大宇陀、その2 | にっくんのブログ

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大宇陀、その二


森野旧薬園


森野旧薬園


 菟田野(うだの)の地は古くから薬草が採れる土地で、推古天皇19年(611年)に薬草狩りが行われたと日本書紀に記録されています。
 森野旧薬園は享保14年(1729年)に森野家11代当主、森野通貞(通称藤助、号賽郭)によって開かれた、江戸の小石川薬草園とともに日本最古の薬草園として知られています。
 森野家は戦国時代、初代当主森野為定が吉野郡下市で農業の傍ら葛粉を製造していましたが、元和2年(1616年)に葛晒しに必要な、良質な水と寒冷な気候を求めて大宇陀の土地に移住してきました。
 11代の通貞が屋敷内で薬草木を栽培し研究しておりました。これが江戸幕府にも聞こえ、幕府の採薬使である植村左平次とともに近畿一円、美濃、北陸の山野から薬草を採取、幕府に献上しました。その功績が認められ、幕府から貴重な中国産の薬草が下付され、それを元に森野薬園を開設しまし、8代将軍徳川吉宗の国内産で漢方薬の普及させる政策に貢献しました。
 明治以降、国内に西洋医療の新薬が入るなどして、国内の薬草の官園、薬園が次々に廃園となっていきました。その中で江戸時代の面影を残している薬園と言うことで、大正15年(1926年)国の史跡に指定されました。そして昭和26年(1951年)に昭和天皇が薬園を視察されています。


森野旧薬園2


 薬園は裏山の上にあり、つづら折りの坂道を登り切ったところにあり、大宇陀松山の街並みを見下ろす事が出来ます。敷地内には桃岳庵という長屋門とつづきの茅葺き屋根の農家風の茶室や、この薬園を創設した森野通貞(賽郭)夫妻を祀る賽郭祠堂、宝物庫、知止荘があります。


桃岳庵

桃岳庵




宇陀市大宇陀歴史文化館 「薬の館」


薬の館1


 薬草の採れる大宇陀は古くから薬関係の商家が多く、江戸時代後期には五十軒もの薬問屋が軒を並べていました。津村順天堂、ロート製薬も大宇陀が発祥らしいです。
 この「薬の館」は元々は細川家という江戸時代後期から続く薬問屋でした。天保7年(1835年)から販売をした人参五臓圓、天寿丸という腹薬は大いに売れ、細川家は大いに栄え、「薬の館」正面の「銅板葺唐破風附看板」という寺社建築の雛形のような入母屋屋根に唐破風を設えた豪華な看板が往時を偲ばせることが出来ます。
 細川家二代目治助の二女満津の長男友吉は明治15年(1882年)に名張の藤沢家に養子に入り、藤沢薬品工業、現在のアステラス製薬株式会社を創設しました。
 建物は江戸時代末期の建物で、旧大宇陀町指定文化財に指定されました。


薬の館2


 座敷を開放した館内には、大宇陀や細川家に関する薬関係の資料、古い看板などが展示されています。
 奥には庭を挟んで蔵が何棟も建ち、分厚い扉の奥に細川家や藤沢薬品に関する資料が展示されています。



 織田信雄 永禄元年(1558年)~寛永7年(1630年)


 薬の館には大宇陀松山の繁栄を築いた人物として織田信雄に関する展示もしてありました。
 織田信雄に関してはあまり芳しい評判は聞くことが出来ません。織田信長の次男で、伊勢の名族、北畠氏に養子に入るものの、北畠氏からは歓迎されず、伊賀では信長の命で大殺戮を行いました。信長が本能寺で倒れると、兄、信忠の尾張領も加増され、南伊勢、伊賀、尾張の三カ国百万石の太守となりますが、日の出の勢いの羽柴秀吉への対抗心からか、徳川家康と同盟して尾張の小牧・長久手で戦をしました。しかし九鬼氏など重臣が秀吉方に付き戦が不利になるや、同盟している家康に無断で秀吉と和睦を結びます。そう言ったエピソードもあり、小心者の武将というイメージがありました。そのせいか、本能寺で父信長が明智光秀に討たれると、安土城を光秀に奪われるのを恐れ、天守閣を焼いてしまった張本人とされましたが、この話はどうやら事実ではないようです。
 関東の北条氏が滅びて、家康が関東に入国、空いた家康の領地への国替えを拒否したために改易、流刑という憂き目に遭いました。そして出家し名を常真と名乗りました。
 その後は秀吉の御伽衆に任じられ、大和に一万八千石の領地を与えられました。関ヶ原の戦いでは傍観的立場におり、大坂の陣では、秀頼の母、淀君のいとこという立場から大阪城に居ましたが、徳川方に内通し、冬の陣の直前に徳川方に付き大坂城をでています。
 元和元年(1615年)に大和の大宇陀三万千二百石と、上野(群馬県)小幡に二万石の合わせて五万千二百石の大名となります。その後は領地に養蚕を根付かせるなど、産業育成にも励みました。また小幡に楽山園という庭園を造りました。
 武将としては駄目でしたが、民政官としての能力はかなりのものだったのでしょう。
 戦国の英雄の息子として産まれたために、暗愚とか言われてしまいましたが、百年、二百年遅く産まれていたら、風流な名君と言われていたのでしょう。