2012年を経て、2013年。


明らかに、「何か」が変わっていると思う。


シフトチェンジというのは、大方の者は気付かない。


先に気付くのは ほんの一部、ひと握りだと思う。


やがて 全てがそのことに気付いたときには 変容は終わってしまっている。




大阪の高校の部活で、監督による体罰で 主将を務めていた生徒が自殺してしまった。


監督の年齢を聞いて、「さもありなん」と私は思った。



47歳。 私と同世代だ。



30年ほど前、私たちが中高生だったころ、学校は荒れていた。


校舎の窓ガラスがないなんて しょっちゅう聞いた。


血気盛んな連中が バイクを乗り回したり、他校の学生とケンカしたとか、

よく耳にしていた。


・・・けして ほめられたものではないが、

当時の中高生は エネルギーがあったし よく暴れていた。


尾崎豊の歌に 「盗んだバイクで走り出す」とか

「教室の窓ガラス 壊して歩いた」という一説があるが 彼も あの世代だ。




だから 当時の先生達もまた必死だった。


体育教官室の先生や生徒指導の先生は 竹刀を持って学校を歩いていたり

ソリコミいれて 学ラン着て闊歩している ワルどもを しょっちゅう殴っていた。



福山雅治氏(43・長崎出身)も 前に ラジオで言ってたけど


「僕らの時代は 問答無用・切捨て御免 だったよねぇ。


 先生に殴られたって、『あんたが悪さをするけん、先生に 殴られるとばい』って

 母ちゃんに 怒られたもんね。」


・・・全国的に そういう世代だった。


そういう中高時代を過ごした 生徒が 今 大人になり先生になり親になっている。



しかし、30年たって 今はどうだろう。


そういえば、暴走族も 減ったような気がする。


横浜に住んでいたころ たまにバイクの騒音を聞いたように思うが、昔ほど 聞かなくなった。


世の中不況なので グレて バイク乗り回す 輩も少ないのかもしれない。


「ゆとり教育」世代だからと決め付けたくはないが、


グレて 暴れるよりも 無気力になって「引きこもる」ほうが 主になっているかもしれない。


学校に行かないで、ゲームや PCの前に座っている。


自分達の世代は グレて暴れてるヤツらも、学校に来て、

友達とつるんでは 悪さをしてたような気がするが。



そう、30年もたてば、世代が変わり 時代背景が変わり

生徒たちのようすも 違ってくるのは当たり前だ。




30年もたてば 時代背景は まったく違う。


20世紀は 世の中が 「やらされ感」に満ちていた時代たったと思う。


大人も子どもも、「やらされ感」の中で生きていた。


「~ねばならない」という幻想の中で これが人生だ と思い込んで生きていた。


矛盾を抱えたまま生きていかねばならないと思っていたし


実際、そうでないと 生きてなんかいけなかった。


だから 教師は 生徒を 殴ってでも 理解させようとしたし 親も子も


世の中の「絶対的ルール」に 無理に自分を合わせようとして必死だった。



それが変化してきたのは たぶん 2000年代を過ぎてからと思う。


「やらされ感」や 長いものに巻かれて生きていられなくなってきた。



「~したい」と 本人自身が望むのかどうか。


それが 何をするにも 根本の理由になった。


だから本人がやる気を出さない以上、周りがどう焦っても 無理なのだ。


当然、指導の仕方だって変わってくる。


殴りつけて その気にさせたり、ルールを守らせることは、もうできない。


その昔、指導とは、「強制すること」だった。


しかし、今は違う。本人が望むことを見つけ出させ


いかに 本人のモチベーションを上げるか に視点を移さねばならぬ。




本当に 自分が何を望み、どんな生き方をしたいのか


明確なビジョンを持っていなければ 自分のポジションは見つからない。


やる気のある人には これほど楽しい時代はないが


依存したり、長いものに巻かれる生き方から脱却できないと


これほど つらい時代もないと思う。


五感を使って 何が欲しいのか 自分自身で選び取れないと、生きてはいけない。


学校とは そういうことを体得する場所であるべきだと思うが


悲しいかな それを教えられる教師は少ないと思う。


教師たちは 強制することが指導だと思い込んでしまい、


時代の変化・変容にまったく対応できていない。




・・・このブログの読者の方の中に 先生がおられたら誠に申し訳ないけど、


私は 今の時代、教師ほど時代遅れな人間の集団は ないと思っている。



学校出てから そのまま また学校に就職しているので

時代から 取り残されてしまっている。


もちろん そんな人ばかりではないのは よく分かっている。


わたしの講座にも 足しげく通ってくださっている先生もおられるが


そんなタイプの方は 気の毒に 現場ではたぶん「変わり者」だろう。


変わってるのはどっちなんだと 声を大にして私は言いたいが。


そういう変わり者の先生は 現場で ほとほと困っておられる。


学校運営だって、企業経営だって、


時代背景が変われば、当然 変化させねばならない。



30年前に 自分が指導された方法を 今の時代になって

延々と続けていた教師もまた 「変わらないこと」によって 追い込まれる。


怒鳴りつけても生徒が いっこうに変化しないので 殴り続けるしかなかったのだろう。


今の時代、変化を拒否することは 「死」を意味する。




恐竜が滅んでしまったのも、地球上の気候の変化に対応できなかったからだ。


家電メーカーの P社や S社が 存続の危機にさらされているのも


時代の変化に 対応できなかったせいだ。


変容できないことは 「死」を意味する。




自殺してしまった生徒には 本当に気の毒だけど


彼もまた、「変わる」ことを選べなかったことによる 犠牲者だ。


主将を辞めるとか クラブをやめるとか、学校を変わるとか 


そういう選択もあっただろう。


答えは一つではない。今、与えられた世界の中だけが 答えではない。


いくらでも ほかの生き方もあるし、どんな選択をしてもいいのだ。


自分らしく生きられる場所が、ほかに必ずある。


未成年の彼にそれを教えてあげられなかったのは、


変容を恐れている 大人の責任だ。




変化、変容 さもなくば、死。


変われないということは死を意味する。


自らの命を絶つことで、彼はまさに命がけで、訴えかけたのだと私は思う。


旧態依然とした、大人たちに 変容することを迫ったのだと思う。


一人の生徒の生命を犠牲にしなければ、理解できぬほど、


教育の現場も、大人たちの意識も、腐ってしまっているのだと。



彼の死を無意味なものにしないためにも、時代の変化に対応し、


これからの時代の生きる術を伝えるのが 残された大人たちの役目だと思う。