危険が迫る中央集団と最後尾集団 | 気になるニュースチェックします。

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安倍内閣はいよいよ憲法九条に自衛隊保持を書き込むそうです。

かつて、日本人は満州侵略を日本の生活向上のためといって支持しました。

けれど結果はどうなったか、、、、、

敗戦で騙されていたことを、いやというほど思い知ったはずです。

国家に騙されてはまた同じ轍を踏むことになります。

 

国策として満州に渡った開拓団の人たちが、国家に棄てられ悲惨な運命をたどったことは

今ではだれでも知っています。

国は自分たちの都合で、国民の命などどうにでもできるのです。

 

 

★★★危険が迫る中央集団と最後尾集団

 

 

●8月10日
 
 太陽が東の空を染めて昇り始めるころ馬車180台、1300人の長い隊列は
 ハタカンの大地を上がって行った。
 ハタカンからは、悠々と流れるムーリン河を隔ててはるかに標高432mの鶏冠山を
 眺望することができる。

 この山の向こうはソビエトとの東部国境線である。
 ハタホ開拓団に最も近い駅は東海駅、その東海駅から西に13キロにある平陽駅は
 前日、ソビエトの宣戦布告直後空襲を受け爆撃、機銃掃射によってその日のうちに破壊された。

ハタホ開拓団の目指す、鶏寧、その先の滴道は炭鉱の町である。
ここでは軍の厳しい要請によって、中国人捕虜や労務者が強制就労させられていた。
それらが日本人の隊列を見送っていたが、その眼には、はっきりと憎悪の色が見て取れた。

ハタホ開拓団の副団長、上野勝は後方から従っていた。
笛田道雄と応召家族の集団は、それよりさらに後方にいる。
笛田と同じく、ハルビンの日本国民高等学校から先遺隊として入植した北大営区の遠藤久義も
東ハタホ新潟部落の応召家族を抱え込んだ及川頼治もそれぞれ婦女子群をつれて加わっていた。
 

「遅れるなー」

「隊列を離れるなー」

後ろから前から声が飛び交う、、、、

 

その時ハタカンの東海駅の方から来た汽車が平陽の方向に過ぎていった。

やがてムーリン河の鉄橋にいたり、これを渡るともう鶏寧である。

その時、突如ソ連機が一機、線路上空を直進、汽車に向かって突っ込んでいった。

 

「あっあの汽車があぶないっ」

鉄橋を渡る汽車の音が、ごうごうと響いたのと同時に轟然たる爆破音がして黒煙に包まれた。

こうして鉄橋は爆破され、そのためこれが東海,平陽、鶏寧を通過して牡丹江に至る

最後の列車となった。

 

ソビエトとの開戦と同時に国境、東海方面に向かう列車は、軍の命令によってハタホの手前

平陽駅で止められて、一本も運行していなかった。

鶏寧に行けば汽車に乗れる、何らかの指示が得られるという一条の期待であったが

今、ハタカンから望むその鶏寧は、ソ連機の爆撃を受けて炎上、潰滅しようとしていた。

 

県警察より

 「鶏寧は空襲をうけつつあり、昼間の行動を止め夜になるのを待つように」

という連絡が入った。

その連絡に来たのは、本村辰二隊長の前任者で、ハタホ開拓団のひとたちと顔なじみであった。

 

 またもソ連機の来襲、、、

 国境地区から撤退する日本軍のトラックと、避難民を目標に敵機が急降下する。

 機銃弾を打ち尽くしソ連機は去っていった。

 

 ここで頼みの多くの馬を失った。

 そして偵察に行ったトラックが帰ってきて、鶏寧のすべての日本人が引揚げ、久保田県長を

 はじめ事務員までもが最後の汽車で避難したことを報告した。

 

 さきほど連絡に来た警察官の姿もいつの間にか消えていた。

 沈痛な面持ちで貝沼団長は、林口を次の目的地に指定する。

 林口がだめなら牡丹江まで行くしかない。

 林口まで鉄道で86キロ、牡丹江まではさらに110キロの距離があった。

 

 笛田の集団もここで一台の馬車を失った。

 女たち7名、子供たち17名の集団で、この先どうすればいいのか、、、

 隊列は夜になってなおも燃え続けている鶏寧の町へ入った。

 

●8月11、12日

 

  西鶏寧を過ぎるころから、降りだした雨は夜になって豪雨となった。

  8月とはいえ、北満の雨の夜は骨身にしみるほど冷え込んだ。

  女たちはかじかんだ手に手綱を握りしめ、慣れぬ馬車を操った。

  ハタホ開拓団と行動を共にした南郷開拓団の高橋庄吉はこの避難行を、次のように

  記録している。

 

 「隊伍も乱れ、前馬と後馬との差は約3里も距り、連絡意のごとくならず。

  かつ暗夜のため、断崖より転落しどこの者か悲鳴のみ残して、哀れ谷間に落ちて

  負傷せる者あり

  かつ、また破損せる橋梁ありために前進の人馬ともに、これが修理にて心身の疲労

  その極に達す」

 (ハタホ開拓団避難概況報告書)

 

 ついに貝沼団長は一時行動を中止する指示を出す。

 ほとんど雨中に立ったまま、寒さに震えながら夜明けを待った。

 笛田の一群は豪雨の中を泳ぎ、泥寧の中を這ってようやくここまで追尾してきた。

 ここで丸山キクエの1歳の男の子が、母親の背中で死んだ。

 

明けて8月12日、雨の弱まるのを待ってハタホ開拓団は再び行動を開始した。

丸山キクエも死児を背負って、隊列に加わっている。

滴道付近で夜明けを迎えた。

 

やがて太陽が昇り始めるとたちまち大陸の炎暑がやってきた。

笛田は団長を捕まえて言った。

「林口に着いたら汽車に乗れるのですか」

団長の顔に苦渋の色が浮かぶ。

「我々がこの調子で林口に着くころは、林口もすでに爆撃されているだろうが、とにかく

 一刻も早く林口に着き女と子供を逃がしてやらねば」

延々と長蛇の列を率いていく貝沼団長の心境は、ただ悲愴の二字に尽きる。

 

このころから、開拓団を追い越して国境から撤退する軍のトラック、日本兵の数が増えてきた。

笛田と女たちの集団は、またしても最後尾になってしまった。

すでに民家も耕地も視界から消えて、行くては冠達山脈の山々が連なっている。

 

右手の湿地帯の向こうはムーリン河にそそぐ滴道河が流れている。

右側の山腹から頂上にかけては、日本軍の対戦車壕が掘られている。

新しい木造の監視哨もあるが、監視兵の姿はなかった。

 

麻山はもう眼と鼻のさきである。

11時近く、ついにトラックの放棄が決定された。

前方に偵察に出ていた本村隊長から伝令がかけてくる。

待ちかねた貝沼団長が見た伝令は

「前方に優勢なる敵が進出、開拓団の男子はすみやかに前進し、軍に協力すること。

 トラックは現地にて焼却、婦女子は直ちに退避せよ」

 

前方ではすでに戦闘がはじまったらしく、しきりに銃声が聞こえる。

まさか後方から追い迫るとばかり思っていたソビエト軍が、自分たちを追い越して

麻山に進出しているなど考えられないことであった。

 

今、開拓団は前方、後方をソビエト軍によっておさえられたのであった。

 

この街道を行くハタホ開拓団も、これまでの難行軍のなかで多数の落伍者を出しつつ

自然と三つの群れを形づくっていた。

 

笛田の率いる応召家族たちは、女たちは疲れ切って今は落伍者寸前の状態にあり

最後尾を気力だけで歩を進めていた。

また、先刻婦女子の退避、誘導を命じられた上野勝、高橋庄吉もこの集団の中にいた。

 

この最後尾集団の一キロ前方にいたのが、貝沼団長、本村警察隊長を中心とする

中央集団の一群で、南郷開拓団も加えておよそ400名くらいがここにいた。

そして中央集団よりさらに一キロ前方に進出して、先頭集団にいたのが遠藤久義らの率いる

応召家族たちであった。

 

 

●麻山谷 もう袋のねずみ

 

 最後尾を行く笛田たちの一行が麻山に到着したころから、山の向こうの銃声はますます

 激しさを増していた。

 ここは山に囲まれた600坪の緩い傾斜地で、麻山の男たちは麻山谷と呼ぶ。

 

 そこに団長を囲んだ中央集団の400余人と今は数十台となった馬車が終結していた。

 そこは山影になっているので、被弾はなかった。

 前方から一人の兵隊が走ってきた。

 [ソビエトの戦車がすでに前方にいる。

  わが軍も応戦しているが、戦死者も多くこれ以上の前進は無理である」

 

 この情報に貝沼団長の顔から血の気が退いていった。

 先夜、開拓団を追い抜いて撤退していった部隊の兵隊も後退してきた。

 「数十台のソ連戦車と遭遇して敗れた。

  その戦車が今、ここに来る。

  国境からの戦車群も来る。

 もう袋のねずみだ、、、、残された脱出口は裏山をぬいつつ、麻山を大きく迂回して

 林口に向かう道しかない。

 部隊はその方向に行く」

 と兵隊たちは言った。

 

この疲れ切った女たちに山中からの脱出が、果たして可能だろうか。

団長は後退してくる日本軍を捕まえては、開拓団を安全地帯まで護衛してほしいと

懇願するがすべて拒絶された。

 

「戦闘力のある兵隊が後退し、戦闘力のない開拓団はいったいどうなるのだろう。

 兵隊はなんのために存在していたのだろうか。

 当時の私には理解できなかった」

 と納富善蔵は書いている。

 

団長は牡丹江にむけて転進を命ぜられているという日本軍に、自分の願いが聞き入れられる

はずもないことを確認する。

絶望していたが、それでもなお後方待機中の部隊を見つけて、開拓団の護衛をたのむよう

納富善蔵を伝令として、出発させたのである。

 

納富は馬2頭を選び、白たすきをかけて伝令に出た。

ぬかるみの道を飛ばすと山中に日本軍が退避しているのを見つけた。

そこで納富は団長の願いを必死に懇願するが、

「我々の任務は開拓団の保護ではない」

と隊長らしき人物が言うが、それでもそれでもと再三にわたり願うがだめであった。

 

納富は後になって

「私の力が足りずについに兵隊の保護は受けられなかった。

 今にして思えば、あのとき寛大な気持ちの兵隊が、開拓団の保護を引き受けてくれていたら

 あのような惨事は起こらなかったと残念でならない。

 肩にかけた白たすきも真っ黒になり、流れ弾をくぐり抜け開拓団の避難所に帰って

 この旨を団長に報告する。」

       (麻山と青年学校生徒)

納富からの報告を受けた団長は、沈痛な面持ちで「わかった」と言葉少なにうなづいた。

 

●先頭集団の悲劇

 

 このとき、避難集団の最先端を行っていた遠藤久義と吉岡の二人が駆け下りてくる。

 二人は団長の前に立つが大きく見開かれた目と、口元がけいれんするのみで

 声にならなかった。

 

 どうしたのだという団長の声に、二人はようやく前方に突然、敵の攻撃を受け団員多数が戦死

 または四散して行方不明になり、自分たちは家族を処置して報告に戻った旨を伝えた。

 先頭集団には遠藤、吉岡など6、7名の男子団員に率いられた北大営、新関東などの

 婦女子60、70名が加わっていた。

 彼らは中央集団から約1キロ前方の地点で側面から、敵の攻撃をまともに受けた。

 

 「なにしろ近くの山から、自動小銃のようなものですごく撃たれた。

  逃げれば逃げたところに撃ち込んでくる。

  弾がいっぱいくるんだ。

  ハタカンの機銃掃射よりひどい」

 と遠藤は言う。

 

 ソ連軍の自動小銃は草をなぎ倒して、青々と繁ったボーミー畑は一面に荒れ果てた。

 あちこちに悲痛な叫びと断末魔のうめき声が聞こえる。

 ソ連軍基地から撃ちだす迫撃砲弾が、頭をしゅるしゅると尾を引いて飛び去ったかと思うと

 日本軍の散開しているらしい山に炸裂する。

 

 おばあさんは短刀で子供の首を切り、自分も首を切って死んだ。

 子供を背負った母親は、胸や背中を撃たれ背負われた子供も死んだ。

 その近くには6歳の子供が、無残に腸を噴き出して死んでいた。

 ボーミーの倒れた下には、血に染まった父親の屍体があった。

 

 遠藤は追い詰められ最期の時が来たことを知って、妻と子供たちを処置したのだった。

 「私はもう夢中だった、合掌する妻を正面から撃った。

  続いて母に習って手を合わせている長男はじめ3人の子供たちを次々と撃った。

  そして部落の細君たちを、、、、」

 

 先頭集団には時間がなかった。

 後事を託された者として、女や子供たちを最後まで護り、見届ける責任が遠藤の心を

 いっぱいにしていた。

 他人のことなどに構わず逃げれば、よかったのだがそれができなかった。

 

 最後の手段として処置が行われた。

 吉岡の集団も敵弾雨飛の中で処置が行われた。

 被弾はますます激しくなり、後方集団にも危険が迫っていた。

 

 この状況を早く伝えねばと二人は、ようやく戦場を脱出し斜面を転がり下りて

 貝沼団長の前に立ったのであった。

 

 危険がせまる貝沼団長の中央集団とさらに後方の最後尾にいる笛田たちの集団

 この人たちの最期の様子を次に見てみましょう。