今日は、夫婦別姓について書きたいと思います。
政権が交代して、千葉法務大臣と福島男女共同参画担当大臣の推進派がこの法改正に意欲を示していると言う。
基本的に私は賛成です。
でも、結婚する前のだいぶ昔の話ですが、その当時ディンクスと言う、いわゆる子どもを作らずに共働きをする夫婦の形が話題になっていた頃、その当時には、ジェンダーについて今のような意識はなかったせいもありますが、このディンクスも夫婦別姓についても、賛成ではありませんでした。
でも、今ジェンダーについて考えたり、女性差別について考えたりしていると、この夫婦別姓の問題も、違って見えてきました。
そして、その意識を変えた要因の一つとして感じたのは、息子の姓です。
以前、息子を両親の家に連れて行った時に、ありがちな会話ですが、父が息子に「名前は?」と聞くと、息子が「○○ ○○」と、別れた妻の姓と、私が付けた名を名乗りました。
そして、父が、「新井○○だ」と、私の姓を付けて息子をからかいました。
すると息子は、「違う!○○ ○○」と、少し頑なに自分の姓名を言ったのでした。
そんな会話は、よく親戚のおじさんとかが、「おじさんの子どもにならないか?」なんて、冗談で言うのと同じレベルの会話なので、それほど気に留める必要もないのですが、私は、それにちょっと衝撃を受けたのでした。
息子は、私の息子だけれど、私の姓ではない。
私は、自分の名前が好きです。
特に姓ではなく名の「徹」が好きです。
そして、ある意味その名前に誇りと言うか、そこにアイデンティティを感じています。
「新井 徹」は、他の何者でもない私自身なのです。
「新井」でない名前は、私ではないのです。
もし、結婚によってこの姓を捨てると言う選択を迫られたら、かなり抵抗感があります。
息子が、そこまで自分の名前に対して深い考えがあるかどうかは分かりませんが、とりあえず息子にとって別れた妻の姓が彼の名前であると言う意識は強いと思います。
そんな事があり、この名前について、少し考えさせられたのでした。
では、女性はどうなのか。
女性は、たぶん今の社会が、結婚したら女性は相手の男性の姓に変わると言うことが、ある程度普通のことであって、ほとんどの人がそうすることが一般化している社会で生き続けているから、自分も結婚したら姓が変わると無意識に思っているかもしれません。
ただ、子どもが女性だけの家では、その親が自分の姓が絶えることを心配して、娘に「お前は婿を取れ」などと、幼いころから言われ続け、そんな意識が深く刻まれることはあるでしょう。
しかも、女性の中には、結婚することで自分の姓が、愛する男性の姓になることに、喜びを感じる女性もいるでしょう。
でも、もし、女性の中に、私と同じように、自分の名前に誇りやアイデンティティを感じている人がいたとしたら、それは、職場で結婚することで名前が変わり不便だなどと言うこととは、全く次元の違う話です。
この夫婦別姓の記事や色んなサイトを見ると、否定派がかなり多くいます。
それをよく読んでみても、共感する部分もありますが、そのほとんどは、私にとっては納得できないことが多くあります。
その一つ一つについて今ここで論じることは、とても難しく、それは別の機会にしたいと思いますが、やはりその主張の基本に、ジェンダーの意識が隠れているのを感じてしまいました。
この夫婦別姓については、もっと議論を深める必要を感じています。
職場で不便だとかそんなうわべの理由だけではなく、また、夫婦や家庭の絆が薄れるとか離婚が増えるとか、それは確かに姓を別にしたことの影響で起こるかもしれないけれど、その基本的な原因は、別に解決すべき問題であって、女性が姓を変えることで起こる人としてのもっと深い想いを考える必要を感じています。
反対派は、今の制度でも、どちらの姓にするか選択できると主張しますが、女性に選択権がある場合は、ごく限られた事例だと思います。
そこには、社会一般に、ジェンダーの意識が根深く、それを基本にしているから起こることだと思います。
もし、自分の姓を捨てたくないと言う女性が、捨てざるを得ない状況になったり、「それなら結婚しなければいい」なんて乱暴すぎるし、それが自由に出来ない社会に問題があり、それこそが、女性差別ではないのか。
私も、未だに、男は仕事をバリバリして稼がなければ一人前の社会人ではないとか、負けず嫌いで人の上に立ちたいとか、色んな男とはというジェンダーに縛られている部分があります。
また、それらの中には、女性を守りたいとか支えたいと言う想いなどは、捨てるべきではないのではとの思いもあります。
一昔前は、古き日本の伝統を、そんなのカッコ悪いとか古いなどと、欧米化に偏っていたのが、最近は、それこそが日本の良き文化だと、逆に欧米から絶賛され見直されています。
そんな「男とは」と言う意識も、ただ捨てるだけではなく、良い部分は残しつつ、男とか女ではなく、全ての人が人として自分らしく幸せに生きていける世界を目指すべきだと思います。
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