母は、我が家の間取りを頭に描きながら、「あれではお父さんが帰って来られない」と心配し始めた。


「あんた、死に目に会えなくてもいい?」と母はS兄に聞いた。


「俺はいいよ。今だって、トイレに行っている間に逝っちゃう可能性だってあるわけだし」


 快諾してくれたS兄と嫁の弘美さんが、世田谷の我が家に行って、荷物移動をしてくれることになった。

1階の和室にあるサイドボードなどの荷物を他の部屋に運び、父が戻れるように準備するのだ。


 更にもうひとつの使命があった。人が亡くなると、すぐに銀行口座が凍結されてしまうため、一銭も

下ろせなくなる。

これから何百万もの葬儀費用などが必要なため、母は明日の午前中に、父の口座から下ろせるだけ

ろすように兄に指示した。


 この母の思いつきは素晴らしいと思うし、死に目に会えないかもしれないということを承諾してくれた

兄たちにも感謝の気持ちでいっぱいだ。


 看護師さんたちが、泊まりこむ私たちのために簡易ベッドを用意してくれたので、交代で横になる。

今日の夜勤は看護師の村西さんとケアワーカーの園山さん。2人とも顔なじみなので安心だ。

園山さんと村西さんは頭が下がるほど良くケアしてくださった。氷のように冷たい父の手足をなんとか温めようと、タオルでグルグル巻きにし、その外側に蒸しタオルを置いてくれる。

体位替えや痰取りのたびに、優しい声で父を励ましてくれる。2人の優しさはただただありがたかった。


 39度9分まで上がった体温が、朝には37度に下がったが、私にはそれが何を意味するか漠然とわかっていた。

体温が下がることイコール、生命機能が衰えているのだ。血圧は上が50ほど。なにか奇跡が起こって、持ち返したりしないだろうか、そんなことも思ってみた。


「おかしいなー、なぜか良くなっていますよ」なんて言いながら村中先生が首をひねったりしないだろうか? 


「ゾンビのように生き返った」なんてどこかでの新聞で取り上げられたりしないだろうか。


 父の手足に現れてきた赤い斑点を見ながら、一生懸命ポジティブなことを考えた。

ところが、勤務を終えた園山さんと村西さんが涙を流しながらお別れの挨拶に来てくださったとき、

そんな考えもなくなった。本当に最後なんだ・・・・・・。


「いつも、娘さんが帰られた後は、とっても寂しそうにされていたのよ」


 園山さんがそう言ってくれた。私はいつも、「じゃあね、お父さん、また来るからね」と声をかけて病室を出た後、廊下からそっと父の様子を覗いたりしていた。

特に私が去っていく様子を目で追うでもなく、寂しそうにも見えなかった父だが、本当は寂しかったのかな。


 そういえば、私が「お父さん、バイバイして」と促しても、右手をあげたまま全く答えてくれなかった
ことがあった。部屋を出て、そっと廊下から覗いたとき、ずっとあげっぱなしだった手が、パタンッ、と急に力なく落ちた。手を振ってくれなかったのは、照れくさくて意地を張っていたのかもしれない。

父が、私たちが考えていた以上にいろんなことを感じていたんだな、と思うと切なさがこみあげた。 


「もっともっといろんなことをしてさしあげたかったのに、それができないのかくやしい」と園山さんが言う。

私たち家族が毎日通って必死だったのをよく知っている園山さんは、父の面倒を本当によくみてくださっていた。園山さんの声かけに、何回か笑顔で答えたことがあった父だった。


 H保健病院で、こんなに心からの看護をしていただけて、父も私たちも幸せだ。看取られるためにこの病院に来たのだと感じる。

きっと父は大学病院で看取られるのがいやだったのではないだろうか。決して大学病院がダメだと言っているのではない。ただ機能と役割が違うだけだ。


*家族全員を待っていた父① へ続く