西村幸祐 『今と違って正常だった 終戦直後の日本の雰囲気』 | みおボード

みおボード

みおさんの生活♪♪


終戦後6年半に及ぶ占領が終わり、日本は昭和27年(1952年)4月28日に主権を回復し、再び独立を果たした。
真っ先に日本政府が行なったのは何か。 連合国の軍事裁判で処刑された〈戦犯〉の名誉回復である。国内法上の犯罪者として見なさないという法務省見解が出されたのである。
つまり、これは 主権回復後に日本が独立国家として国際社会に復帰したことをシンポライズする行為だった。

翌昭和28年には日本社会党の堤テルヨ衆議院議員の提言で、遺族援護法の改正を目指す運動が盛り上がった。当時の有権者のほとんどである4000万人の署名も集まり、国会で与野党全会一致で改正遺族援護法が可決されたのである。
すなわち、東京裁判も含めた連合国の軍事裁判で処断されたA、B、C各類の〈戦犯〉を、日本人の総意で救済したのである。日本人全員が占領中の敵国による軍事裁判で有罪とされた人も、国内法的には罪人と見なさないことを明らかに宣言した。

これは戦前 戦中生まれの、戦後復興に献身した当時の日本人が いかに健全であったかを示す出来事だが、これが歴史的事実である。
この例を読んで 戦後生まれの戦後教育を受けてきた読者諸氏は不思議な感覚がするに違いない。
主権回復の直後には戦勝国に一方的に〈戦犯〉とされた人々を、ほぼ国民の総意で 罪なしと高らかに宣言したのに、今の日本社会の空気は違うではないかと。
今、日本全体をボヤッと覆っている「悪いことをした人たちについてあまり奉ると、アジアの国々が反発する。石原や小泉や安倍は あまり過激なことをして刺激しない方がいい」という空気は、いつ 形成されたのか?誰によって?
この疑問の答えを日本人すべての世代が明確に認識することができれば、長引くデフレ不況と東日本大震災の復興もままならない日本にも、自然と光が射してくるのである。
(P81~82 亡国の凶器、マスメディア改革論)

*****
…靖国神社の参拝に反対する日本人を、ビッテル神父が生きていたらどう思うことだろうか。 靖国神社の境内のどこかに、ビッテル神父の像を建てれば、アメリカやカナダ オーストラリア ヨーロッパを始めとするキリスト教圏で、靖国神社がよく理解されることとなろう。

戦犯の合祀のことが取りざたされるが、1952(昭和27)年に日本弁護士連合会が『戦犯の赦免勧告に関する意見書』を政府に提出したことを契機に 全国に運動が広がり、1955(昭和30)年7月に衆議院本会議で426名の国会議員が赦免決議を可決した。この国会決議によって、日本から「戦犯」がいなくなった。

日本の大新聞は、靖国神社に『A級戦犯』が祀られているのは許せないと主張しているが、それは国会決議を無視 否定していることになる。それだったら日本の民主主義がおかしいと主張し、国会を否定すべきだろう。

昭和天皇は「敵国にとっては戦犯かもしれないが、わが国にとっては国の為に尽くした功労者だ」と語られていた。いわゆる『A級戦犯』が合祀されているからといって、国を守るために命を捧げた英霊が祀られている靖国神社へ、天皇陛下が親拝を出来ないということは あってはならないことだ。
ジャーナリストが公人の靖国神社への参拝を「公的か」「私的か」と尋ねる愚をやめて、自由に参拝できるようにすることが必要だ。

私は戦争中に行方がわからなくなった人たちのことに心を痛めている。
私の義母の兄は戦時中に商船に乗り組んでいたが、海に出て行方不明とされている。妻の祖母は時折、水平線を見つめながら 海辺にずっと座って息子の帰りを待っていた。
どうなってしまったのか 記録がない。家族は霊が靖国神社に帰ってきたと信じている。素朴な気持ちだ。
私も靖国神社に詣でて、日本の伯父の霊が 安らかに眠っていると祈ってきた…
ヘンリー S・ストークス 『英国人が見た「連合国戦勝史観の虚妾」』