Sawaきぶん

Sawaきぶん

Sawaちゃんの気分次第

※限定記事は基本病んでます。

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お久しぶりです。
ここに投稿する頻度は減りました。
けれど、わたしの頭の中はあまり変わっていません。
舞台が実家のベッドから一人暮らしの部屋のベッドになり、何度か引越しを繰り返したり、わたしの頭の中のお話はブログではなく言葉で語られることが多くなった、だけのこと。

家庭について、病気について、愛情について、考え続けること約1日。
わたしの疲れた脳は暴走して加速していき、ただの考え事は、やがて人の欲求と人類の歴史というスケールに至って完結した。
疲れ果てる前に文章に出来たので、久しぶりにブログにアップしようと思ったのだ。

わたしは栄養は必要かもしれないけれど、食べ物は必要としていない。
だって、週何回か病院行って点滴されれば体重をほとんど増やすことなく、最低限の日常生活が送れるだけの栄養を摂取することができるから。

摂食障害は、人の価値観に影響されやすい病気、だと言われることが多い。
ふくよかであることが富の象徴とされた文化に、素晴らしい先進技術としてテレビがやってきた。
人は、光輝く富の象徴であるテレビの中に、痩せていることの魅力を見出したのかもしれない。

けれど、それはきっとテレビの中のモデルさんが痩せていたせいではないはずだ。
人はきっと自分の追い求めるものは、なかなか手に入れることが出来ないものなのだ。
いつだってそう、画面越しにこんなにリアルに見えてはいるが。








「温かい炊きたてのご飯を食べる幸せ」は、きっと「今これから家に帰ってすぐ」それを食べることができない人のものだと思うの。
だから、冷蔵庫と電子レンジを持っている人にとって炊きたての白米の魅力はお金で再現できるものだよね。
もちろん、完璧な炊きたてのご飯ではないけど、帰り道のコンビニで買ったご飯をチンすれば、とりあえずの物質と温度、量はあまり変わらないかもしれない。
だからもしかしたらパンを食べる方が好きかもしれないし、自分のお金では手に届かない高級なイタリアンに魅力を感じるのかもしれない。

うちの父親は田舎の農家で育った人で、母親は都会で洋食屋さんを営むコックさんの娘。
父親は母親の作るご飯は大好きだし、イタリアに10年住んでからは、母親の作るパスタも好きな料理になった。
だけどね、1日1回はご飯が食べたい人、畑で採れたばかりの野菜の美味しさは知っているけど当たり前に感じる人。

母親はそんな父親のことを知っているから、自分は麺類が続くのも、自分はパンを主食に済ませることが苦ではなくても、「じゃあ、パパにはご飯用意してあげよ!」ってしている。
もちろん父親は分かっている。
だからきっと、外で接待されて食べる高級料理より母親の作る料理が好き。

母親は自分の父親がコックさんだったから。
手間のかかった凝ったソースにも、1から手作りされるスープにも慣れているし、お店で出している手間のかかった料理より、そんな忙しい父親が「料理研究するために」家族を連れて一緒に行った外食が思い出なのかもしれない。
再現できないもの、だから。

じゃあわたしは?
まだわたしが子供のころ、たまに父親が料理をすることがあった。
父親はいつもカレーと中華料理担当。
しかも凝り性で気が向くと1日かけてカレーを煮込んだりしていた。
だから、母親はカレーは絶対作らなかった。
「パパの作るカレーが1番!」って言ってた。
わたしは、毎日食べる母親の様々な料理より、イタリアで食べている手の込んだ日本食より、たまに気が向いたときに出てくる父親のカレーが好きだった。
同じモノは2度と出てこない父親のカレーが好きだった。

日本に住んでから、祖母のことを気にした父親はキッチンに立たなくなった。
わたしの好物は「父親が一緒にキッチンに立って教えてくれた料理」になった。
冷蔵庫の中の「残り物」の茹でた後のパスタ、をバターで炒めてケチャップを絡めて牛乳で味付けしただけのモノ。
だけど、それは日本からイタリアの家に帰って「すぐ」疲れている母親に父親が作った料理だった。

人が本当に魅力を感じるものって、その場では決して手に入らないものなんだよね。
だけど、なんとか自分で再現して手に入れたい。
そのためにお金で時間を、便利さを買う。
だってさ、温かいご飯を食べることがこんなに簡単になった日本の世の中で、1番高い値段の炊飯器が「まるで誰かが土鍋で1から炊いてくれたようなお米が食べられる炊飯器」なんだから。

電子レンジが普及して、温かい料理が自宅で簡単に作れるようになったら、人は今度は他人の愛情を温度ではなく時間で感じるようになった。

「冷たいパンはあって当たり前、それより温かい肉料理こそ家庭の味!」そう感じた人がいるからきっと、「どこにいても片手で肉料理を持ち運べる」ハンバーガーはこんなに簡単に食べられるようになった。
でも、世界中でこれほどたくさんの場所でワンコインで家庭の味を再現することができる世界になったのに、人がお金を払うのはグラム何千円の高級なお肉をただ、焼きたてで食べること。

わたしは、帰り道歩いている時に焼き魚の匂いがしたらお腹が空いた時期があった。
実家の夜ご飯に魚料理が出たらあんなに文句を言っていたわたしが、だ。
けどね、魚をスーパーで買おうとは思わない。
コンビニで焼き魚が売っているのを初めて見たときは驚いた。
何度か買って食べたりもした。
そうしたら、私にとって焼き魚は魅力的ではなくなった。
お金を払えば再現できるモノになったから。

今わたしにとって1番魅力を持っているものは「レモネード」だ。
子どもの頃ベランダでプール遊びをしていると、必ず母親がおやつに用意してくれたからだ。
もちろん、ベランダプールよりはるかに広くて楽しいプールに好きなジュースを持って行くことが出来るようになった今でも、その魅力は変わらない。
いつ卒業したのかわからないベランダのプール遊びは、どんなにお金をかけても再現できない。
下着だけで遊ぶことが出来た頃の晴れた1日、母親の機嫌が良くて午前中から用意してくれていたプールで遊び、よく冷えたスイカや梨と一緒に出された、手絞りのレモネード。
人は手に入らないものにこそ魅力を感じ、価値を見出す。
あの妙に酸っぱくて薄いレモネードはもう二度と手に入らない。

Sawa