先日、お通夜に行き、帰りの車の前に飛び出してきた人がいた

「こんな場合は轢いても少しくらい罪は軽くなるよな・・・」と思っていたら私の名前を叫ぶ

「○○さんやね?○○さんやね?」

アア、コノヒトハドコカデミタコトガアルゾ・・・

瞬時に頭を回転させて名前を思い出し、心当たりのある所でカマをかけて呼んでみた

「Hセンセイですね?」

「ああ、覚えていてくれたんだ!」(感情を込めて、力強く)

「父が生前にお世話になりました」(BINGOOOOOOOO!!



母とも喋っていたが、肩書のあった人が、その肩書が外れると急に寂しくなる

そんなときに自分を知っていて、ましてや「先生」と呼んでくれる人がいればそりゃ嬉しいだろう

多分、その人の「先生」の認識と私の「センセイ」の認識は違う

私の「センセイ」は外国人の言う「シャチョサン」レベルだ

だって、先生と呼べる人かどうか知らないし・・・



木村多江さんは『かかと』に書いている

「肩書に惑わされず、人としてしっかり立っていられる自分でいたい」

正にその通りだと思う

肩書は所詮肩書

私にもその肩書がある

人はその肩書で判断するけれど、その肩書が外れた時に相手にされない

結局、人間としての中身がないからだろう

人を見る時も肩書に惑わされないようにしたい

得てして「先生」と呼ばれる職業は「センセイ」でもあるのだ


今日の結論

「はったりって、役に立つよね」