WEST SIDE系のD.Jとして、M.Cとして、
今や人気No.1のD.J☆GOから、
「涙が出そうなくらい嬉しい出演依頼」が有った
D.J☆GO オフィシャルブログ
イベントの内容はこちら
2009.12.05(sat)
Hood Rich present
「K.K.C」
@Serbian night (川崎)
ENTRANCE. 2500yen.1d WITHFLYER. 2000yen.1d
(23:00~25:00 LADIES FREE)
【SPECIAL GUESTS】
宇治田みのる
DJ☆GO
【GUESTS】
DJ ZIKO
【DJ】
SAMMY
DEEQUITE
SPACE KID
TORU
KAKU
R.C.S
YAMA
輪
【PICK UP live】
J.K.L(from埼玉)
【LIVE】
ENMAKU
JOKER(from 81tc)
C-RIDE
MINIMUM
DOGGZ(BSC)
DOBLE SIXXX(from横浜)
愛國双
HEADLINER(from横浜)
YOUNG PREMIUM(from横浜)
STREETSMART
【MC】
PSYCHO-LOW (from埼玉)
Mr GAYA-K & T.R.L FAMILY (from埼玉)
JO-G & TEE TEE (from埼玉)
MIC PRESIDENT
K-YO
で、何で、
『涙が出そうなくらい嬉しい出演依頼』かと言うと、
D.J☆GOとは、
六本木のR-HALL(スーパーフライデー)時代に、
一緒にD.Jをしていたんだけど、
最初に彼が現れた時、
直ぐにはD.Jをやらせてあげなかった。。。
決して意地悪で、
D.Jをやらせなかった訳じゃ無い。。。
その当時(1993年くらい)は、
空前のD.Jブームで、
男の子は皆、D.Jに憧れていた。
真剣にD.Jを、
『職業としてとやりたい』と、
思っている人がいる反面、
中には、『女にモテたい』とか、
『カッコいいから』とか、
軽い気持ちで、
D.Jを始める輩も多かった時代。
そんな時代にD.J☆GOは、
俺の所にやって来たので、
『どのくらい真剣にD.Jをやろうと思っているんだろう』と、
俺は疑心暗鬼になっていた。。
だから直ぐには、
D.J PLAYはやらせてあげなかったと言う訳。。。
で、まず俺がD.J☆GOに与えた仕事は、
1、フライヤー(チラシ)を街でしっかり撒く。
2、イベント当日(毎週金曜日)は誰よりも早く来て、セッティングをする。
3、いつでもD.Jが出来る様にスタンバイしておく。
この3つをしっかりやる様に指示をした。
『どーせ、2~3週間もしたら、いきなりバックレルんだろうなぁ~』、、、
くらいに思っていたんだけど、
1ヶ月が過ぎても、
2ヶ月が過ぎても、
誰よりも早くイベント会場のR-HALLに来て、
フライヤーを撒きに街に出て、
サウンドチェックから、バナーやポスターの設置までも、
確実にしっかりやっていた
3つ目に指示した、
『いつでもD.Jが出来る様にスタンバイしておく』も、
しっかり守っていて、
毎週毎週、重いレコードを持って、
現場に来ていた。。。
けど、最初の2~3ヶ月は、
D.Jをするタイミングも与えず
レコードは持ってくるものの、
PLAYはしないで帰ると言う日々が続いていた
けどGOは、文句の1つも言わず、
腐らず、バッくれる事も無く、
毎週必ず1番に会場に来てセッティングをしていた。
で、俺は、
『GOは本気でD.Jになりたいんだなぁ~』と、
確信した、とある金曜日、
D.J☆GOに1番盛り上がっている時間帯に、
耳打ちしてこう言った。。。
『GO、準備は出来ているか今夜のメインタイムはお前が回せ』と
D.J☆GOは目をまん丸くして、
『頑張ります』と言って、
本当に嬉しそうにD.Jを始めた
俺の見間違いかも知れないけど、
泣いている様にも見えた
D.J PLAYは圧巻だった
WEST SIDE系の音が大好きなD.J☆GOだけど、
選曲も偏らずR-HALLの客層に合わせて、
しっかり盛り上げ、
素晴らしいD.Jをした
そしてその日から、D.J☆GOはR-HALLの金曜日、
『スーパーフライデー』のメインD.Jとして、
本当の意味で仲間入りした
彼は数年間、俺の所に居た。
けど、本気でWEST SIDE系の音で勝負する為、
その後は俺の元は離れた。
勿論、俺は陰ながら応援した
そして今や雑誌のカバーを飾るくらいの成功を収めて、
日本全国に沢山のファンを持つまでになった
で、ある日、
LOWRIDER系の雑誌を見ていると、
D.J☆GOのインタビュー記事が有った
そこには、
『俺の師匠は宇治田みのるさんだ』と、
書いて有った。
他にも彼がインタビューされている記事には、
それがどんなにコアな雑誌であったとしても、
必ず、『師匠は宇治田みのる』と、
書かれていた。。。
俺は嬉しい反面、
D.J☆GOにとっては、
マイナスになるんじゃないかと思った。
何故なら、その当時の俺は、
おもいっきりメジャー指向で、
ともすればアンダーグラウンドな人達から見れば、
『宇治田みのるとD.J☆GO』が結びつくのは不自然で、
D.J☆GOが回りから変な見方をされるんじゃないかと。。。
俺は構わないけど、WEST SIDE好きの人達に、
わざわざ『俺の弟子だった』と言うのは、
GOにとっては、
決して良い事ではないんじゃないかと思って。。。
で、ある日、俺は彼に電話を入れてこう言った。
『GO、、、雑誌見たぞ俺の名前を出してくれてありがとうなけど、WEST SIDE系のD.Jとしてカリスマになりつつ有るお前が、わざわざ俺の名前を出すと言うのは、逆にマイナスイメージにならないかそのお前のスタイルと共に、ツッパったイメージのままで打ち出して行った方が良いと思うから、俺の名前は出さない方が良いと思うんだけど。。。』と。。。
するとD.J☆GOは、、、
『何言ってるんですかそんな事無いですよみのるさんが師匠だと俺が思っているんですから良いじゃないですかそんな気を使わないで下さいよ俺にとってはどんな時でもみのるさんが師匠なんですから』と。。。
GOの言葉に涙が出そうになった
そんなD.J☆GOから、
上記のイベントの、
D.Jの出演依頼が有った。。。
今一度、
そのフライヤーをよく見てもらいたい
フライヤーには、、、
SPECIAL GUEST
『D.J☆GOの師匠』
宇治田みのる
と、記されてあった
この日は多分、D.J☆GOのファンが沢山来るだろう。
若いお客さんも多くいるだろう。。。
俺の事を知らない人達も沢山来ると思う。。。
けど、『俺の師匠は宇治田みのる』と、
言ってくれるD.J☆GOの顔に泥を塗らない様に、
俺は気合いを入れてD.Jをしようと思っている
俺はD.J☆GOから、
改めて、『RESPECT』と言う言葉の意味を、
教わった様な気がする。。。。
『涙が出そうなくらい、嬉しい出演依頼』だった。。。
今や人気No.1のD.J☆GOから、
「涙が出そうなくらい嬉しい出演依頼」が有った
D.J☆GO オフィシャルブログ
イベントの内容はこちら
2009.12.05(sat)
Hood Rich present
「K.K.C」
@Serbian night (川崎)
ENTRANCE. 2500yen.1d WITHFLYER. 2000yen.1d
(23:00~25:00 LADIES FREE)
【SPECIAL GUESTS】
宇治田みのる
DJ☆GO
【GUESTS】
DJ ZIKO
【DJ】
SAMMY
DEEQUITE
SPACE KID
TORU
KAKU
R.C.S
YAMA
輪
【PICK UP live】
J.K.L(from埼玉)
【LIVE】
ENMAKU
JOKER(from 81tc)
C-RIDE
MINIMUM
DOGGZ(BSC)
DOBLE SIXXX(from横浜)
愛國双
HEADLINER(from横浜)
YOUNG PREMIUM(from横浜)
STREETSMART
【MC】
PSYCHO-LOW (from埼玉)
Mr GAYA-K & T.R.L FAMILY (from埼玉)
JO-G & TEE TEE (from埼玉)
MIC PRESIDENT
K-YO
で、何で、
『涙が出そうなくらい嬉しい出演依頼』かと言うと、
D.J☆GOとは、
六本木のR-HALL(スーパーフライデー)時代に、
一緒にD.Jをしていたんだけど、
最初に彼が現れた時、
直ぐにはD.Jをやらせてあげなかった。。。
決して意地悪で、
D.Jをやらせなかった訳じゃ無い。。。
その当時(1993年くらい)は、
空前のD.Jブームで、
男の子は皆、D.Jに憧れていた。
真剣にD.Jを、
『職業としてとやりたい』と、
思っている人がいる反面、
中には、『女にモテたい』とか、
『カッコいいから』とか、
軽い気持ちで、
D.Jを始める輩も多かった時代。
そんな時代にD.J☆GOは、
俺の所にやって来たので、
『どのくらい真剣にD.Jをやろうと思っているんだろう』と、
俺は疑心暗鬼になっていた。。
だから直ぐには、
D.J PLAYはやらせてあげなかったと言う訳。。。
で、まず俺がD.J☆GOに与えた仕事は、
1、フライヤー(チラシ)を街でしっかり撒く。
2、イベント当日(毎週金曜日)は誰よりも早く来て、セッティングをする。
3、いつでもD.Jが出来る様にスタンバイしておく。
この3つをしっかりやる様に指示をした。
『どーせ、2~3週間もしたら、いきなりバックレルんだろうなぁ~』、、、
くらいに思っていたんだけど、
1ヶ月が過ぎても、
2ヶ月が過ぎても、
誰よりも早くイベント会場のR-HALLに来て、
フライヤーを撒きに街に出て、
サウンドチェックから、バナーやポスターの設置までも、
確実にしっかりやっていた
3つ目に指示した、
『いつでもD.Jが出来る様にスタンバイしておく』も、
しっかり守っていて、
毎週毎週、重いレコードを持って、
現場に来ていた。。。
けど、最初の2~3ヶ月は、
D.Jをするタイミングも与えず
レコードは持ってくるものの、
PLAYはしないで帰ると言う日々が続いていた
けどGOは、文句の1つも言わず、
腐らず、バッくれる事も無く、
毎週必ず1番に会場に来てセッティングをしていた。
で、俺は、
『GOは本気でD.Jになりたいんだなぁ~』と、
確信した、とある金曜日、
D.J☆GOに1番盛り上がっている時間帯に、
耳打ちしてこう言った。。。
『GO、準備は出来ているか今夜のメインタイムはお前が回せ』と
D.J☆GOは目をまん丸くして、
『頑張ります』と言って、
本当に嬉しそうにD.Jを始めた
俺の見間違いかも知れないけど、
泣いている様にも見えた
D.J PLAYは圧巻だった
WEST SIDE系の音が大好きなD.J☆GOだけど、
選曲も偏らずR-HALLの客層に合わせて、
しっかり盛り上げ、
素晴らしいD.Jをした
そしてその日から、D.J☆GOはR-HALLの金曜日、
『スーパーフライデー』のメインD.Jとして、
本当の意味で仲間入りした
彼は数年間、俺の所に居た。
けど、本気でWEST SIDE系の音で勝負する為、
その後は俺の元は離れた。
勿論、俺は陰ながら応援した
そして今や雑誌のカバーを飾るくらいの成功を収めて、
日本全国に沢山のファンを持つまでになった
で、ある日、
LOWRIDER系の雑誌を見ていると、
D.J☆GOのインタビュー記事が有った
そこには、
『俺の師匠は宇治田みのるさんだ』と、
書いて有った。
他にも彼がインタビューされている記事には、
それがどんなにコアな雑誌であったとしても、
必ず、『師匠は宇治田みのる』と、
書かれていた。。。
俺は嬉しい反面、
D.J☆GOにとっては、
マイナスになるんじゃないかと思った。
何故なら、その当時の俺は、
おもいっきりメジャー指向で、
ともすればアンダーグラウンドな人達から見れば、
『宇治田みのるとD.J☆GO』が結びつくのは不自然で、
D.J☆GOが回りから変な見方をされるんじゃないかと。。。
俺は構わないけど、WEST SIDE好きの人達に、
わざわざ『俺の弟子だった』と言うのは、
GOにとっては、
決して良い事ではないんじゃないかと思って。。。
で、ある日、俺は彼に電話を入れてこう言った。
『GO、、、雑誌見たぞ俺の名前を出してくれてありがとうなけど、WEST SIDE系のD.Jとしてカリスマになりつつ有るお前が、わざわざ俺の名前を出すと言うのは、逆にマイナスイメージにならないかそのお前のスタイルと共に、ツッパったイメージのままで打ち出して行った方が良いと思うから、俺の名前は出さない方が良いと思うんだけど。。。』と。。。
するとD.J☆GOは、、、
『何言ってるんですかそんな事無いですよみのるさんが師匠だと俺が思っているんですから良いじゃないですかそんな気を使わないで下さいよ俺にとってはどんな時でもみのるさんが師匠なんですから』と。。。
GOの言葉に涙が出そうになった
そんなD.J☆GOから、
上記のイベントの、
D.Jの出演依頼が有った。。。
今一度、
そのフライヤーをよく見てもらいたい
フライヤーには、、、
SPECIAL GUEST
『D.J☆GOの師匠』
宇治田みのる
と、記されてあった
この日は多分、D.J☆GOのファンが沢山来るだろう。
若いお客さんも多くいるだろう。。。
俺の事を知らない人達も沢山来ると思う。。。
けど、『俺の師匠は宇治田みのる』と、
言ってくれるD.J☆GOの顔に泥を塗らない様に、
俺は気合いを入れてD.Jをしようと思っている
俺はD.J☆GOから、
改めて、『RESPECT』と言う言葉の意味を、
教わった様な気がする。。。。
『涙が出そうなくらい、嬉しい出演依頼』だった。。。