憲法改正反対論の「偽装」見抜け  駒沢大学名誉教授・西修 | みおボード

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どんな議論にも作法が必要だ。基本原則は事実を正しく伝達することと、筋の通った説明をすることである。この数カ月間に展開された護憲派の言説は、原則に外れていると思われてならない。


 ≪自民96条改正案を完全誤解≫

 いくつも例証できるが、まず5月3日付の朝日新聞に掲載された石川健治東京大学法学部教授の論稿。「96条改正という『革命』」「立憲国家への反逆に動く議会政治家たち 真に戦慄(せんりつ)すべき事態」という大仰(おおぎょう)で扇情的な見出しの下で、「96条を改正して、国会のハードルを通常の立法と同様の単純多数決に下げてしまおう、という議論が、時の内閣総理大臣によって公言され、(中略)これは真に戦慄すべき事態だといわなくてはならない」と記述されている。


 自民党の憲法96条改正案を完全に取り違えている。同党の改正案は、現行の「各議院の総議員の3分の2以上」を「両議院のそれぞれの総議員の過半数」に改めるのであって、通常の立法手続きとは明らかに差がある。すなわち、通常の立法手続きは「出席議員の過半数」の議決であり、定足数は「3分の1以上」である。それゆえ通常の法律は、最低限、6分の1超の議員の賛成で成立する。しかも、国会のみで決められる。

 これに対し、自民党案では「総議員の過半数」により発議され、さらに国民投票に付される。石川教授の記述がいかに虚偽に満ちているか歴然であろう。このような間違った言論が大新聞に堂々と載ることこそ、「真に戦慄すべき事態」といわなければならない。見出しが独り歩きして、自民党改正案は「反立憲的」という意識が植えつけられかねないからだ。

次に、護憲弁護士として著述や発言の多い伊藤真氏の論述を引こう。氏は、日本国憲法以上に改正要件の厳しい憲法が「ごろごろ」していると述べ、例に米国憲法とスイス憲法の全面改正の手続きを挙げる(伊藤真『憲法問題』)。ここで引いてある米国憲法の改正手続きは、両院で3分の2以上の議員の議決により改正案が発議され、4分の3以上の州議会の賛成を得て成立すると規定されている(他の方法もあるが省略)。

 

≪米憲法改正要件厳しからず≫

 両院における3分の2以上とは出席議員の3分の2以上であって定足数は過半数とされている。従って、憲法改正案は3分の1超で発議できる。また、4分の3以上の州議会とは、50州中38州以上になる。一見、高いようであるが、日本の47都道府県に置き換えると、36以上の都道府県議会で可決すれば成立することになる。

 現在、憲法改正に賛成する議員が過半数を得ている都道府県議会は40以上になるという。日本より高く設定されているはずの米国憲法の改正要件を日本に移し替えれば、改正は容易に成立する。こうしてみると、米国憲法改正への敷居が日本国憲法のそれよりも高いという説明は、全くの誤りであることが明白であろう。しかしながら、日本より厳しい改正要件として米国を引き合いに出しているマスコミがいかに多いことか。

 ちなみに、「ごろごろ」の例にもう一つだけ挙げられているスイスの全面改正の要件は、両院で過半数の同意があれば、国民投票に付されること、とされており、むしろわが国よりも広き門だ。


護憲論者には、憲法96条の緩和について、「革命」のほか「クーデター」「裏口入学」のレッテルを貼ったり「類例がない」と形容したりする向きもある。「革命」や「クーデター」とは、一般に非合法的手段による政治権力奪取をいう。改正手続きの緩和は、あくまで96条に定められる手続きに則(のっと)って行われるのであり、完全に合法だ。「裏口入学」もしかり。96条とそれに伴う法律に基づき「正門」から手続きを踏むわけで、成就すれば「正規入学」である。


 ≪作法に従って持論の展開を≫

 「類例がない」に至っては、勉強不足も甚だしいといわざるを得ない。私の調査によれば、憲法改正手続き条項に従ってその手続きを改正した事例はインドネシア、オーストラリア、コスタリカ、デンマーク、ラトビア、リヒテンシュタイン、スイス、台湾など、まさに「ごろごろ」ある。

 インドネシアでは2002年、憲法改正に必要とされていた国民協議会の「出席議員の3分の2以上」の承認を「総議員の過半数」の承認に改めた。台湾では、立法院(一院制)での議決を出席議員の4分の3以上へ、住民投票での賛成を有権者総数の過半数へと、逆に条件を厳しくしている。


 以上、護憲論者の言説には、全くの事実誤認や意図的な誤誘導、検証に堪えない認識不足、あるいは恣意(しい)的なレッテル貼りも散見されるから、要注意である。

 改正手続きに関して国民投票法が求める「3つの宿題」が処理されれば、憲法改正論議が再燃するものと予想される。護憲、改憲いずれの立場を取るにせよ、虚言を排し、筋を通してそれぞれの持論を説得力をもって展開していく-このような作法に従うことが求められるのではないだろうか。(にし おさむ)