洋子ちゃんが転校してきたのは、小学校五年生の時でした。
ハーフのような茶色い大きな瞳に、マッシュルームカットがとても印象的な子。
帰り道が同じだからと一緒に帰ってみると、我が家から5分くらいの所でした。
朝は近所のみんなで迎えに行き、たくさん話をしながら学校へ行きました。
洋子ちゃんとの距離はどんどん近くなり、いつしか私達は「親友」になったのです。
数週間が過ぎた時、洋子ちゃんが家へ招待してくれました。
比較的大きな家でした。
ところが、お姉さんと洋子ちゃんの部屋へ案内された時、何かおかしいなと感じました。
そしてすぐに「学習机が無いからだ」と気付いたのです。
当時スチール製の学習机が流行っており、たいていどの子供部屋にもキャラクターのイラストが付いた机が置いてありました。
狭い子供部屋の中に、学習机がでんと場所を取っていたものです。
しかし、洋子ちゃんの部屋には机どころか、クローゼットも二段ベッドもタンスも何もありません。
お母さんが飲み物を出してくれましたが、それさえ小さな箱の上なのでした。
子供心に「これは聞いてはいけない事じゃないか」と感じ、そのことには触れませんでした。
それからさらに数週間が過ぎた時、洋子ちゃんは私に言いました。
「私、また引っ越すんだ。けど、誰にも言わないって約束してくれる?」
突然の出来事に、私はびっくりしました。
まだ引っ越してきて数ヶ月。やっと親友が出来たと思ったのに…。
「お父さんがいっぱい借金をして、返せなくなったんだ。
だから見つからないように、しょっちゅう引越ししなくちゃいけないんだ。」
洋子ちゃんはとても明るい子でした。
彼女の身に、そんな事が起きていたなんて…。
どこかで聞いたことがあった「夜逃げ」という言葉が頭に浮かびました。
彼女の部屋に学習机があるはずはありません。
あんな大きなもの、引越しの邪魔になるに決まっています。
私は洋子ちゃんに誓いました。
「絶対誰にも言わないよ。」
それから数日後の朝、いつものようにみんなで家に迎えに行きました。
「よ・う・こ・ちゃ~ん」
しかし、返事がありません。
いつもなら洋子ちゃんが寝坊して出てこなくても、お母さんが「ちょっと待っててね」と出てきたのに。
何度呼んでも誰も出てこないのです。
部屋の電気も消えているようでした。
私は「ついにこの日が来たんだ」と知りました。
数回呼んでも出てこないので、みんなあきらめたようでした。
しかし、次の日もその次の日も、洋子ちゃんは出てきません。
ポストからあふれた新聞が、玄関に散らばっています。
中には親に聞いたのか、「一家心中じゃないか」とか「夜逃げじゃないか」と言っている子もいました。
私は胸が押しつぶされそうでした。
でも、「誰にも言わないって約束したんだ」と歯をくいしばっていました。
それからさらに数週間。
もう、洋子ちゃんの家に朝のお迎えに行かなくなりました。
クラスの空席にも、みんな何も言わなくなりました。
そんなある日、先生が言いました。
「洋子さんに関することで、何か知っている事があったら先生に教えてください」
私は悩みました。
誰にも言わないって約束したのに…。
でも、親にすら話していなかった私の心はもう限界でした。
職員室の先生を訪ね、洋子さんのことで…と言うと、空き教室に連れて行かれました。
洋子ちゃんはもうあの家にはいないこと。
お父さんが借金をたくさんして、夜逃げしなくてはいけないこと。
親友だからと私だけに教えてくれたこと。
今まで誰にも言わなかったこと。
先生は頷きながら話を聞いていましたが、最後に「話してくれてありがとう」と言いました。
そして話してくれました。
今から数ヶ月前、洋子ちゃんのお父さんが学校に来て言ったそうです。
借金があり、引越しを続けなくてはいけないこと
娘に教育を受けさせたいこと
また近いうちに引っ越さなくてはいけないこと
そこで先生たちの出した答えは、洋子ちゃんを内緒で小学校に通わせるという事でした。
「洋子さんは、この学校にはいないことになっていたのよ」
先生は悲しそうに言いました。
でもにっこり笑うと、
「でもあなたのような親友ができて、洋子さんも幸せだったんじゃないかしら」と言ったのです。
私は急に悲しくなりました。
涙がどんどん出て、止まりませんでした。
洋子ちゃんのがらんとした子供部屋。
いつも元気だった洋子ちゃんの笑顔。
せっかくできた親友との別れ。
いろいろな事が頭の中を駆け巡り、声をあげて泣いていました。
「落ち着くまでここにいていいわよ。この事は先生とあなただけの秘密ね」
先生はそう言うと、出て行きました。
日のあたる教室で、私は一人いつまでも泣いていました。
それからしばらくして、洋子ちゃんから一通のハガキが届きました。
「元気だよ!」と大きく書かれたハガキには、洋子ちゃんお得意の女の子の絵が描いてあります。
でも、子供だった私は毎日のことに夢中になり、いつしか洋子ちゃんとの連絡も途絶えてしまったのでした。
あれからずいぶん長い時間が流れました。
私は親と同居のする為に、実家に戻ってきました。
洋子ちゃんが住んでいたあたりを通る度、あの頃を思い出します。
元気に大人への扉を開いているでしょうか。
私の中の洋子ちゃんは、いつも大きな声で笑っています。
どうか元気で。
どうか今が誰よりも幸せでありますように。