中南勢音頭通信  かわさきの巻 7   田中芳松 | 私が言っては遺憾会(中南勢音頭通信)

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さて、21歳の時に「三重の唄」のしょんがい音頭にであい、青年団の踊り練習で好評を得て、その気になり、そのレコード制作をきっかけに活動を始めていた「松阪しょんがい音頭保存会」の門をくぐることにしたのは、1973年、25歳の時であった。松阪公園下の、働く若者のための会館で練習会が行われていた。大きな目的が二つ、山川正治、田中芳松、この二人に会うこと、そして教えを乞うこと(発足から一年遅れてかわさきも取り入れていた)。初めて訪れたその日、思いもよらぬ、実につらいニュースを聴くこととなる。「山川正治、倒れる」。それも再起望めず。自分の中で、何かが音を立てて崩れた。そんな気がした。しかし、救われた。会わねばならぬもう一人の人がそこにいた。私の行儀悪さ、礼儀知らずは自他ともに認めるところである。しかし今日だけは、心せねばならない。慎重に、慎重に、接点を広げていった。そして後日の訪問を快諾いただいた。弟子入り成功である。この日、かわさきは踊られたのであるが、師は演られなかった。しょんがいをやりたいと申された。頼んでおいた新作ができてきたとのことであった。 

 

処処(諸所)、方々の音頭師たちが、芸にまた芸を競う中、わが意中のあの人が、取りだしたる一枚は,村木文園作詞なる、築城音頭と申しける

  

これが初読みだったそうである。今の保存会で演られる築城音頭は100パーセント師のコピーである。

 

こうして師のもとへ通うことのなったのであるが、それより三年の間に四~,五人の弟子が合流して四席のかわさきを習うこととなる。本当はすでにテープがあり、文句さえわかればわざわざ習いに通う必要はなかったのであるが、やはり、そこはそれなりの礼と敬意は払ったつもりである。

 

ここでひとつ大事なことを断っておかねばならない。わたしが習ったのは、「かわさき」だけである。しょんがいは習わなかった。このことについてはいずれ改めて詳しく述べなければならない。