二日前、出勤しようとして玄関に近づいたところで、ぐらりと視界が傾いた。
座らないと、と思いながら、フラフラ歩きで部屋に戻った。
気分は悪くないのだが、ふらついて自分でも危なっかしいと思う。
会社を休むかどうか、しばらく考えたが、落ち着いてきたので行くことにした。
私は、病気欠勤をしたことがない。・・・と言うと、まるで身体が丈夫なようであるが、そうでもない。
性格がズボラなマイペース型であることが幸いしていると思う。
めまい(?)のような症状をはじめて経験したが、あまり不安を感じなかったのは、こういうことがあると、あらかじめ警告されていたからである。
先日、急逝した父をみおくったところなのだが、姉と友人から「私は、もう大丈夫」と思い始めたころに、心身にガクッと不調が出るから気をつけるように、さんざん言われた。
だから、「これのことだったんだ!」と思いながら動きをとめて様子をみることができた。
森田療法を知って20年以上になる。
いつも意識しているわけでなく、今回のような苦しい局面や、はじめて経験することに踏み出していくときに心を支えてもらった。
心身をよい状態におきたい、というのは誰もが願っていることである。
とくに新しいことをはじめるときや、自分にとって大事な局面を迎えているときには心身の不調なんかに足をひっぱられたくないものである。
誰もが考える健康な生活への思い。
しかし森田理論が教えてくれたことは、心身の健康に完全を求めるときりがない、ということだった。
私たちは、自分の意志によって自分を動かせると考えてしまいがちである。
正しくは、自分の意志を反映させることができるのは一部分でしかない。
身体の中の器官は、意志に関係なく、命ある限り営みを続けている。
そして心も・・・。環境に応じて自在に変化していくものである。
その動きは、ときに「私の中にあるのに、私の自由ではない!」と感じられたりするのだけれども・・・。
自然の中で「生かされている」という側面がたしかにある以上、ただ事実をあるがままに受けとるという受け身の部分が存在する。
昨日、ある女性の方がかかれたブログに「病気はいろいろなことを教えてくれる」と書いてあった。
こういう受けとめ方は、とても大切だと思った。
心身の変化には、その不調にさえ目的がある。
理性によって「不調はあってはならないこと」と排斥するのでなく、身体からのメッセージを受けとっていく姿勢をもっていたい。
父を亡くしたことについて、「感情をおさえずに、悲しみは悲しみのままに」と言葉をかけてくれた人もいた。
私は、今、昼間は悲しくない。
日常のいろいろな場面で、あざやかに父の姿がよみがえる。
生きていてくれた間は反発ばかりしていたくせに、こんなにも父が大切だったのか、と自分でも驚くほどリアルに父の姿をイメージできる。このことによって一緒にいてくれるんだなあと感じる。
そして夜になって一変する。
生きていたときの姿ではもう二度と会えない。死は、やはり絶対的な別れなのか、と考えて暗い穴におちていきそうな気持ちになる。
それでも眠ることができて、また朝になっている。
悲しみは悲しみのままに、少しずつ立ち直っていけると思う。