■#043 豊臣秀吉 養子は何人?■ | みの吉の学校で教わらない戦国時代

みの吉の学校で教わらない戦国時代

群雄割拠の戦国時代。
戦国武将たちは自らの信念を持って必死に生きています。
そんな戦国武将から学ぶことはたくさんあるのではないでしょうか。

日本の戦国時代を中心に学校の授業では教わらない、
エピソードや戦国武将の名言・家訓などのご紹介をしていきます。

天下統一をなし得た豊臣秀吉
豊臣秀吉






















秀吉は天下人になり、

思うがままにことをなし得るまでになったわけですが、

秀吉が唯一なかなか叶わなかったこと、

それは子宝に恵まれ無かったことです。



現在放送中の大河ドラマ”軍師官兵衛”で、

今やっと最初の子鶴松が生まれたわけですが、

それまでまったく子宝に恵まれなかった秀吉は、

ほぼ子供を諦めていました。



したがって豊臣家の将来を考えるうえでも、

養子を迎え入れていたわけですが、

秀吉の養子とは何人いたのでしょうか?



確実なものとして、男子7人、女子5人とされています。
(これには諸説あります)



男子7人のうち、3人は身内からの養子です。

秀吉の姉ともの子、

秀次秀勝

秀吉の妻おねの甥、

秀秋

3人とも身内であるわけですし、

秀次は秀吉から関白職を譲られているところをみると、

この3人は後継候補としての養子であったことでしょう。



男子の残り4人は、

織田信長の四男秀勝

宇喜多直家の嫡男秀家

徳川家康の次男秀康

誠仁親王第六皇子である智仁親王

上の3人に関しては言わば、人質であることは明白ですね。



女子5人は、

前田利家の娘豪姫

織田信雄の娘小姫

浅井長政と市の三女

近衛前久の娘近衛前子

詳細は不明ですが、後に毛利秀元の妻となった女性。

(大河ドラマでは黒田長政の妻も養女になってましたね)

女子の場合は人質もあれば、

縁戚関係のためといろいろな思惑があったことでしょう。



戦国時代はいろいろな思惑があって養子を迎えます。

人質や縁戚関係のための養子は別として、

後継候補として迎えられれば、

当の本人もそれ相応に期待したことでしょう。



しかし、鶴松が生まれてからは、

病死してしまった秀勝はともかく、

秀次は秀吉から邪魔だと思われ切腹。

秀秋も小早川家へ養子へ出される有様。

扱いがコロッと変わってしまったことに少なからず、

何かを感じずにはいられなかったことでしょう。



こうやって見ると、

そんな対応を受けた秀秋が関ヶ原の合戦で、

裏切り行為に出たのは、致し方ない気もしてきます。









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