私をヒトラー並の排他的民族主義者と考える人がいる。
まったくの誤解であり、書いたものをよく読むべきである。
私は繰り返して言ってきたが、新約時代は「超民族的時代」である。
ユダヤ人や日本人が選民であるとか、その他の人々が異邦人だとか、そういう区別はない。
ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
(ガラテヤ3・28)
そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(コロサイ3・11)
しかし、だからといって、民族はどうでもいいというわけではない。
神は、ひとりの人からすべての国の人々(παν εθνοs ανθρωπων)を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。(使徒の働き17・26)
新改訳で「すべての国の人々」と訳されている箇所は、原語ではπαν εθνοs ανθρωπων、つまり、「人のすべての民族」である。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、(マタイ28・19)
「あらゆる国の人々」と訳されている箇所の原語はπαντα τα εθνη、つまり、「すべての民族」である。
新改訳は、民族軽視のグローバリスト的な翻訳である。
聖書は、二つの極端を避けている。
I ヒトラー並の排他的民族優越思想
II グローバリスト並の民族軽視思想
私がこれらのいずれかに属すると考えるならば、一番大切な部分を読み飛ばしてきたということを意味する。
私が何度も指摘したのは、神において多様性は究極、そして、統一性も究極、ということである。
神がこのようなお方なので、被造物もこの原則に貫かれている。
神は多様な植物や動物を創造されたが、DNAという同一の原理で増殖する。
神の被造物において、どちらが優越しているか、という問題は存在しない。
旧約時代において、ユダヤ人を特別に選んだのは、全民族のプロトタイプ(原型)にするためである。
われわれは、ユダヤ人の歴史を通じて、神の経綸(人間の取り扱いの方法)を学ぶ。
しかし、ルシファー教に毒されたユダヤ人たちは「神はわれわれを選民として選び、異邦人をわれわれの奴隷として選ばれた」と解釈した。
このような偏狭な民族思想は、タルムードユダヤ教を貫いている。
再建主義がこのような思想だと誤解する人は、文章読解能力に難がある。