南部坂 雪の別れ
御納戸羅紗の長合羽 二段弾きの渋蛇の目 爪掛けなした高足駄 後に続くは大石の 懐刀 寺西弥太夫 来るは名代の南部坂
松の廊下で吉良殿を 討ち洩らしたが残念と 華より先に散ってから 早一年と九月 今日はご主君長矩公 積もる恨みと音もなく 涙こらえし白妙の 雪も侘しいご命日
来る日行く日も望みなき 瑶泉院をば気遣こうて 訪ね来たりし内蔵助 お願い申す御門番 手前大石内蔵助 瑶泉院様お目通り 宜しく取り次ぎ願いたい
戸田局がお出迎え これはこれは御城代 ようこそお見え下さいました あなたのおいでを今日であろうか 明日であろうかと 戸田よ出迎えかたじけない よろしく案内頼むぞよ
戸田局の案内にて 通りてみれば正面に 浅黄綸子のおしとねに 白の綸子のお召し物 紫紋紗の十徳に 水晶念珠つま繰りて この世を思い切り髪の 今年十九の瑶泉院
良雄なるか嬉しいぞ そちの来るのを待ちかねた 今日は幸いご命日 久々参りし内蔵助に 精進ながら酒ひとつ 自らも相手なしょう
戸田が指図で数多の女中 俄に運ぶ酒肴 これが主従の別れの盃かと 口には云はねど心の内 実は今宵の一大事 明けてお話いたす心で来たのじゃが いつに見慣れぬ一人の女 内蔵助に目を付ける こやつ油断のならぬやつ うかと大事は明かされぬ
盃重ねて酔うたふり たいそう馳走になりました 本日良雄まいりしは お暇乞いにございます 暇乞いとは内蔵助 何処へ参る所存ぞや 答えて申す内蔵助 亡き殿様のご法事も 無事に済ませたこの身には もはや江戸には用はなく ひとまず京地にたちかえり 一夜明くれば大阪に まかりこしたるそののちは 武門をすてて町人にと 意外な言葉に瑶泉院 なななななんと内蔵助 そりゃ本心でおいやるか
何偽りがござろうぞ まことといやるか内蔵助 たのみがたいはひとごころ お家盛んのその折は 江戸屋敷にあるときは 内蔵助はどうして良雄はと そちの噂の出ぬ日なく
五万三千石に すぎし家来は大石と来る人々にご自慢の 田村邸にてご切腹のその折は わらわや御舎弟大学さまに何ひとつのご遺言も無う 片岡もって 無念なるぞのお言葉や ご辞世書かれし短冊や お肉通しの短刀まで そちに形見と下された 殿の恩義を忘れてや
最早用無いひとでなし 言葉交わすもけがらわしい 立て立て下がれ下がりおれ 下がりおろうぞ立ちませい
ごもっともなる御ことば いっそ今宵の一大事 あけてお話いたそうか いやいやいいやさにあらず いまの怒りの御涙 一夜明けたる暁は うれし涙と変わるじゃろう
おそれいったるご立腹 さればこれにて失礼をと わざとよろめき立ち上がる 心は後に後ろ髪 曳かれる想いの内蔵助 気を励まして長廊下 戸田局がお見送り
ご城代様あなたには 武門をすてて町人に
いかにも左様なんとした
つかぬ事をば伺いますが 手前の兄の十内や甥の幸ェ門 何処で何しておりましょや
小野寺親子であるなれば 都で飴やをしておるぞ
場所柄をもわきまえず 京地で飴やはなにごとぞ もしもお会いなされたら 腹でも切ってなぜ死なぬ 妹戸田が申したと
これはこれはなかなか手厳しい 必ず申し伝えるぞ それから戸田よ あまりの怒りに内蔵助 お渡しするのを忘れていた この紫の巻物は 良雄京地に在りしとき
口ずさんだる歌俳句 神社仏閣 京の名所の絵図もある 一夜明けたるその折に ご機嫌直りしその折に 開いてお見せしてしておくれ 瑶泉院様みられるまではそちも見ることならんぞよ 戸田よ 体を大切に 瑶泉院様身の回り 頼むはそちよりほかにはない よろしく頼むぞくれぐれも 戸田よさらばと玄関先
そろえてありし履物に 身をばのせたる内蔵助 伴の寺西弥太夫が無言で着せる長合羽 開いて渡す渋蛇の目 ようよういでし門の外 くだりかかりし南部坂 雪に途絶えし人影の 後ろ振り向き主従が こらえこらえし血の涙
こちら瑶泉院様お屋敷では 床に入った戸田局 このゆくさきや兄の身や 思いめぐりて寝付かれず 夜明けも近しと思いしおり みしりみしりと長廊下 覆面姿のあやしきもの 静かに開けた唐紙の 内蔵助より預かりました紫色の包みをば 掴んで逃げよとしたときに がばと跳ね起き戸田局 曲者待ったと羽交い絞め
おであえ候え方々よ 数多女中がばたばたばた 取り押さえたる壱人を がんじがらめにひっくくり 被りし頭巾を取ってみりゃ おとこじゃないぞ 新規抱えの小間使い 今朝ほど大石が こやつ油断のならないやつと にらんだ眼に違いはない
お許しください出来心で
出来心とはいわさぬぞ 他のものならいざ知らず よりにもよって ご城代より預かりしこの巻物を狙うとは 何処のものではあろうかの 瑶泉院様まで引っ立てる
夜も白々と明けてきた 折から表に大音声
ご開門を願います 昨夜本所松坂町 大石様をはじめとし 赤穂浪士が四拾七名 吉良様屋敷に乱入なし 見事本懐遂げられまして 芝高輪の泉岳寺にひきあげました 手前足軽寺坂吉ェ門 昨夜のあだ討ち報告に参上いたした次第です
聞いてびっくり瑶泉院 戸田局と顔見合わせ 夢ではないか さては昨日参りしは装いながらの暇乞い 知らぬは女の狭量から 敵を欺く其がためにいわずに帰ったそなたのこころ さぞやさぞかしつらかったじゃろう
戸田局がご名代 かごを召されて泉岳寺 昨夜の非礼のわびをする 平成の御世の今日までも 語り継がれる赤穂浪士の物語 しよんがいで踊る忠臣蔵 南部坂雪の別れの一席は これにとどむる次第なり