私たちの郷土は十一月という日付を超えると、朝と晩、心臓を利き手の握力で柔らかく握られたような圧迫を感じるほどに冷え込んでしまう。
それはこの年もまた去年と同じように、あるいは一昨年と同じように終わりに近づき始めたということを教えてくれる。
生まれは中区間門町、育ちは南区山王台、少しばかり東京都杉並区に浮気した他は、今も南区井土ヶ谷という神奈川県横浜市のいずれかの町に住んでいる。
駅から一分という立地からだろうか、夜空に星が瞬かない。
星が見たい。
幼少の頃に伊豆の浜辺で見た満天の星、そして天の川が恋しい。
圧倒的な「他」の星々の煌めきに、相対的に小さく思える自分の存在を識る、あの何とも言えない寂寥が恋しい。
横浜市にも星はあった。
ドーム型の古いタイプのプラネタリウムで、私たちは本来夜空にあるものの不在について考え、不謹慎にも大停電の夜を想像した。
拡張型心筋症のこの弱々しい心臓が寒さに怯える季節。
体温を奪われて身体からうまく水が流れてゆかずに、利尿剤の服用なしには醜く浮腫みながら、心臓、肺に水分のたまりを作ってしまいかねない。
近所では一日一回、救急車のサイレンを聞く。
病んでいるの私だけではないのだ。
築数十年を経たUR住宅には様々な人々が暮らしている。
住民同士は自身の素性を隠すように、互いの交通に慎重で、通りすがりの挨拶さえかわさない場合もある。
私が病に根負けして倒れたとき、適切にしかる医療機関に通報してくれる隣人はいるだろうか? 疑わしい。
冬が長い年は気づけば色々な人に旅立たれてしまう。
病気を抱えた人が乗り越えられなかった冬を、寒気を恨みに思う。
凛々と輝く星に逝ってしまった人たちの姿を重ねたいのだが、この土地には宛となる星がない。
いや、星がないわけではない、私たちの郷土は星々のひかりをマスキングしてしまっているだけだ。
想像力に光を灯し、こころと呼ばれる場所の淵で、私たちは丹念にマスキングを剥ぐ。
プラネタリウムで見た星々の記憶を呼び起こし、死者一人ひとりに星を割り当ててゆく。
「あなたのことは忘れません。少なくとも私が生きている間は」
保証できるのは私が生きている間。
私までもが未明に堕ちたときには、この胸の星までもがなくなってしまうのだから。
親しかった人に割り当てた星の灯りの温かさよ、孤高の詩人の死に割り当てた星の冷ややかにも燦然と輝く眩さよ。
大気が凍りつき、澄みゆく季節だ。
私はこの冬を生きている内に本物の満天の星が見たい。
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