1853年6月3日アメリカ合衆国の使節団が浦和に現れ、日本とアメリカとの間で和親条約を結んだ。これは漂流民の救助、引渡しを求めたものであったので商売を日本ですることが出来るという勘違いをしたアメリカ人がいる。この時に条約を結んだペリーは艦隊という強力な軍事力を背景に持ちつつ表面は友好的な態度を示し条約を結んだ。アメリカのこの行動は諸外国にショックを受けさせた。ロシアが日本との関係を持つために長崎に来たが威圧的なアメリカと同様の態度を取らなかったために失敗に終わった。日本は鎖国を貫く事が重要視されていたために、アメリカのように強硬な態度を取らなかったために失敗に終わった。ロシアの艦隊ディアナ号が地震に巻き込まれ漂流してしまう駿河湾の村人達が救ったが、徳川斉昭は全員皆殺しにせよと通達したという。いかに非現実的かがわかる。
海外列強との修好条約を結ぶまでの間は海外との交易は長崎の出島でやられているような物しか思い浮かべなかった。金銀によって高価な薬種・香料などを得る輸入交易である。交易という意味が理解が出来ていなかった。外国並みの軍隊や兵器を持たなければならず海防に対する幕府の支出は財政を破綻しかけた。
1804年生まれの外交官ハリスは通商条約を結ぶために日本に向かった。このときに、大統領宛の手紙に「私は、日本にいる間に耐えねばならぬ社会的流譲や、私が生活せざるならない精神的孤独については十分に承知し、それに耐えうるための用意はある。私は独身者であるから、懐かしい家族を案じて、顧みるようになったり、新しい家の中で耐えられなくんなるような絆を何ら有していない」交渉の難しさと覚悟の程を有していた。1856年7月21日ハリスは下田に到着した。ハリスの来日は幕府にとって寝耳に水であった。日米和親条約では英文では「両国政府の一方」が認めたときとあるのに和文では「両国政府」が認めたときとあるので、幕府は自分から要求しない限りこないと思っていた。
江戸行きを激しく求めるハリスに対して幕府はアメリカ軍艦ポーツマスの入港にしてハリスは江戸行きを決めた。安政4年10月14日である。将軍家定への挨拶を済ませたハリスは数日後に老中を訪問し、通好条約を結ぶことをといた。蒸気船の発明、アヘン戦争でのイギリス等。幕臣の中で開国消極論グループも戦争への危惧から通商条約を認める方向へ態度を軟化していた。通商条約は日本にとって不利な条約であり、協定関税制、領事裁判権、最恵国待遇という不平等条約の三大特徴が吹かされる事となった。この不平等性が撤廃されるのは1911年のことである。
老中の堀田は一部の反対派大名を沈静させるために勅許をもとめて上洛することにした。1858年2月5日に入京した老中堀田は自分が解けばと楽観していた。必要があれば金に弱い貧乏公家に対して金を配ろうと多額の資金を用意していた。政治的無知から意見が定まらない公家に対して攘夷思想を盛んに吹き込んでいた。堀田らの懸命な努力に関わらず勅許はついに得られなかった。幕府はこれまで、大阪を中心とする畿内先進地を天領として掌握し、長崎における外国貿易を独占することによって、諸藩を経済面でも支配しようとしてきた。だが、その力は諸藩、とりわけ経済力増強によって相対的に弱めつつあり、さらに自由貿易の開始が諸大名と民衆への幕府の支配力を決定的に低下させることになるのである。井伊大老は、勅許をえられなかった事情を諸大名に説明し、あらためてそれぞれの意見を提出させるとともに、堀田に命じて条約の調印延期をハリスと交渉させた。ハリスは延期を非難したが、交渉を中止すると、オランダが手先を打つ手配を見せたため、7月27日までの延期をしぶしぶ認めた。ところが、6月13日、米艦隊ミシシッピ号、15日ポーハタン号が下田へ入港し、ハリスに英仏連合軍が天津まで新劇し、清国を屈服させたこと、近くその余勢をかって日本へ大艦隊をさしむけるかもしれないことをつたえた。19日江戸城中では緊迫した会議が開かれ、井伊大老は勅許を得てからの調印を主張したが、ほとんど支持者がなく、ポーハタン号がある小柴沖へむかう井上と岩瀬は、調印の延期交渉が実を結ばぬ際は調印やむなしとの言質を取り付けていた。そして、延期交渉抜きで直ちに日米修好通商条約に調印した。安政5年(1858)年6月19日午後3時のことである。このあと、一ヶ月のうちにオランダ、ロシアイギリスとの修好通商条約が次々と結ばれ、9月3日にはフランスとの条約も調印された。
9月5日には、京都で攘夷派の連絡担当の豪商が逮捕され、「安政の大獄」の幕が切っておとされた。条約調印の直後、井伊大老は堀田に責任を押し付けて老中を罷免し、みずからの大老就任の功労者松平忠固をも罷免して、実質的な井伊独裁政権を確立した。巨大な欧米列強の圧力で開国を余儀なくされた幕末日本が外圧に対抗すべく創り出した政治思想「急ごしらえの絶対主義政治思想」にほからなかった。
井伊大老の大量処罰は、直ちに激しい反発をうんだ。安政7年3月3日、水戸藩の関鉄之助を中心とする総勢18にんがが、登城する井伊大老一行を桜田門外で襲撃する手はずを整えた。道の左右から浪士らがいっせいに大老の駕籠へと襲いかかった。大老自身は短銃で腰を打ち抜かれ身動きも出来ないまま、薩摩脱藩士で示現の流の名手有村次左衛門に駕籠から引き出され、首を打たれた。老中脇坂安宅低に自首した浪士が差し出した斬感意見書には、条約調印と大弾圧をした大老を「天下之巨賊」とし、これに「天誅」を加えたのはけして幕府に敵対しての事ではない、としるされていた。逃れた浪士も各地で逮捕、処刑され、襲撃参加者で命をまっとうしたのは2名にすぎない。井伊大老の強権的な幕政は、二年足らずで終わりを告げた。
通商条約にもとずいて、安政6年(1859)年6月2日川崎・長崎・函館の三港が開かれた。三港のうち最大の貿易港となる神奈川では、長崎・函館とことなり、まったく新しく港をつくらなければならなかった。幕府は東海道の宿場である神奈川宿は交通頻繁で日本人と外国人の接触が多くなりすぎることを危険視し、港湾としてすぐれている近くの横浜港を開港場にしたいと考えた。公使となったハリスは、幕府は外国人を交通不便な所に閉じ込め管理していると反論したが、真意を見抜いたものであった。
安政6年、6月2日、開港した横浜港に入港した商船は、アメリカ船ワンダラー号を別とすれば、オランダ号シラーであった。11日までに4隻のオランダ船が入港した。17日にトップを切って開店したのもオランダ商人である。続いて、姿を現したのは、6月3日のイギリス船で、6月14日には、商品と洋銀4万ドルを積んだ帆船ノラ号に乗って入港した。開港当初の横浜へ乗り込んできたのは、中国や東南アジアにおける貿易で利益を蓄積し、長崎でも多かれ少なかれ取引経験を持った巨大商社が中心であった。オールコックが、横浜の居留地を「ヨーロッパの掃溜め」と酷評したような事態は、一面では巨大商社に変わる中小商社の進出を示すもの、と理解すべきであろう。本国社会では古い伝統や格式に縛られて実力を発揮できぬ若い人にとって、日本の各地の居留地はまさに“自由と平等”に満ちた解放空間であった。これに対して、外国商人と取引きするために横浜へ集まった日本人は、三井家は、貿易関係の公金取り扱いを独占できる条件がついたため、出店を引きうけた。三井の外国方御用金の業務は次第に拡大し、預かり金を横浜生糸商へ貸し出すなど、開港場横浜の重要な金融機関となっていく。
日米修好通商条約で幕府は、さきの日米条約と同様に内外貨幣の同種同量交換を認めただけではなく、日本金銀の自由輸出まで認めてハリスを驚かせた。これでは公然たる通貨投機が起こるに違いない。小判1枚を洋銀4ドルで売却でき、最初の洋銀を3倍にすることが出来る。
開港にともない、横浜から大量の生糸が輸出され始めたために大きな打撃をこうむったのは、織物物産地の京都西陣や上州桐生であった。西陣では、開港の安政6年の生糸入荷が例年の半分まで減少し、失業した織物職人の暴動が起こった。自由貿易は、幕藩支配の根幹を確実に掘り崩し始めた。開港による経済社会の変化が、桜田門外の変や全国各地での尊襄志士の活動をいっせいに爆発させた基礎になる。開港上へ乗り込む外国人の数は増えつづけた彼らの大部分は貿易関係者であったが、医師や宣教師も早くから来日した。日本人への伝道は禁止されていたから、当面は、居留地の外国人のための聖職者である。しかし、これらの人々の献身的活動も譲位ムードの拡大を防ぐことはできなかった。安政6年以降、それまで友好的だった日本人の態度が変わり始めた。尊王攘夷全盛期である19世紀中葉の幕末日本は、欧米列強の圧力に抗して独立を守りぬけるかどうかの瀬戸際においつめられていた。幕府が黒船の軍事的圧力に屈して結んだ通商条約は裁判権と関税自主権を否定される不平等性をふくみ、日本は対外従属を余儀なくされた。それらに守られて外国商人の威圧的な商取引きや生活ぶりは日本人の反発を生んだが、外国商人のなかには、条約の規定をくぐって日本人をつかい、ひそかに国内商取引きへ進出するケースすら見られるようになった。こうした動きに対して、攘夷思想が広まること自体はナショナリズムの自然な発露と見ることもできるが、攘夷論者の対外認識はきわめて観念的、一面的であった。攘夷運動がテロの水準を克服して健全なナショナリズムの性格を帯びるにはその担い手が民衆的広がりを持つようにしなければならない。しかし、一部の豪商を除く大多数の民衆は攘夷運動とはほとんど無関係であり、「志士」たちの活動が「世直し」に繋がればよいとかすかな期待をいだいていたにすぎなかった。攘夷論者の役割は、対外従属に甘んずる幕府を頂点とする支配体制を大きくむさぶり、従属からの脱却をもとめうる新統一権力への道を準備した国内政治変革をした。
1860年の英仏通商条約での高率関税撤廃によりイギリスとの競争にさらされた国内産業を強化するため、フランス政府は原料を安価に調達しようと、パリ割引銀行や帝国郵船会社のアジア進出をうながし、フランス商人も続々とアジアへおもむいた。対外紛争や国内対立の根源が幕府の結んだ条約を勅許しない朝廷の態度にあるとみなし、攘夷の最頂点にある孝明天皇その人にストレートな軍事的圧力をかけようといういかにもイギリス人らしい強引な正攻法で、勅許がなければ戦争となり、皇位の安泰も保証できないと力説して、条約の勅許を獲得した。勅許により幕府の立場が合法化され強まると期待したが、結果は逆であった。威勢よく鎖港攘夷をとなえ続けてきた朝廷が威嚇に屈したことは、妥協を強要した幕府の権威も大幅に失墜させずにはおかなかった。
開国進取の方針をかかげた維新政府は、欧米諸国からの先進技術の移植についても積極的であった。西洋機械文明の威力をまざまざと見せ付けたのは、とくに電信と鉄道の導入である。明治5年9月12日、新橋―横浜間鉄道が盛大に挙行された。人々が鉄道を利用し始めたのは、これより少し前の5年5月7日、品川―横浜間の仮営業が開始されたときであった。下等車の座席は板張りであったから、あまり快適な旅とはいえなかった。
官営富岡製糸場の建設準備が3年6月に始まった。明治5年2月、300釜の模範官営工場が蒸気動力によって動き出した。維新政府による機械文明の移植は、外国人による直接投資の圧力を受けながら、機械設備とそれを動かす技術情報だけを導入し、外国人の経営支配を極力排除する形で行われた。多数の「お雇い外国人」の存在は、そうした移植のあり方を象徴するものだ。直轄地府県からの収入に悩む大蔵省は、版籍奉還が行われた事を理由に諸藩財政に介入し、政府への資金吸い上げを図ろうとした。しかし、当時の諸藩の台所は借金だらけで火の車であった。もちろん藩による格差も大きく、年収に対する藩債の比率は100%~400%台まで大きな違いがある。借金の累計は中小の藩はもちろん、薩長を含む大藩にとっても、容易ならぬ水準にたっしていた。1871年、7月14日廃藩置県の詔書が下された。士農工商の身分制度を撤廃する布告も、廃藩置県の直後に相次いで出された。
明治6年7月に、太政官から地租改正関係法令が発布される。それに先立って明治5年から地券の発行が決まっている。地券の発行は、地租改正の前提となり、画期的な出来事であった。政府は地券発行により全国地価の税額を点検した上で、具体的な地租賦課の方法を考えた。田畑の地価をその土地の生産力=収益にもとづいて定める収益地価の方法であった。