#シャギーベイン #ダグラススチュアート #早川書房



 アルコール依存症の母を持つなよなよした少年。

 彼と母、兄、姉、母のオトコたちを描いたダグラス・スチュアートの自伝的小説で #ブッカー賞 受賞作。
 とにかく痛すぎる物語でした。
 鈍器本というくらい分厚く重いし、暗くもあります。
 決してジメジメとした暗さではなく、描写もどこか美しい。
 しかしアルコール依存症というものの深刻さに息が詰まるのでした。

 私の周囲にもアルコールのために生命を落とした友人がいます。
 交通事故死ですが、轢かれたときに彼女は酔っていたはず。
 アルコール依存症克服のために頑張っていた日々もあるのですが、虚しくアルコールのために散りました。
 この物語にアルコールアノニマスAA会が登場します。
 しかしAA会は残念ですがあまり効果が望めません。

「シャギー・ベイン」の文学的価値はアルコール依存症の問題を率直に提出したことだけではありません。
 スコットランドの風土、カトリックとプロテスタントとの対立、LGBTQ+の各風景を鮮明に描きだしてくれています。
 時代はサッチャー政権。
 魔女が支配していた悪魔的な時代。
 日本でいえば第2次安倍政権以降の地獄と近しいです。
 貧困層の問題が根本であり、貧困が再生産されることも辛いのでした。
 もう嫌や、こんな世界と思わせる過酷な読書体験でしたが、私はこの作品に出会えてよかったです。
 アルコールを飲むのをやめてますが、その習慣を継続したいと思います。
 とはいえ「シャギー・ベイン」は説教臭さとは無縁で、むしろピュアな感性に触れられるのでした。

 強烈におすすめいたします。

#読書 #読書記録 #読書垢 #読書日記 #読書ノート #読書好きな人と繋がりたい #本 #本好きな人と繋がりたい #本棚 #文学 #小説 #現代文学 #現代イギリス文学 #英米文学 #イギリス文学 #book #bookstagram #shuggiebain #douglasstuart
#詩人 #人間の悲劇 #金子光晴 #ちくま文庫




復刻されたばかりの金子光晴の自伝「詩人」と、 #講談社文芸文庫 以来の再刊で自伝的作品「人間の悲劇」の合本を読みました。
「人間の悲劇」は再読です。

 金子光晴と私の出会いは小学生のとき。
 角川文庫版の「ランボー詩集」の訳が金子光晴でした。
 よく「ランボーの訳は小林秀雄じゃないと」という頓珍漢というか白痴的読者人がいますが、金子光晴の訳の方が断然素晴らしいです。

 その金子光晴を私は20代のときに講談社文芸文庫で集中的に読みました。
 引越しでその大分をなくしてしまったのが惜しいです。
 現在、講談社文芸文庫での金子光晴は入手困難ですから。

 金子光晴の自伝「詩人」は今回はじめて読みました。
 自伝、微に入り細に入り彼の人生が描かれます。
 めちゃくちゃ面白いうえに、読んでいて何度も落涙します。
 泣けるというより感動して流す涙。
 クライマックスは「人間の悲劇」同様に日中戦争、太平洋戦争と戦後すぐ。
 金子光晴は戦争一般を否定するのではなく、祖国が侵略戦争を仕掛けたことを憎みつづけます。
 元より西欧志向があり、祖国日本など信じていないのですが、よりによって侵略戦争などを身分不相応に起こすものだからゆるせない。
 早く戦争終われやと、それも早く負けて終われやと願います。
 素晴らしい。
 左翼的であったことを自認して、マルキシズムとも接近して侵略戦争と対峙するのですから、肝が据わっている。
「特攻隊の悲劇がー」みたいな近年の似非反戦論とはまったく違うのです。
 英霊がうんぬんいってる人間は迷惑だから次の戦争で早く死んで欲しい。

 帯に「時代、正義、常識、伝統 全てを疑う」と書かれていますが、私は金子光晴がそうだったとは思えません。
 自伝「詩人」を読むと、むしろ終生信じるに値するものを探しあぐねていた姿が浮かびます。
 信じるものを探して地球を這い回って、何も見つからなかった。
 それが金子光晴の真骨頂だったのではと思うのです。
 だから小さな大日本帝国の正義など目にもかけなかったのではないかなと。

 敗戦の記念日があした来ます(正確には8月14日の今日なのかもしれません)。
 金子光晴は「詩人」では「敗戦」ということばをえらび、「人間の悲劇」では「終戦」ということばを採用します。
 日本がイラク戦争に参戦する前は「終戦」でよかったのでしょう。
 もう戦争はしないという意味が「終戦」ということばの本意にあるのですから。
 しかし、金子光晴の死後、小泉純一郎政権のもと、日本は再び参戦します。
 こうした今このことであるものをゆるさないよというのが金子光晴の本意でしょう。
 自公維国の政治を今このこととしてゆるさない態度こそが、金子光晴の再生だと思うのです。
 ちくま文庫のファインプレーで、今このときに
 発刊された金子光晴の「詩人」「人間の悲劇」。
 金子光晴の人生を自分の生に引き付けて読むことの大事さ。
 どこまでもアクチュアルな読み方をしたいものです。

 #本  #本好きな人と繋がりたい  #読書  #読書好きな人と繋がりたい  #読書記録  #小説  #小説好きな人と繋がりたい  #純文学  #純文学好きな人と繋がりたい  #純文学好き  #日本文学  #book  #bookstagram #詩  #詩集

#資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか #ナンシーフレイザー #ちくま新書

21世紀を生きる私たちにとって必須の書物が登場しました。
ナンシー・フレイザーによる「資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか」。
邦題、タイトルは本書の要約であり、原書、原題は #cannibalcapitalism CANNIBAL CAPITALISM 「共食い資本主義」というもの。

なにが画期的か?
資本主義は経済のシステムだけだと錯覚すると様々な問題をスルーしてしまう。
ならば資本主義の概念を拡張しよう。
すると人種差別、ジェンダー、環境問題など、これまで階級闘争にとって周辺的と軽んじられた問題が、資本主義そのものの構造にとって不可避であることが炙り出される。
21世紀の抵抗運動はすべて反資本主義的でなければ意味がないとする。
これらの問題を実際の歴史の中から切り取って強調するのが本書の肝です。
素晴らしい👏✨

ただ、一部のアクティビストは諸問題の解決が反資本主義で一致しなければならないことに不同意かもしれないとも思いました。
問題の解決が革命の向こう側に置かれることを、彼、彼女はどう考えるのか?

しかし、伝統的なマルクス主義の在り方に絶えず立ち返る著者に私は全面同意するのでした。
一方でマルクスが「資本論」で論じきらなかったことを、著者独自に理論展開します。
資本の本源的蓄積がどのような収奪・略奪であったかを歴史から明 らかにするのです。

このような仕事は本来、新書ではなくハードカバーで出版されてもおかしくない高尚なもの。
しかし、ちくま新書はファインプレー、安価な新書で届けてくれました。
これこそが出版文化の本源的なチカラというもの。
新書のビジネス書や自己啓発本しか読まない人はいかに自分が奴隷であるか、本書で気付いて欲しいもの。
ただ、マルクスについて初歩的な理解がないと読み進められないのでハードルは多少高いです。
勉強会とかしたくなりました。
この本をもとにサークルを作りたいくらい素晴らしい読書体験でありやんす。

ネグリへの言及もあるとおり、ネグリ=ハートの運動論と同時に読むべきでしょう。

#読書 #読書記録 #読書垢 #読書日記 #読書ノート #読書好きな人と繋がりたい #本 #本好きな人と繋がりたい #本棚 #思想 #現代思想 #現代アメリカ #アメリカ政治 #book #bookstagram #nancyfraser


#100分de名著 #ルボン #群衆心理 #武田砂鉄 #nhk出版


 目の前の日本社会 でスポーツナショナリズム に #群衆 が燃えさかる中での読書になりました。

#NHK #Eテレ の「100分de名著」、ル・ボンの「群衆心理」を解説した武田砂鉄が好評で、11月はアンコール放送です(録画済み未見)。


 武田砂鉄による解説書は面白かったです。

 近年の #ネット炎上 #トランプ現象 と「群衆心理」との相関を解きほぐします。

 その上で武田砂鉄は「私をも疑って欲しい」「100分で名著は分からないから」と結びます。


 では「群衆心理 ル・ボン #講談社学術文庫 」へ。


 総じてストレスの多い読書でした。

 歴史的な意義は大きい古典なのでしょう。

 しかし「群衆心理」分析の「始まり故に足らない」と思います。

 ル・ボンは群衆は屈従を選ぶと断言します。

 しかし、 #ドゥルーズ #ガタリ のように「なぜ人は自ら隷属する道を選ぶのか」という「なぜ」という問いは発しません。


また、ル・ボンは人類の発動力を「民族の伝統」だとします。

 これでは民族は宿命性を帯びるし、その歴史はのっぺらぼうになるしかないでしょう。

 人類の発動力は直接的生命の生産とその再生産です。

 それにともない経済も産業構造も生産様式も変化します。

 ル・ボンはフランス革命も群衆の熱狂の結果としか見ません。

 その土台にある資本主義生産様式の発展など一顧だにしないのです。


ならば「群衆心理」が保守的であることについては、その後の #エーリッヒフロム の「 #権威主義的パーソナリティ 」を参照した方が1万倍マシです。

さらに「 #再生産について #ルイアルチュセール #平凡社ライブラリー 」や、 #ドゥルーズガタリ の共著群を読む方が1億倍マシです。


 とはいえ、「群衆心理」に効果があるのは「断言・反復・感染」というル・ボンの指摘は中々なもの。


 スポーツナショナリズムについていえば、サッカーファンが熱くなるのは構わないのですが、広告代理店が主導してNHKが「サムライブルー」うんたらといい始めたら注意すべきでしょう。

 小泉純一郎が「構造改革」といい始めて群衆が熱狂する。

 日本維新の会が「公務員削減」「議員定数削減」と断言して群衆を熱狂させる怖さ。

あるいは「GODIVA」の広告戦略に乗せられて、高級チョコだよねと信じ込むことの恐ろしさ。

 ル・ボンの「群衆心理」を読むと、こうした危険な「断言・反復・感染」への牽制にはなります。


ただ、「私の記事を疑え」、そして「名著を実際に読んで」という武田砂鉄に答え・応えたい。


「『群衆心理』はもはや名著としての役割を終えている」


「乗らないこと」の大切さは学べますが、それはNHKで「名著」だと謳われても素直に信じてはいけないこととも通ずるのでした。


#本 #本好きな人と繋がりたい #読書 #読書好きな人と繋がりたい #哲学 #社会心理学 #心理学 #book #bookstagram #gustavelebon #psychologiedesfoules

 

皆様

 

バンド「鳥を見た」の新譜が発売されます。

2022年7月13日(水)、CDとサブスクなどの配信で全世界発売です。

タイトルは「ソヨ風ニ躰ヲ揺ラシテ」。

 

「ソヨ風ニ躰ヲ揺ラシテ/鳥を見た」

 

1.サンフラワー

2.シモーヌ・ヴェイユの最後の傷痕

3.人間の終わりのピアノ

4.難破船

5.カミュと青空

 

メンバー

なかおちさと(G/Vo)

山崎怠雅(B)

ふなもと健祐(Dr)

 

ゲスト

成田千絵(Cello)

 

録音・ミックス

三浦実穂

 

マスタリング

高田清博 aka doronco

 

アート

石塚隆則

 

デザイン

プレイオブカラー

 

アートワークが素晴らしいですし、歌詞カードもついてますので、ぜひCDで入手してください。

 

Amazon | ソヨ風ニ躰ヲ揺ラシテ | 鳥を見た | J-POP | ミュージック

 

レコ発ライブを致します。

7月16日(土)荻窪club Doctor

 

「サボテンだらけの部屋」

 

鳥を見た

壊れかけのテープレコーダーズ

 

Open 19:00 Start 19:30

adv.2500yen (+1drink) door 2800yen

 

 

30名様入場制限ですのでお早めに。

 

ご予約は

 

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSe_zJPnUdrYKACDAigxQQgJHeGwzGaGjLG8SWgIcnAVahB1UA/viewform


「そのさきのやまは」


せんそうがとなりのとなりのまちまでやってきたよる、わたしたちはやまをこえてみようとあるきだした、にげだした

やまのむこうはまだひだねもないかもしれないから、わたしたちはやまをこえてみようとあるきだした、にげだした

やまのなかはくらくてさむい

それでもいくさよりはましだった

いくさはとなりのとなりのまちをやきつくしたという

おとなはとらえられ、こどもたちはさらわれた

わたしたちはおかされたくない

だれかのおもいどおりにされたくない

やまをこえるとむらがあった

わたしたちはそんちょうににげだしたわけをはなした

むらのひとたちはわたしたちのはなしをきいてきめた

もうひとつさきのやまをこえてへいわのちをもとめようときめた

わたしたちはかれらのいけんにしたがってめのまえのやまのむこうのことをおもった

そこにへいわのちはあるのだろうかといぶかしながらやまをめざす

 

人によるのでしょうが新型コロナウィルス感染について備忘録を書いておきます。

 

 

まず2月4日に大きな病院とコロナも診ているクリニックで合計4時間待たされました。

マスク😷、アルコール消毒、手洗い、うがいはきちんとしています。

5日に倦怠感で一日伏していました。

恐ろしい😱疲れでどうにもならんよ。

6日夜に発熱。

39.1℃。

何が起きたのか分からない。

夜間なので病院には行きません。

(( ¯• •¯ ))ガクブルしながら布団を4枚くらい重ねて、暖房全開。

熱があるのに寒い🥶

お気づきでしょうが、絵文字(  ˊ࿁ˋ ) ᐝ顔文字満載のおじさん構文でお届けします。

コロナを疑うとかしてられないくらい辛いかも。

翌日、38.7℃。

怖いのでロキソニン投入💊

少し下がりますが、また上がります。

熱以外の諸症状はありませんぬ( 'ω')?

喉が多少違和感ある。

鼻水なし(;´T`)、味覚異常なし。

お鼻すっきりで、味わい豊かにご飯食べるー。

食べるだけで疲れます。

8日、37.9℃、大分落ち着きますが、疲れやすい。

息切れがすごい。

相変わらず寒い🥶

9日、誕生日🎉🎂おめでとう🎉🎊

熱も下がります。

皆さんのメッセージがありがたい。

10日、昨日下がった熱がまた38℃台。

治ったと思ったら発熱で落ち込みます。

オカンJ( 'ー`)しも発熱。

うつしちゃった。

これまでオカンJ( 'ー`)しが無事だったのと、パブロン飲んだら楽になったので風邪かと勘違いしていたのですが、揺らぎます。

私の熱は下がりますが、息切れがすごい。

15日、痺れを切らしたオカンJ( 'ー`)しが病院で抗原検査。

コロナ陽性。

自動的に私も陽性認定。

担当医からも電話診療で陽性認定💮いただきました。

担当医が神奈川県へ連絡。

神奈川県との相互連絡が大変です。

息切れしているのに長い時間の電話は中々なもの。

しかし、先方はもっと大変かもしれません。

熱が下がって72時間経つので大丈夫判定。

16日に療養解除。

 

今回、検査を渋る神奈川県という先入観が正しい判断を遅れさせました。

あと、なぜかパブロンが効いたのもいけません。

配食がありがたいですが、4日後に到着というのが遅すぎまんす。

パルスオキシメーターではまだ93から95で、熱は下がりますが息切れはまだ辛い😭

これが後遺症かもしれません。

疲れやすい中に書いた備忘録なので読んでいただいてありがとうございます。

コロナは風邪とかいう人もいますが、死ぬほど辛い酷い風邪がコロナの軽症です。

気管支喘息、糖尿病、慢性心不全。

基礎疾患トリプル役満で軽症で済んだのはワクチン接種💉のおかげだよ。

おしまい。

 

あまりためになるお話ではなく、ごく個人的な思いをつらつらと。
プルーストの「失われた時を求めて」の読書は大変楽しいものでした。
成長譚、青春の日に「失われた時」、つまり無駄にした時間を「求めて」、つまり積極的に探究してみたよというお話。
あと当時にしてはショッキングな性描写が最後の最後の方に描かれたりして、甘いマドレーヌどころの話じゃねーわな。
ジョイスの「ユリシーズ」も青春の日の話。
ドストエフスキーの多くの傑作も青春の日の話。
みんな大好き、青春の日。
文学史に残る超絶な傑作の多くが青春の日の話であり、成長譚なのは面白いなと思うのでした。
こうした作品群の文学的な価値について、私のような虫はひれ伏すしかなく、なんか「すげぇ」とびっくりしちゃうのでした。
カフカやフォークナー、果てはベケットも主人公は青年だったりします。
特に青春の日が主題という訳ではなくとも。
ところが私が個人的な趣味で好きだなと思う小説は、むしろ汚らわしいおじさんが主人公だと、( ゚∀ ゚)ハッ!と気付きます。
アントニオ・タブッキの「供述によるとペレイラは」が私のベスト小説。
タブッキは優れた文学者です。
とはいえ、冷静になるとプルーストやジョイス、ドストエフスキーに並ぶような大文学者ではありません。
それでも私はタブッキが大好きで、私のエピタフにはタブッキのことばを描きたいくらい。
あとフィリップ・K・ディックの「スキャナー・ダークリー」や「ヴァリス」。
これも汚いおじさんが主人公。
さらにいえば島尾敏雄の「死の棘」。
これも汚いおじさんが主人公。
私が好きな小説は割と青春とはあまり関係なく、主人公も冴えないおじさんであり、プルーストの「私」のようなピカピカの青年ではありません。
私は青春の日の成長譚に文学的な価値を見出しますが、好みなのはおじさんが活躍したり、さらに堕落したりするお話ばかり。
そして青春の日の成長譚とくらべると、おじさんの堕落譚は、文学史的な尺度では不当に低く見られがちなのだと気付きます。
ま、ただ虐げられたおじさんが主人公だからこそ、私はこれらの小説が好きなのです。
取締役、社長、会長、政治家。
これら威張り散らしたおじさんが主人公であるなら、私はその主人公が地獄に堕ちるような小説しか好きにならないでしょう。
「失業保険島耕作」とかないの?
個人的な趣味で、まったく普遍的な価値を付与できる話題ではありません。
ここまで付き合っていただいた方に何か新しい価値を与えられる記事でもありません。
私は汚いおじさんが主人公の小説がなぜか好きだと気付いたよというお話でした。

 #小説  #海外文学  #book  #bookstagram  #novel  #読書  #readingbooks  #読書記録

学部のひとつ先輩に「典子」さんという方がいました。

「のりこ」というのが本名ですが、皆からは親しみを込めて「てんこ」というあだ名で呼ばれた先輩。

こころ優しい人。

法学部という空間は情緒よりも法理を優先しがち。

法解釈、判例解釈に「優しさ」というものはときに邪魔だったりします。

しかしてんこさんはその「優しさ」を何より重んじてしまうので、ときに悲しい思いをしたようです。

てんこ先輩と一緒にある裁判を傍聴しました。

保育園の遊具での事故でお子さまを亡くされた方が起こした民事訴訟。

被告は監督すべき保育園だったかな。

皆さん、思い出していただきたいのですが、私たちが子どもの頃の遊具は危ないものばかりでした。

しかし、その遊具で怪我をしても、設置した自治体なりを相手に訴訟を起こしたりすることは稀でしたよね。

それでも時代が変わり始めて、私が法学部に入学した1990年代辺りから、遊具での事故についての訴訟がぼちぼち出始めます。

その先駆けのような事件で、てんこ先輩は原告の母親を支援していました。

判決が下される瞬間に私たちは立ち会ったのですが、この裁判は原告側の敗訴で呆気なく終了。

危険な遊具で子どもが亡くなっても、誰の責任も問われずに終わります。

てんこ先輩は落ち込んでいました。

私自身はことの大きさに気付かないまま。

いま、公園などのスペースには危険な遊具などありません。

この訴訟以降にも様々な事故の度に、被害者たちが声をあげ、ときに裁判に訴える流れが生まれます。

行政は訴訟リスクを抑えるために危険な遊具を徐々に撤去し始めて、今日に至ります。

てんこ先輩の原告支援の運動や、その心意気の意義の重さに当時の私たち法学部生は鈍感でした。

判例などを参考にすると、当時の原告不利の状況を私たちは「仕方ない」と解釈していたのです。

しかしいま、あのときのてんこ先輩は正しかったと私は歴史の前で跪きます。

 

なにが彼女をうちのめしたのか。

 

あまり事情は知らないのですが、てんこ先輩はどなたかと結婚なされて、大学を中退して故郷の広島に帰ります。

てんこ先輩の「優しさ」は当時の法学部の空間では頓挫したかもしれません。

しかし、彼女の底抜けの「優しさ」に少しだけ歴史は微笑んでくれたのかも。

いまや危険な遊具がひとつもない近所の公園などを眺めるとき、ぼんやりてんこ先輩の面影を思い返します。

 

二次使用されないためにこちらに掲載させてください。

大森靖子「シンガーソングライター」について書いたものです。

大森靖子【シンガーソングライター】歌詞の意味を考察!誰を救いたい?大森靖子が歌詞に込めた感情を紐解く

 

Text by nakaochisato

 

 

 

大森靖子が2020年にデジタルリリースした「シンガーソングライター」は挑発的かつ過激にも思える歌詞で話題になりました。一方でこの曲の歌詞は大森靖子が大切にしたいと信じているものを徹底して擁護します。様々な側面を持つこの曲の歌詞を紐解いてみましょう。

 

 

本文

 

 

1.「シンガーソングライター」は何を歌ったのか

 

 

 

2020年7月29日発表、大森靖子のデジタル配信シングル「シンガーソングライター」。

鮮烈であり、挑発的であり、リスナーを突き放すような歌詞で話題になります。

一見、無愛想に私たちを呪うほど傷みつける歌詞であると感じられるでしょう。

しかし、大森靖子はこの「シンガーソングライター」の中で人間にとって価値あるものを救い出そうとします。

絶望の中にいても辛うじて見える希望を信じているような仕種がこの曲の肝です。

とはいえ、両義的、多義的なその歌詞の中で、過激なラインばかりが私たちを怯えさせます。

これからの短い記事はこの曲のパブリック・イメージから、やわらかな感性を救い出すために紙面を割きましょう。

大森靖子が信じているものを「シンガーソングライター」の中から浮かび上がらせること。

この作業の果てに、これからの時代を生きる私たちの指針のようなものさえ見えてくるのです。

本当は優しかった大森靖子の「シンガーソングライター」。

大切なキーワードは「自分」というものです。

それでは実際の歌詞をご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

2.歌い出しからセンセーショナル

 

 

金属質の音響、深いエコー、静かな曲調かと思いきやいいしれぬ激しさも同居しています。

独白、もしくは「毒吐」のような歌詞を大森靖子が丹念に歌うのです。

 

 

 

A.私たちは自身の加虐性に気付けるか

 

 

「ゆれる やれる 電車もビルもおわりの道具に見えたら

ぼくも なんか 生きてるだけで 加害者だってわかった」

出典 シンガーソングライター/作詞:大森靖子 作曲:大森靖子

 

 

歌い出しはしっとりとつぶやくような言葉たち。

大森靖子はつかみの段階で早くもセンセーショナルなイメージを沸き立たせます。

通勤・通学電車やオフィス街のビルディング群。

都会に必須のこうしたインフラが、すべて自殺の手段として使えるのではないかと主人公の「ぼく」は気付くのです。

あまりに不穏な出だしでしょう。

私たちは通勤・通学の際に当たり前に目にするこうしたインフラを見て、自殺に結びつけたりはしません。

しかし、死に場所を探してしまう鬱傾向の人にとって、電車や高層の建物は恐ろしいものに変わるのです。

こうした鬱傾向を持つ方は決して少ない数ではありません。

社会全体が逼迫し、ストレスが過剰になるとこころの風邪を引いてしまうのはむしろ普通のこと。

さらにこの歌の主人公である「ぼく」は自身の加虐性に気付いてしまうのです。

こころが傷付いたと嘆いているだけではありません。

自分だって誰かを傷付けるような乗り物、建造物とともに疑問なく暮らしてきた。

そこに潜んでいた残虐性に目を啓きました。

この「ぼく」に大森靖子自身を重ねても構わないのでしょうが、それほど安易な解釈は赦されない厳しさもあります。

 

 

 

 

B.自分を肯定したいのに

 

 

 

「野菜や肉 断面をラップ ポカリで全部治りゃしない

尻拭いをさせられるほうが楽

もっと 人でなしの感情は心じゃないのか

ミラクル馬鹿者丸腰」

出典 シンガーソングライター/作詞:大森靖子 作曲:大森靖子

 

 

 

 

抽象的で分かりにくい表現が続きます。

歌詞に現れるすべてのワードに拘泥するより、その背景にある荒ぶるこころを感じたいところです。

私たちは毎日、何かしらの食物を口にします。

家畜や動物の痛みを気にして菜食主義にハマる人もいるでしょう。

しかし植物しか口にしない人であっても、生命をいただいて自分の生活を維持している事実に変わりはありません。

人間の体液に近いとされるポカリスウェットは病体のときの水分補給に最適です。

しかし、病そのものを治してはくれないでしょう。

こうした自分をケアできない状態が、いつの間にか常態になってしまうこと。

「ぼく」にとってこの世界を生きるのは辛いことなのです。

気分はどうしても刺々しくなってゆきます。

社会や他人からは非難されかねない捨鉢なこころ。

こうしたこころの在り様では真人間として失格なのか「ぼく」は悲鳴を上げるのです。

捨鉢なこころ模様であっても、それもこころの在り方だろうから「ぼく」は肯定したいと願います。

罵倒されたって自分が生きてゆくのに必要なこころの在り方は上等なものだと居直るのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.世の中の欺瞞を暴いてみせる

 

 

 

いよいよ最初のサビです。

繊細に紡がれるサウンドにも注目したいところでしょう。

クリーンなギターや鍵盤のトーン。

やがて各楽器が歪みながら壮大に展開する楽曲が見事です。

 

 

 

A.コンプライアンスを冒してでも

 

 

 

「生きさせて 息させて 遺棄させて

なんなら抱いてもいいから

狂わせて 狂わせて 狂ってたら

入場できない?むしろ割引けよ」

出典 シンガーソングライター/作詞:大森靖子 作曲:大森靖子

 

 

 

サビの歌詞の冒頭は言葉遊びになっています。

同音異義語を3回連続させるのですが、言葉遊びという割には受け止めると印象が重いです。

生きることへの決意が表明されることに少しホッとするかもしれません。

しかし、最後の捨てさせてくれないかという言葉でリスナーは暗い予感をまたも抱くのです。

捨てるのはやがてたどり着くだろう自分の亡骸かもしれません。

きちんと墓地に亡骸を収めるのではなく、そこら辺に捨てさせてはもらえないか。

「ぼく」の捨鉢な気持ちは収まるどころか、むしろサビに至って爆発してしまうのです。

このフリーキーな印象は大森靖子の持ち味といっていいでしょう。

そうであっても「シンガーソングライター」の言葉は重いです。

「ぼく」はいっそ狂人になったっていいと願います。

狂人は社会参加から締め出されるというのが筋です。

たとえばイベントの安全な運営のためには、明らかにおかしい人は会場に入ることさえ許されません。

大森靖子はコンプライアンス的にギリギリの線で「頭のおかしいぼくは割引料金になる」のが筋だと常識を転倒させます。

怖ろしい歌詞ですのでこれ以上、踏み込んだ解説はできません。

大森靖子が平穏に見えがちな社会全体に迫る挑発は、そこに横たわる欺瞞の打破のためにあるとだけ付け加えましょう。

 

 

 

 

B.歌が殺されるって?

 

 

 

 

「お前に刺さる歌なんかは

絶対かきたくないんだ

人違いバラバラ殺歌

シンガーソングライター」

出典 シンガーソングライター/作詞:大森靖子 作曲:大森靖子

 

 

 

いよいよ物議を醸したラインの登場です。

主人公の「ぼく」はシンガーソングライター。

この「ぼく」はリスナーの共感をたやすく獲るために歌を作ったわけではないと歌うのです。

これまでも見たとおりに「ぼく」のメンタリティは「普通」のものではありません。

鬱傾向だってあるし、自身の加虐性に気付いている。

もはやむき出しの狂人であってもいいじゃないかと願うようなパーソナリティです。

こうしたメンタリティを抱えた「ぼく」は自分の歌を他人がたやすく「分かる」と頷くのが赦せません。

ここまで正常と異常の間で揺れ動いている生身の人間の歌は、やはりそう易々と世間に受け入れられてはいけない。

「シンガーソングライター」にも色々なタイプの人がいます。

その中にあって「ぼく」は大衆の気持ちの安寧のために優しい歌を創る「シンガーソングライター」ではありません。

間違っても人々の最大公約数を見極めて、計算し尽くした歌詞を届けてくれる「シンガーソングライター」ではない。

最大公約数を描く「シンガーソングライター」たちと「ぼく」を一緒にしないで欲しい。

「ぼく」はあなたが求める癒やしなど知らない。

期待する宛先が違ってくると、殺されるのは歌そのものじゃないかと「ぼく」は悲痛な叫びを上げるのでした。

「殺人じゃない、歌殺しだ」

「ぼく」は自分の中にある作家性というものをどうにか守ろうとして歌い続けるのです。

 

 

 

 

 

4.社会への透徹した視線

 

 

 

 

2番の歌詞を見ていきましょう。

大森靖子の批評眼はさらに鋭くなってゆくことに気付けるはずです。

 

 

A.     刹那な幸福に生きる

 

 

「human rights,beautiful,目と鼻と口

台風一過の朝凪

死んでもいい幸せなんて せいぜいコンマ1秒」

出典 シンガーソングライター/作詞:大森靖子 作曲:大森靖子

 

 

 

 

人生は幸福ばかりが詰め合わされたものではないでしょう。

本当に記憶するに値するほどの幸福は瞬時的、瞬間的な刹那であると「ぼく」は考えます。

ただ、ここでまず幸福の基準に挙げられるのが基本的人権であることはとても重要です。

私たちの社会を築く基礎である基本的人権の尊重。

悲しいことに戦前の日本では自明のものではありませんでした。

第二次大戦後になってようやく日本という国の基礎になりますが、その基盤は盤石であるとはいいがたいです。

「ぼく」はあまりに個性的な自分が生きていられるのもこの基本的人権という思想によって保証されると実感します。

だからこそ幸福の前提条件として必要不可欠だと歌うのです。

また審美の基準は人それぞれですが、「ぼく」は「ぼく」流の美を大切にします。

自分が美しいと思うことを守れる背景にも基本的人権の尊重というものが不可欠です。

自身に備わった五感によって得られる美。

大きな嵐の後に訪れる静かな時間の美しさ。

美しいと感じられるこころは、この世界に生きる意義を教えてくれるでしょう。

「ぼく」が指摘するようにそうした幸福は刹那なものかもしれません。

そうであっても人生すべてが闇黒であったと嘆くよりはマシなのです。

僅かな幸福を大切に生きていること。

しかし、幸福の割合が少ないという嘆き。

現実はこうしたアンビバレンツな思いを「ぼく」に背負わせます。

 

 

 

 

 

B.私たちは何に隷属しているのか

 

 

 

 

「選択肢なくて パパ活で整形

奴隷なの誤魔化してる

所詮歴史がぼくをつくっただけなの

どうして美しくないのかな

正義の面こそ 知らぬが仏レイシスト」

出典 シンガーソングライター/作詞:大森靖子 作曲:大森靖子

 

 

 

 

大森靖子の舌鋒はさらに過激化します。

こころ当たりのある方にとっては痛い批判になるかもしれません。

「失われた30年」という言葉がよくいわれます。

若い読者の方はピンとこないかもしれませんが、日本経済は成長を鈍化したまま30年もの月日が経ちました。

その間、豊かな社会・日本を知らない世代が増えてきたのです。

経済的な停滞とともに進行するのが格差社会。

上流・下流、あるいは上層・下層に振り分けられた社会が訪れました。

下層社会の中でもとりわけ弱い立場に追い込まれがちな女性たち。

こころも身体も売り渡して生活するしか、生きる術のない人たちも大勢います。

彼女たちの中には自分の外面的な美というものにプライドを持っている人もいるでしょう。

しかし、そうしたプライドを美容外科手術によって獲ているのでしたら悲しすぎます。

下層にいる人々は皆、何ものかに隷属する立場です。

国家、巨大資本、モラル、イデオロギー、市場への隷属。

この隷属状態を人は必ずしも意識化しません。

下層にいる人にもプライドがありますから、隷属している自分というものを直視する気力が沸かないのです。

 

 

 

 

 

C.排外主義・差別主義の暴風

 

 

歌詞の中の「ぼく」は自分が歴史を作るのではなく、歴史こそが自分を作ると考えます。

極めて妥当な考え方でしょう。

世界が美しさに満ちているのならば、「ぼく」だってその美の一部として産み落とされたはずです。

しかし、世界、あるいは歴史というものはそれほど美しさに溢れたものではありません。

当然、世界や歴史が産み落とす「ぼく」も醜いのだと嘆きます。

この社会には目を背けたくなる悪もあるでしょう。

こうした悪はむしろ積極的に正義の仮面を被るのです。

「ぼく」、あるいは大森靖子はここでそうした悪の例として排外主義・差別主義者をあげました。

排外主義・差別主義というものは現代において様々な顔を持つようになります。

単純な移民排斥だけが排外主義ではないでしょう。

差別主義だって様々な顔を持ち、ときには社会の中で正義の仮面を被っている。

排外主義・差別主義者の困ったところは、その正義の仮面を自覚しない点です。

本当に自身の正義感から排外主義や差別主義に加担している人もいると大森靖子は暴きます。

先に見たAメロでの基本的人権の尊重という概念と真っ向から対決するのが排外主義や差別主義です。

大森靖子、もしくは歌詞の「ぼく」がどちらに美や幸福を見出しているかは明らかでしょう。

 

 

 

 

 

 

5.音楽は危険?

 

 

 

 

A.大雑把な感性が気に入らない

 

 

 

 

「言わないで 言わないで 今なんか

うざいの耐えられないから

車乗って来るまでに 携帯は

通信制限超えてとまった

それっぽいうたで流行ってる

前髪長すぎ予言者 話暗くて勘弁」

出典 シンガーソングライター/作詞:大森靖子 作曲:大森靖子

 

 

 

 

 

ここでは既存のJ-POPへの批判のような言葉が並びます。

J-POPの中にあって、その大勢の在り方をよしとはしない大森靖子の肉声を聴く思いです。

大森靖子は果たしてJ-POPの何に対して憤りを覚えているのでしょうか。

おそらく彼女の神経を逆なでしているのは「分かったような顔をして人生を説く」ような流行歌です。

あくまでも「売れる」ことを主眼に歌詞を書くと、人のこころの「最大公約数」を狙う作業が必要になります。

また、イージーに、インスタントに「勇気」を与えてくれるような歌詞も喜ばれるでしょう。

しかし、「シンガーソングライター」の「ぼく」のようなメンタリティはこうした歌を歓迎しません。

「ぼく」は知らないシンガーに「分かられる」ことを特に嫌うのです。

もっと繊細で価値あるものこそが大事ではないかと考える「ぼく」にとって流行歌は大雑把すぎます。

最大公約数から漏れるような、割り切れないような存在である「ぼく」というものを大切にしたいと願うのです。

流行歌はキャンディーの包み紙にくるまれて届けられます。

しかし、いざ包み紙を開いてみると案外湿気たキャンディーがあるだけです。

人生とはというそれこそ繊細な問題を大雑把な感性で説法するのですから、「ぼく」には馴染めません。

「ぼく」、あるいは大森靖子の思いはさらにヒートアップしてゆきます。

 

 

 

 

 

 

B.赦せない歌がある

 

 

 

「全てわかったと酔っている歌歌歌歌

共感こそ些細な感情を無視して殺すから

STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC

刺さる音楽なんて聴くな

おまえのことは歌ってない」

出典 シンガーソングライター/作詞:大森靖子 作曲:大森靖子

 

 

 

 

他人である「ぼく」を簡単に理解してくれるなとどこかのシンガーに訴えかけます。

むしろこうした歌なんか大嫌いだと「ぼく」は率直に表明するのです。

「ぼく」は安直な歌を聴くくらいなら、音楽など止めて無音の中で生きたいとさえ願います。

大森靖子は「ぼく」に憑依しながらも、割と直截的な言葉で心情を吐露するのです。

この箇所は「ぼく」と音楽との関係を歌っているだけではありません。

むしろ私たち一般のリスナーの音楽の受容・消費の仕方に異議を唱えるのです。

私たちは気に入った歌詞があると、すぐに共鳴したがります。

この喜びのシェアの仕方が実は危険なものであると大森靖子は見抜いているのです。

この点こそ「シンガーソングライター」の肝心な箇所ですので詳しく考察しましょう。

 

 

 

 

 

 

C.音楽とプロパガンダ

 

 

 

「共感こそ些細な感情を無視して殺すから

STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC」

出典 シンガーソングライター/作詞:大森靖子 作曲:大森靖子

 

 

 

 

 

大森靖子が訴えている内容はとても多層的で豊かなものです。

一見、音楽の消費の仕方の問題に特化しているように見えますが、その適用範囲はもっと広大でしょう。

誰かの書いた歌詞に共鳴すること、こころが震える思いがすること。

音楽は伝達という仕種で成り立っているのですから、こうした体験は至上のものだと思われてきました。

大森靖子はしかし、こうした至上のものの仮装を剥いでみせます。

いちいち他人の意見に共鳴していたら、自分というものがなくなりはしないか?

素性は知らないシンガーの意見に簡単に頷いていたら、あなた自身の繊細な感性が死に絶える。

大森靖子も「ぼく」も幸福の前提として、狂っていても基本的人権の尊重というもので美に昇華される点をあげていました。

そうした傾向を排外主義や差別主義が台無しにすることも見てきます。

大森靖子はちょっとした共鳴=意見の同調というものだって自分というものを損なうのだと警鐘を鳴らすのです。

この指摘をさらに広げると思い当たる歴史があります。

全体主義は市民間の意見の同調を押しつけてから始まりました。

大森靖子がここで「分かるな」と警告を発するのは、ちょっとした共鳴の果てにある怖ろしいものを見越してのこと。

かつて全体主義社会の中で音楽はプロパガンダの一環として機能していました。

国民気分の高揚のため、あるいは国民同士の「絆」を深めるために鳴っていた音楽もあります。

「分かる音楽」「分かる歌詞」がいかに危険なものであるのか。

音楽は基本的には人の幸せをよい方向へ導くものかもしれません。

しかし歴史の文脈が間違うと個人の幸せにとって害悪にさえなることがある。

だから「音楽を止めて」と大森靖子と「ぼく」は12回も連呼します。

大雑把な歌への大雑把な共鳴はこれほどにグロテスクだと大森靖子は問題意識を持ち続けているのです。

 

 

 

 

 

6.「ぼく」から「僕」への成長

 

 

 

 

 

楽曲はクライマックスに向かいます。

「ぼく」の決断の果てには何があるのかを見てゆきましょう。

 

 

 

 

A.孤独こそ自分の味方

 

 

 

 

「生きさせて 息させて 遺棄させて

なんなら抱いてもいいから

狂わせて 狂わせて 狂ってたら

入場できない?むしろ割引けよ

愛させて 愛させて 愛してる

一生映えてろ 僕はいちぬけた」

出典 シンガーソングライター/作詞:大森靖子 作曲:大森靖子

 

 

 

 

 

繰り返しになる箇所もあります。

不思議なのですが、どの歌詞サイトでも「ぼく」はここから「僕」という漢字表記になるのです。

幼い印象がする「ぼく」から、大人の「僕」へと成長した。

つまり、先程のラインで「音楽を止めて」といいきれた「ぼく」は、「僕」という大人になれたのかもしれません。

リフレインですが最初の方で考察したときよりも強い意志というものを感じさせます。

大森靖子があえて「ぼく」を「僕」に変えただけで同じラインの印象が変わるのです。

社会の中でアウトサイダーとして生きようとする「僕」。

この「僕」が大事にしているものは何でしょうか。

SNSで画像の写り方を気にしながら生きることを「僕」は嫌います。

承認欲求の満たし合いでこころを慰めるのが嫌なのでしょう。

「僕」の行路は孤独なものかもしれません。

しかし、孤独だからこそ「僕」は自分というものを大切にできるのです。

すべては自分次第。

こうした人生における態度は全体主義社会を崩壊させる力があります。

 

 

 

 

 

 

 

B.個人主義バンザイ

 

 

 

 

 

 

「アンチも神もおまえ自身

僕はここにいる肉の塊さ

人違い 僕を壊して

シンガーソングライター

救いたい おまえじゃなかった」

出典 シンガーソングライター/作詞:大森靖子 作曲:大森靖子

 

 

 

 

 

楽曲「シンガーソングライター」のクライマックスのラインです。

大森靖子に楯突くアンチ層も、妄信的についてくるファンも決定権はその人にある。

「シンガーソングライター」には様々な尾ひれがついて、実物とは違う虚像が消費されかねません。

勝手に解釈されるのは仕方のないことだとしても、大森靖子はせめて人間の声を残したいと綴ります。

彼女はかなり直截的な表現で「シンガーソングライター」の歌詞を埋めました。

いいたいことはすべて歌詞でいったと胸を張れるほどに赤裸々な声が詰まっています。

等身大の「僕」を消費させはしない。

自分は「シンガーソングライター」として、あくまでも「自分」というものを救出してきた。

大森靖子の歌が分かるという人を突き放すように、「僕」もあなたも自分次第でいいじゃないかと歌います。

こうした思想に対して「行き過ぎた個人主義」という批判が聞こえたら注意したいものです。

個人の尊厳よりも社会の安寧を優先する発想には、すべて全体主義の萌芽があります。

大森靖子がこの時代にあえて「シンガーソングライター」という楽曲を世に問うたのは重い意義があるはず。

J-POPの流行歌の中には簡単に同調を促す怖さが潜んでいる。

さらに現実社会の中で人権侵害を行う排外主義や差別主義が蔓延する。

そうした潮流に対して抗って生きてゆく「シンガーソングライター」とはどんなものかを大胆に描きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7.まとめ 「シンガーソングライター」の希望とは

 

 

大森靖子は「シンガーソングライター」をコロナ禍以前にライブで披露しています。

つまり「シンガーソングライター」という楽曲自体は後のコロナの時代を知らずに生まれました。

訪れたコロナの時代は人々の気を滅入らすもの。

人々は苦難を乗り越えるために「絆」のようなワードに拘泥します。

この災厄を乗り越えるには協力し合うしかないという空気が社会に満ちました。

一面で、そうした考えも妥当かもしれません。

しかし、そこで単純に同調したりすると自分が損なわれてしまう。

そんな危機感を覚えた人も少なくないでしょう。

一見、暗くシニカルで、皮肉に満ちた「シンガーソングライター」の歌詞。

その中には非常にネガティブな現実だって見えてきます。

それでも私たちリスナーはこの曲から福音のようなものを獲ることだってできるのです。

「ぼく」「僕」、あるいは大森靖子が同調圧力の中からの逃げ道を示したこと。

うまく逃げ切るためにまずは「自分」というものを大事にするのだと歌ったことは希望に繋がるものでしょう。

この歌を簡単に理解したと頷くことを大森靖子はよしとしないかもしれません。

それでも私たちはもう一度「自分」というものを大切にしたっていいはずです。

なにせこの「シンガーソングライター」には現代の「自分」を保証するのは基本的人権の尊重だと看破します。

さらに進んで、こういった権利思想を脅かす排外主義・差別主義の蔓延を嘆かわしいと歌うのです。

かなり社会批評的に的確な分析がなされています。

大森靖子がこうした批評眼をポップソングで提出することに成功した事自体がJ-POPの希望なのかもしれません。

「シンガーソングライター」は後に、アルバム「Kintsugi」に収録されます。

「Kintsugi」とは「金継ぎ」という日本の伝統的な工芸手法のことです。

壊れた陶器などを金で継ぐことによって道具として再生する技。

つまり一度は破綻したものでも再生することができるという希望を託したタイトルでしょう。

「シンガーソングライター」が収まるべきアルバムのタイトルとして相応しいもの。

付き合いにくそうに感じるこの曲の歌詞に潜んでいる、わずかな希望を生かしてあげたくなります。

ここまで読んでいただいてありがとうございました。