パリ同時多発テロから1年が過ぎました。ニースの事件からはまだ4ヶ月。
シャーリーヘブド襲撃から数えれば、間も無く2年になります。
フランス全土を覆っていた緊張感は日に日に薄らぎつつあるものの、被害者・犠牲者の方やその家族友人の心や体に、未だに生々しく深い傷が刻まれているという事実を再確認した日にもなりました。
そして直接的には被害を受けていないフランス国民や、私のようなフランス在住の外国人たちの心にも消えないわだかまりや傷が残っています。
道で風船が割れただけで人々が銃声と間違えて動揺するような、そんな緊張感や、街中の殺伐とした雰囲気はなくなったにせよ、その様子はテロ以前のそれと同じものではありません。
私の街にも、以前では見かけなかったミリタリーの警備が続いています。迷彩服を着て、大きなマシンガンを持ったミリタリーとすれ違うのも、いつからか私の日常になりました。
以前はなかった場所でセキュリティーチェックを受けたり、自ずと人の多い場所を避けることにも慣れました。
慣れたくはないようなことだけれど、今はそれがここの日常になりつつあります。
フランスに来てすぐ、1階の窓に必ずマッチョな鉄格子が付いているのが不自然だと思っていて、今はそれが普通になったように、こうやって私の普通もフランス基準にあわせて変化しているのだと思います。
日本に当たり前にある平和は、とても尊いものです。
海外に出て、それを肌で実感しました。
私には、忘れないようにしている気づきがあります。
それはとても大切な気づきなのに、なぜだか日常生活の中で、いつの間にか忘れそうになるもので、今回この悲惨な事件から1年を迎え、新たにその気持ちを思い出しました。
それは昨年の夏、ある地中海の島で、私自身が死を身近に感じた体験をした時のものです。
例えば事件や事故で瀕死の状態に陥った人や、大病から回復した人が、その後人生を180度転換させたり、足踏みしていたことにチャレンジしたりって話を聞いたことがあるけれど、私の場合もそれに近いんだと思います。
誰もがいつかは死ぬことはわかっているけれど、その死んでしまうかもしれないという感覚が、自分の血液の中をリアルに流れ、体全体に行き渡った時に感じた気づきは、私の人生を大きく変えるものでした。
それまでの当たり前が全て貴重で尊いものに思えるようになりました。
私の場合、その出来事の最中体の自由が利かなくなった時間が長かったので、大げさな話、ドアを自分で押せることさえ嬉しい時が数週間は続いたと思います。
そして、夢の前に立ちふさがっていた壁が、ひどく小さく見えました。
それは自分自身で築き、自分自身で大きくしていたのだとも気づきました。
自分の人生において、何が大切なのかがはっきりしたのもこの時です。
そして当たり前だけれど、人生が有限であるということを身をもって、リアルに感じました。
”普通”や”当たり前”はいつそうで無くなるとも限らない。
人生は有限で、一度しかなく、それをどう生きるかは本当、自分次第。
生きている限り挑戦し、失敗し、やり直すことも出来るけれど、死んでしまえば全て終わりで、あーだこーだ言い訳をしているうちにも、その大切な時間は流れている。
そして、愛する人を大切に、今あるものに感謝して生きること。
言葉にすると薄っぺらくなってしまうけれど、これを機に、もう一度しっかり心に刻んでいこうと思います。
今後、こんな悲惨な事件が2度と起きませんように。
そして夢を持って頑張っている人たちの願いが実現しますように!