三島伊織@劇団ANDROGYNY@mishima_iori卑弥呼サマーの何が知りたいのか何処にミステリアスな魅力を感じるのか。考えうる限りリスト上げてみたニャ😺その他はコメント欲しいニャ😺📝
2021年05月18日 20:33
アンケート1位の「邪馬台国の場所、範囲とシステム」について掘り下げて参ります
小説「日照倭国伝」についても宣伝してくれてます💓Mikaさんありがとぉおお
今、私は紀元前の古代日本史をテーマに小説を書いてます。ちょいちょい引用して説明しますねw
邪馬台国連合国のそれぞれの役割を書いておきます。
邪馬台(弥真登)→30余りの連合国(群)。それぞれの地域に関東、関西、近畿、九州、のように
「根の◯◯」「奴の◯◯」と言った名前が付いている。
感覚としては、、天下統一した王朝が「ヤマト(神に選ばれた民)」と名乗ってたようですわ。
奴国の倭(ヤマト)→三島の弥真登(ヤマト)→秀真の大和(ヤマト)
すべて、、、ヤマトだったんですよぉおおお。
だけど邪馬台国はどこなの!?!?の感覚で言えば。首都をヤマトとするならば。
多遅麻(但馬・丹波・丹後)が奴国時代のヤマト(倭)
摂津→出雲→伊豆と遷都してった三島のヤマト(邪馬台・弥真登)
渡来人の王仁氏と駿河と九州南部の王朝が奈良に首都を置いたヤマト(大和)、、ってものちに飛鳥だの京都だの遷都してますね。
あ。そうね。その感覚で言うなら。
現在は東京がヤマトです💓
卑弥呼の時代は。。。これから説明します。
https://ncode.syosetu.com/n7405gx/4/
↑此処から一部抜粋します。卑弥呼の時代から遡って紀元前200年頃ですが。もう基本的なスタイルは確立されてますね。
同盟国だった奴国が弥真登(ヤマト)に正式加入したのは、卑弥呼様(史織)の母、日美果(ヒミカ)の頃からだったみたい。
これは「日照倭国伝」での紀元前220〜200年頃でしょうかね。その頃の根の国は緑で全体を書いてます。
つまり緑が「紀元前200年頃の邪馬台国の範囲」と言えます。
赤は狗奴国。黄色は秀真(秦氏の国)です。その前の。日照倭国伝の1、2話くらいか。紀伊半島は元々は奴国(奈良)、大歳の国(紀伊国)、伊勢(三島の聖地)の三国が治めてました。
https://ncode.syosetu.com/n7405gx/3/
3世紀の弥真登(邪馬台国)の範囲は多分こんな感じ?
後日改めて魏志倭人伝と比較してみますが。
↓↓下の拡大地図は3世紀のバージョンで根の原と根の国をあげ直しました。緑が根の原。黄色が根の国です。ごめんね稲荷山古墳の鉄剣の動画に上げた根の国と根の原。ちょっと間違えてたみたい😭安芸は紀元前は奴国だったけど。
もう3世紀のこの頃は狗奴国の領土だったっぽいです。
根の原の津の国→現在の大阪と兵庫の一部です。
↑の地図だと播磨の横のちっちゃいとこですw
魏志倭人伝では「伊都国」として知られてます。
これは「イト」とも読めますが「イツ」とも読めます。「伊」が付くのは「殷」から来てるそうです。
殷の津の国。伊都国です。
ここは1世紀までは弥真登だったようです。縄文の王家、布都御魂が治めてました。首都で外交の地でって、、仕事多すぎだよなぁ多分。なので多分外交官としての仕事に専念させたんじゃないかと思ってます。
小さいけど最重要都市です。そしてこーゆーとこは基本長距離は海路なんで海に面してないとムリですね。
ここはそもそも中国で云う帯方郡のようなもの。
常に外国の使者や、邪馬台国の各国の使者が集う場所。大使館と迎賓館を兼ねた土地。敵の使者も此処に来るのでココが首都(弥真登)じゃあぶねーよw
魏志倭人伝を書いた人は多分ココから出てないね。
出雲に行っても女王はいないし。なので津国で情報を聞いた事をまとめたんでしょーね。
根の原の佐治→別名は青垣、青柴垣。
但馬、丹波、丹後と播磨のちょうど真ん中くらいですかね。
左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
根の国と呼んでる。
出雲が弥真登として機能しなくなり、伊豆に女王を置き実権を任せた。と云うより実権を分散させた。
女王が神からの託宣を事代主に告げ、事代主が吟味してから出雲へ連絡、発令を須佐王がする。といった感じかな?
殆どの実権を渡した須佐王はこの時はもう各国の王と会議する時や、戦をする時に招集かけるだけ、みたいな感じだったっぽい。
出雲と云う名前は大和政権にヤマトの名を奪われてから出雲と云う地名が付いたんだそうですわ。
卑弥呼の時代は三島かハハクニ(妣國)と呼ばれていた。
三島と名がつく所も摂津、伊豆、四国、越など点在しててややこしいんで基本ハハクニが古代出雲の呼び方ですね。
根の国の地、伊豆→女王国。
元々は根の地と言って三島の王家が治めてはいたが、扱いは地方官って感じ??そんなに重要な土地ではなかった。1世紀に外国から来た王子を受け入れて三島の姫を嫁がせ、伊豆を国として機能させたらしい。
そうしてできた三島の王の分家が治めながら敵(駿河)を監視していた。出雲が弥真登として機能しなくなり、弥生の末期に遷都した弥真登。
もう多分、来るなら来い!!な感覚なんでしょーか。
敵が隣なら、出雲を目掛けて攻めればすぐ隣の伊豆が攻める事ができるもんね。
因みに事代主は伊豆を治めてたがあくまで伊豆の王。連合国弥真登の王じゃなくて、女王の託宣を伝える為に、出雲までの連絡係として役割を全うしていたようです。
弥真登の王は征夷大将軍、伊豆や越の王は御三家大名って言ったところでしょうか。
根の堅洲国、越→弥真登にならなかった弥真登。
3世紀の越の国は加賀でぷっつり別れちゃってます。
加賀には新羅から来た猿田彦の王家が住んでました。
多分…新羅だったと思う😭
元々は祭祀をせずに武芸に優れた王が治める国。
根の国の中で1番大きな国なので、ココを治めた王は大国主と云われた。
卑弥呼亡き後、弥真登の女王は伊予出身の台与になって祭祀はこの越で行っていた。なので遷都?とも取れるが、、、そうじゃないらしい。
因みに越の王で台与のダンナは八千矛と云って秀真と根の国のハーフ。大国主の名前にも残ってますね。
邪馬台国。のっぴきならない状況です…
伊豆はこの頃、絶対攻められない状況になってたのよ。秀真からの特別ゲストが入り婿(イリヒコ)して事代主になってたから。伊豆に女王を置けば大事な情報がまんま敵につつぬけ。。連絡係なんかゼッタイムリムリ!!
あっちもこっちも敵から来た男の王が立ったらムリだろ。そりゃ国中不服ですよ。
だからまだハーフのほうがマシって事でしょうか。
卑弥呼の後継者は越に置いたらしいのよね。
天岩戸を開いた後の神話のように、高木神をバックにつけて新・天照(台与)が戻ってきましたとさ。
ただ、越も10年〜15年ほどして祭祀の場所を伊豆に戻します。これは入り婿(イリヒコ)した事代主が死んだ為。
台与も敵に捕らえられ、祭祀ができない状態だったので、妹の伊邪那美命が伊豆に行った、と云う事になります。
番外編。?
根の三島、淡路の湊(みなと)→弥真登の幼稚園
根の三島は四国、淡路、佐渡を指す。
ココは三島の父親的存在。三島の王を数多く出した国です。伊邪那岐命も、須佐王の武奈貴(ムナジ)もココで生まれてます。
大国主の大穴牟遅(オオナムジ)こと三穂津彦(ミホツヒコ)もここで育ってます。
https://ncode.syosetu.com/n7405gx/6/
国作り編1でさらっと書いてますがwさらっとしすぎたかwww
どうやら祭祀をする姫神がそこに行き、結婚したら子供をそこに置いて行くようです。
そして三島の巫女達が乳母をして育てるようです。
英才教育専門の幼稚園みたいなもんですかね。
例えるなら根の国の慶應wwwかなww
父親が敵地にさらわれてそこで生まれて秀真で育てられた根の国の王子達は、王位につく前に試練を受けなければならなかったので、大層苦労したそうです…
https://ncode.syosetu.com/n7405gx/8/
三穂津彦さんなんか一応途中入園だったにも関わらず毒虫の部屋に閉じ込められたもんね…ひぃ、、
とりあえず、、そんなとこかな??
邪馬台国の有力候補だった北九州は。
海外からも南九州からも四方八方からよく敵が攻め込んでくるので。。
外国からの窓口だったのと、要塞でもあります。
ツワモノの王じゃないと務まらないです。
他の土地もそれなりに色々ありますが、メインの「邪馬台国の首都」に絞ってお話ししてみました😄
またね