が建立されたのは、実に五代将軍綱吉の時代である1698年であった。


そこには天海の無私の心と比叡山への崇敬の念が強く感じられる。



⑤日光山の復興


比叡山同様、家康の依頼で日光山の紛争を解決した大師は、日光山の復興に当ると共に、家康を祀る東照宮を創建した。今日の日光山の繁栄は天海のお蔭である。



⑥天台寺院の再興と帰宗


天海がきわめて熱心に取り組まれた事の一つである。

復興の例としては比叡、日光両山の他、川越の喜多院、江戸崎の不動院、長沼の宗光寺、久下田の全水寺、和泉の槇尾寺などがあげられる。

又、信州の善光寺が浄土宗系に傾いていたものを現在のように天台、浄土の両宗もちに改めたのも天海であった。このように、当時他宗になっていた旧天台宗寺院を天台宗に復帰させようという運動は、時としては軋轢を生むこともあったが、天海は確固たる意志に基づいてこの運動を進めた。



⑦教学の振興と学僧の養成


天台の教学が最も優れているという信念があった天海は大変な情熱を以て学僧や弟子の養成に当られ、その手段の一つとして、好んで論議の法座を開いている。

論議とは仏教の教義について問答することで、本来は論題をきめて議論する訳であるが、天海は家康の要望もあって、一句問答という簡潔な問答形式を編み出した。これは学僧が一対一で、しかもその場で急に提示された論題(ex:阿弥陀の浄土は何処に在るか)について議論するというものである。これでは全く事前の準備が不可能な訳で、正に普段の研鑽が物を言うことになる。


家康が殊の外天海の開く論議を好んだことはよく知られているが、調べでは、江戸城、駿府城、二条城、京都御所等で頻繁に論議が行われている。特に駿府政変録や徳川実記等をもとに計算してみると、慶長末年の数年間に約120回の論議が行われており、なんとその内の約90回が天台論議なのである。この事は、天海主催の論議が如何に家康をはじめとする当時の人々を魅了していたかを物語っている。



⑧赦免運動


天海の後半生の足跡を追っていると、処罰された人々の減刑や赦免のための斡旋が目立つ。しかも、その対象は大名、旗本、僧侶と多岐に亘っており、なおかつ根気よく続けられている。


その代表例をあげるとすれば紫衣事件であろう。


第一級の史料による例としては、この事件で処罪を免れた大徳寺の江月は茶人としても著名な人で、その茶の弟子に越後村上城主堀丹後守直寄がいた。しかも、この直寄は同時に天海に深く帰依し、寛永寺に凌雲院という子院を建てて寄進したのである。天海と江月を深く結んだのはこの直寄である。

沢庵ら四人の釈放が決った寛永9年に、江月は直寄に一通の書状を出した。内容は江月が釈放されたばかりの沢庵と玉室を伴って、寛永寺に天海を訪ね、御礼を言いたいというもので、その日時を直寄と打ち合わせているのである。


寛永20年の天海の入寂に当って、わざわざ沢庵が天海の霊前に香語を呈したり、妙心寺の東源が天海のために「東源伝」を撰述した理由はこうした事にあったのである。


天海がこのように人助けに奔走していたことは、天海がその入寂に当って、家光から遺言を聞かれた時に述べた五ケ条の遺言の中に、犯罪者の釈放という一条が入っていたことでも裏付けられる。



⑨天海蔵


比叡、東叡、日光三山に設けられた「天海蔵」と呼ばれる天海の厖大な蔵書がある。(※東叡山のものは彰義隊の戦争によりごく一部を除いて失われている)


日光のものを見ると、仏教書はもとより、世界でただ一冊しか残っていない中国で出版された小説、神皇正統記の最古写本なども含まれており、まずその内典(仏書)、下典(一般書)にわたる間口の広さに驚かされる。しかも、更に驚くことは、天海が実に根気よく各方面に依頼して行記などの貴重な仏書を集めていることである。

これらの蔵書の多くには天海の依頼を受けて写本を作成した旨の後書きが見られ、その上天海はその一冊一冊に自ら天海と署名、天海蔵の印を捺印されている。これによって、天海が手元に集ってくる書物に一々目を通していたことが判るのである。


なお、天海は沢山の書状や画賛を遺されたが、いわゆる鑑賞用の書などは一切書かなかったように思われる。この辺りにも天海の性格がよく表れているといえる。

又、天海の著述には「東照大権現縁起」があるが、他には「返音抄」や「一実神道秘決」も天海の著であると言われている。



⑩天海版大蔵経


日本で初めて大蔵経を刊行したのは天海であり、しかも、この大蔵経は全て木活字による組版で印刷された。これはかのグーテンベルグの活字印刷からすれば二百年近く遅れてはいるが、木活字ということもあって、正に世界の文化史上に特筆すべき業績であると言わなければならない。

なお、刊行は宗派を問わず全国の大寺に寄進された



⑪歴代将軍の師


天海は家康との親交を深め、やがて、それは秀忠、家光との関係へとつながっていった


家康の天海に対する信任は格別のもので、その関係は論議と家康の神格化問題に代表される。

秀忠との関係は寛永寺の創建と家康の神号問題だろうか。


そして、天海を最も信頼し、家康と同様に敬慕したのは家光であった。家光の天海に対する尊敬の念は、家康に対するそれと同様、ともすれば常軌を逸したとさえ思われるほどであった。


若干の例を挙げる。


・天海の入寂後、家光は直に天海追悼のために七日間の精進を厨房に命じた他、初月忌には天海の遺言を入れて、江戸、京都、大坂、長崎の四大都市において軽犯罪者を釈放させた。これは普通将軍の死に当って行われることである。

・家光は比叡、東叡、日光の三山にそれぞれ慈眼堂を建立している。



⑫東照大権現とその思想


家康は天台宗の教義に基づく山王一実神道によって、権現号で祀られることになった。この事には大きく二つの意味がある。


第一:権現号が山王一実神道という天台宗による法華経だての教義に裏付けられている

第二:権現号で家康を祀ることにより、家康はその死と共に類い稀れな偉大な神に昇華し、以後250年の江戸幕府の歴史を通じて、動かし難い精神的支柱となった

(※もし家康を明神号で祀れば、家康は豊国大明神秀吉と同格の神になってしまう)


天海が説いたのは、家康という実在の英雄(君)と、死後に昇華した東照大権現(神)の背後には家康の本地仏としての薬師如来(仏)が存在するという思想で、これは天台宗の空仮中という三諦が圓融するという思想に基づくものである。

幕府にとっては、神(東照大権現)と実在の君主(家康)とが不即不離でなければ意味がない。江戸期を通じて使われた神君の名こそ、このことを象徴する言葉なのであり、その思想の生みの親が天海なのである。正に天海は江戸時代を貫く精神的な支柱を打ち立てたのである。