世界もパリもTokyoも miophotos -16ページ目
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豆乳おからドーナツ

 病気になってから食べ物にものに気をつけるようになった。

玄米菜食を徹底的にやっていた時期もあったくらい。

今は・・・けっこう怠けていますがガーン

だって、やっぱり療養生活を抜け出し仕事をしたり人と会うことが増えると難しい。

なんて、自分に言い訳して自分を甘やかしても、結局は体に返ってくるんだよね。。

もう少し気をつけないと、と最近焦ってたりする。


 それでも、病気になる前よりは遥かに気にしている。

肉類を避けたり、卵や乳製品は断っているし、アルコールも前ほど飲んでいない。

甘い物だって、減らしているつもり。


 だから、自然とかオーガニックとかマクロビオティックとかそんな言葉にとっても弱い恋の矢

探すと意外にあるんです、こういう体にやさしめのお菓子や食べ物、もちろんカフェやレストランも。

まあ、流行っているというのもあるだけど、体のことを考えれば多少はお金をかけてもいいという人が増えているってことなのかもしれない。

このドーナツも豆乳おからドーナツとかで、さすがに卵や小麦粉は使っているけどバターは不使用だとか。

そこらへんの○○ドーナツとかで買うよりはぜんぜんヘルシー。

かな・・・なんて自分をなだめながら、食べてしまいましたナイフとフォーク  


 豆乳ドーナツ


 玄米菜食をしてみて、和食党の私もけっこう洋食メニューが好きだったりすることに気づく。

でもね、栄養過多の現代。

ストレス・運動不足・食べ物がガンの三大原因だって言うから、私は人一倍気をつけないといけない。

また、気合パンチ!入れ直さないと。。。ね。

心もバテ気味

 先日、新聞を読んでいた父が「ああ、○○さんガンだって」と言った。

私の後ろから響いてきたその声は私の心を刺した。


 私は全然大丈夫なつもりだし、これからも生きていけること、完治することを信じている。

前のように絶望的になることも減ったし、笑っていられることも増えた。

それでも、突然引き戻される。


 そんな時、泣けたら楽なんだろうな。

その場でワーって泣けたら、鼻が出ようと、周りが困ろうと泣きじゃくれたら、スッキリするんだろうって思う。

でも、だいたいにおいてそんな瞬間は1人でいるときにはやってこない。

職場だったり、飲み会だったり、電車の中だったり。

だから、我慢する、飲み込む。

その表現のしがたい、心をきゅーっとする感情を飲み込む。


 実は早くも夏バテしてしまってカゼ

先日職場の寒さにダウンし、体調を崩した。 

このだるさ、体が思いどおりにならない感じ、ちょうど1年前を思い出す。

駅まで出るだけで、こんな倦怠感に襲われてクラクラとしていた。


 そんなわけで、昨年は精神的に見れなかったドラマを家でボーっと見ていた。

そう、それは人が亡くなってしまうお話。だから、けっこう好きな堂本剛が出てるドラマでなかったら見てなかったと思う。

凹むだろうなと分かっていたのに、何をしたかったのか自分でもよく分からない。

そしたら・・・見事に凹んだ。

涙で画面が見えなくなると同時に、あの頃の自分と重なる。痛いほどリアルに死を実感することができる。

苦しかった。そして私にはああやって抱きしめてくれる人がいなかったことを知った。

自分よりも守りたいと思った人は、私をそんなふうには思ってくれなかった、残酷だな。

でも、次の瞬間あんな苦しみを、愛する人にまで感じさせてしまうよりはよかったのかもしれないとも思った。


私はいろんなことを感じた。

ところで、あのドラマは何を伝えたいのだろうか。


 最近思う、すべては私の受け取り方次第。音楽だって、本だって、写真だって何だって、いいって言う人がいればよくないって言う人もいる。すべての人に受け入れられるってことは不可能なこと。

だから、私が何を受け取るかは私次第、私がコントロールできること。

ショックを受けて凹むことも、何かを感じて前へ進むことも、私にはできる。どっちを選んだほうが、自分にいいか、そんなこと一目瞭然だ。


 人を好きになるっていいことだなって思った。頭で考えることではない。

私がずっと避けてきていることだから、ここのところは頭で考えすぎてしまって、規制している。

人を愛するって苦しいことだけじゃない、美しいことなのに。

そんなことも思った。

病気のこととか、好きで苦しかったこととか、そんなこと気にせずに純粋になりたいなって。


 でも、でもやっぱり人の死を描いて何かを伝えるってせつなすぎる。ノンフィクションならまだしも、作ってまでというのは、なんだか悲しすぎる。他に伝え方はないのだろうかって思う。

この4年間

 私よりも年上のある女性が言った、4年前に。

「私はね、この5年を振り返って本当にいろんなことがあった、だから次の5年を考えるとワクワクする。これ以上に何が起こるんだろうって楽しくなる。」

私よりも5つ年上の彼女が言ったその言葉はとても印象的だった。

年を重ねることは素敵なことだなって。

私は来年、彼女があのセリフを言った歳になる。あれからもうすぐ5年になるんだ。



 ドイツでのワールドカップが終わり、4年前のワールドカップを思い出した。

私は日本で必死にトルシエジャパンを応援していた。

そして、私はW杯が閉幕とともにフランスへ発った。

あの地でたくさんのことを経験して、そして病気になって日本へ帰ってきた。


スタジアム


闘病を終え、今は社会復帰の真っ只中。

4年はあっという間だけれど、本当にいろんなことが詰まっている。

限りある人生の時間は、それぞれの生き方でその詰まり具合は違うけれど、それでもたくさんのことを詰めることができる。それぞれの、心地よい具合に。

たしかに、5年はワクワクするほどの時間かもしれない。


この5年以上に濃い5年を私はあと何回こなせるのだろう。

私が未来の時間を信じられる限りは、ワクワクとしていたい。


 でも、4年前に日本のピッチ上のトルシエジャパンを応援していた私の気持ちと、今年ドイツのピッチ上のジーコジャパンを応援していた私の気持ちには何ら違いはない。

そういう、変わらない想いや気持ちもある。

時間では変わらないものもある。

家族や国への愛。

そういう大切なものを、心の中にあるものを侮辱されたら、私もジダンのように頭突きくらいしてしまうのかもしれない。

なんて、ちょっと思った。

パリへ戻ろう!

 ついに現実的になってきた。

荷物整理に行かなくてはいけないことは、もちろんだけど。

やっぱり、どうしても帰りたい。

あの日、突然日本に帰らなくていけなくなった感覚はまだ私の心に残り続けている。

あんな無念さは忘れられない。


 だから、やっと帰れるんだって思うと幸せになるクローバー

パリに短期間しかいられないことも、その間の宿のことも、病気になった季節と同じ時期にひとりで戻ることへの恐怖も、PTSDを誘発するのではないかという心配も、何もかもが一瞬はふっとんでしまうほどうれしい。


 辛い闘病中に何度も夢見た日だから。

この日を目標にがんばっていたから。

たとえ、ほんの少し戻るだけでも、それでもうれしい。


 パリの空に笑顔でお礼を言いに行きたいんだ。

どうしても言いたい。

「ほら、私はこんなに元気になったよ、私はこんなに素敵に笑えるんだよ」って。


 とは言っても、来月S本先生の最終OKが出ないとNGになってしまう。

しかも・・・チケットがまだ確保できてないし。

ほんとに行けるのかなあ、会社での私の2ヶ月間の扱いも決まってないみたいだし。


 でも、いっか。

パリに行けるんだもんね、きっと辛いことたくさん思い出すけど。

それでもカメラを持って、歩き回りたいんだ、あの街を。


 パリから日本に一時帰国している私が「パリに戻ったら」と言うと、母が寂しがっていた。

「ミミはパリに行くのではなくて、戻るところなんだね」って。

うん、日本も帰るところだけど、パリも戻るところ。 それは今も変わらない。

たとえ、もう二度と住めない場所であっても、私にとっては“行く”という感覚ではない。

“戻る”場所なんだ。

無限ではない時間

 私の休みの日は好きなことになかなか時間を割けない。

週4日元気いっぱいに働くと、やっぱり体が悲鳴をあげる。 

だから1日はゆっくりと家にいる。あとの2日は鍼に行ったり、マッサージに行ったり、大学病院に行ったり。


 気がつくと、あっという間に1週間が経って1ヶ月が過ぎ、働き出してもう半年が経とうとしている。

闘病中の時間はあんなにも1秒が長かったのに、苦しく辛いほど1秒が長かった。

ということは、充実しているということ。

またわがままになってるな、私。そんなことをいろいろ考えるうちに、ふと思い出した。


 昔こんな内容のチェーンメールをもらった。


あなたの口座に毎日86400ドル振り込んでくれる銀行があります。

振り込まれるお金はすべて使っても、少し使っても、全く使わなくても、あなたの自由です。

残ったお金は次の日には繰り越されません。

でも、もちろん翌日にはしっかり86400ドル振り込まれます。

こんな銀行があったら夢のようではありませんか?


 と。

ほんとに夢のような銀行だなあと思った。

ところがこのあと、こう続く。


でも、あなたも実はこんな夢のような銀行口座を持っているのです。

それは、時間です。

私たちは皆平等に毎日86400秒を与えられているのです。


 と。

深い。

私はしっかりと時間を使えているのか。

お金だと思うと全部きっかり使ってしまいたいと思うのに、私は時間を無駄にしているかもしれない。いや、お金も時間のように毎日毎日これだけ手に入ったら、無駄に使うようになって有難みを忘れてしまう?

限りがあるからこそ、人は大切に感じられるのかもしれない。


 今の私がこのチェーンメールを受け取ったらどう思う?

あの頃のように、時間の無限さを感じることはできない。あの頃のように、永遠に続くとは思っていないから。

でもそんな私ですら、なかなか時間を大切にできなかったりする。時間の限りが明日であるかもしれないことを知っている私ですら、時間は無限にあるように錯覚する。


もっと大切にしたい、生きる時間、いや生きていられる時間を、

大切な人たちといられる時間を、

自分の好きなことをする時間を、

自分の体を労わる時間を、

何よりも笑顔でいられる時間を。


今のこの時間をしっかりとかみしめたい。

私の好きな空たち

 私を励ましてくれたパリの空たち。

私をいつもやさしく包んでくれたパリの空たち虹

そんな空たちの写真が、もしかしたら他の誰かの心を癒してくれるかもしれない。

そうだったら、どんなに素敵なことだろう。


 心が潰れそうになって、ギスギスしてしまって、日々の生活が困難になってしまった人が私の本を毎日毎日バッグの中に入れてくれている。毎日毎日眺めて元気になってくれるという。そうやってボロボロになっていく私の本は本当に幸せだろうな。


 小さな子供が私の本が大好きでいてくれる。絵本と一緒に並べていつも見てくれている。 

空を眺めながら「きれいだねー」と寝っころがりながらママに話しかけるそう。


 最近、日々の忙しさに追われて大好きな写真を撮る暇がなくなっている。

心に余裕がない証拠、いろんなことに過敏になりすぎて神経が磨り減っている。

また撮りたいなあ。

純粋に撮りたいなあって思う。

早く青い空と白い雲を体いっぱいで感じたい。

吸い込まれるようにシャッターを切りたい。

私が生きているということ

 例えば、職場で誰かが声をかけてくれる。

通りすがりに、背を向けて仕事をしている私にわざわざ声をかけてくれる。

ひとり、またひとりと声をかけてくれる。


 そんな瞬間に生きていることを感じたりする。

誰かに私が見えていること、存在していること、声をかけようと思ってもらえるということ。

ああ、私はちゃんとこの世界に生きている。


 些細なことで凹むことは、まだまだ多い。

先日、職場で今劇場公開中の映画の話をしている人がいた。

「最後は死んじゃうんだけどさー」

と、すごくふつうの言葉のように発せられたセリフだった。

体中がゾッとした、頭がグラグラとした。 あの絶望の頃の感覚だけが体を襲う。


 でもね、私はそんな世界で生きて行く。

みんなと同じ世界で生きて行くってそういうこと。

私がどう感じるかは私が決めることなんだから、すべては私の心次第なんだから。


 私が微笑む前に誰かが微笑んでくれること、

私が手を振る前に誰かが手を振ってくれること、

私が“おはよう”と言う前に“おはよう”と言ってくれること。


 私は生きている。

私たちは、生きているということを自分ひとりではなかなか気づけなかったりする。

フランスが

 勝った星

あのブラジルに勝った。

ドイツW杯準々決勝、フランスはどのくらい盛り上がっているだろうか。


 2004年夏、ジダンが1度目のナショナルチーム引退を表明した頃、私はまだパリにいた。

友人から譲り受けた古いテレビから煙が出てしまって、テレビを持っていなかった私は、ラジオでそのニュースを知った。

ラジオからのニュースはジダンのことばかりだった。

私にとってはちょうど咳き込むことが増えた頃、

自分の体が自分のものではないように感じ出した頃、

やせにくい私の体重が突然落ち出した頃。


 2005年、ジダンの代表復帰とその後のフランスの予選での大どんでん返しは私が病気と闘ってきた時期と重なる。

だから、特別な思いがある。

こころを自由に

 今日は、私にとって大きな意味のある日。

闘病後、ずっとずっと過去の自分と向き合ってきた。とにかくすべてを忘れないように、自分の置かれた状況を受け入れる為に、苦しくても苦しくても現実を突きつけ続けてきた。あなたはガンなのよ、と。

毎日毎日、ブログを更新することで過去の自分から目をそらすことはできなかった、したくなかった。

正直、本当にしんどかった。何度も止めてしまおうかと思った。


 本当の意味で解放された気がする。

もちろん、完治まではまだ4年あるし、体調もかなり波があって、再発の恐怖が拭えない。

でも私にとって今日という日は、今を生きている自分、未来があると信じて先を見ている自分を見つめることが素直にできるようになった日。過去の自分を乗り越えて、しっかりと前だけを向いて歩き出すことのできた日。


 通勤途中の電車から見えた空。黒い雨雲と白い雲が二層になっていて、その隙間をうっすらと太陽の光が副都心のビル郡の上に降り注いでいた。こんな景色に気がつけた人はあの電車に何人いたのだろう。そしてこの景色に心を動かされた人は何人いたのだろう。

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