生きとし生けるものの、哀れに詰まる生と死。 | 小薗学のブログ

生きとし生けるものの、哀れに詰まる生と死。

髪を束ねる君の時間も、刻々、と過ぎ去り、その幻影を追いかける闇も、嘲笑を含みながら、君の事を追いかける。
その影を含んだ今に、落とされる感情も、法悦を加えながら、その倫理に溜まる道徳とは、腐りきった稀有な、
感情を吐きつつ、この異形に溜まる現在を抱擁しながら、永い旋律を加え、その永遠性を保つような、
足指が、シャワーの水に溶けて、微塵の愛が、肯定されながら、総てに否定され、その後景に、のし掛かる、
全貌が、永久に結ばれていきながら、その艶麗たる時間を奉納する現在に、偏在な意味合いも蕩け、この異質に、
溜まる現在のニュアンスを司る考えも、やがて、年老いては、蜻蛉のように、子を産んで、踏まれて消え、
機影に溜まる、雑踏の姦悪を吸い取りながら、歪んだ毎日に、プラトニックな何かを産み落とし、潮騒のように、
あふれ出す感情が、歪曲しながら、曲線を描き、落ちていき、この生き生き、とした今も、やがて、年老いては、
その計算を終える脳裏が、やがて、童心に帰り、代価を求める月夜に食べ尽くされる感情も、数々の今に、
抱擁されながら、この胴体を仮眠させ、この長日に響く想いも、空腹に溢れては、その憐憫に触れ、この太古からの、
変節を踏みにじる想いも、やがては、湖畔で溶けて無くなるような、日々を模写し、製造される思いは、陳腐な、
何かを嗅ぎ取り、足りないから、と補い、捕食されては、天体に帰り、この朝食に溢れる憂鬱な顔たちも、昼下がりに、
疲れた身体を、引き摺る毎日たちも、解放された夜に犇めく感情も、やがて、静かで、閉塞的な、毎日に、幣束され、
雇用されていた身体を引き離し、何れかは、何処かに消え、何時かは、何処でも無い場所で、誰かの、
帰りを待ちながら、その短い身支度を終え、粒子になり、空に浮かぶ、単なる一部の愛に切り取られる想い、と
入り交じり、この清風を浴びる今に、尾鰭を付けながら、泳ぐ空間にだけ、馳せる想いを昇華させる。

「紀元前にまで、広がる「愛」のメロディは、浸水しながら、総ての情景に、蕩けていく。定理を結ぶ、総ての直線は、ねじれながら、誰かの、心、と結ばれ、無数の意識を保ちながら、その定理を結ぶ、提言を吐き出し、徘徊する意識は、正否を求めながら、ずっと孤独な算用を貯めていく。心許ない愛も、求め合いながら、その心理を渇水させながら、千切れる今を描き、この妖艶たる未来を形成し、それに、補われるだけの、意味合いを投下し、加算される日々の現用を求め、止めどなく溢れる感情に、過失を与えながら、この永いだけの、時間の秒針を眺め、分針は時々、怠けながら、倦怠する今を、怠惰に染めながら、永遠とは、何処から結ばれ、この想いの、端々を繋ぐのか、と感ずる今も、破水しながら、時々の冒険を行い、惚けている毎日に惚気るように、疎ましく付きまとう今も、何処かの地下室の、パーティーの喧騒に帰依しながら、この永いだけの日々の惰性たる真実を折り重ね、その蔓延る意識に呈上される現在とは、変性を迎えながら、戒律を求めるように、何かに、恥じるように、その遠景を結びながら、無数の意識、と結ばれ、太古からつながる遺伝子の中の、情報を吐き出しながら、永遠に続くようで、その道筋とは、永遠に短く、自覚した頃には、総ての形影に消え去り、何事でも無かったかのように、空間に消えて行く」

寝室に溜まる愛も、何時からか、離れ離れになってしまい、始末の悪い現在の溝を埋めるべく、毎日に、
愛を重ねるが、何時からか、それも、疎ましく感じながら、その絡まる今とは、空虚さを含みながらも、
その少ない愛にこそ、承知の事実を知って、白々しさを身に纏いながら、その掴まる今に、意味を求め、
その離れ離れになる意識に、少しの猶予を与えながら、その旋律とは、何処かに繋がり、離れてはいけないような、
清逸たる専一を歩み、その歩みに比例する、離れた愛にこそ、その愛は、不確かな今を築かせるように、気付かせ、
足枷失い、紙面上の夫婦を名乗っているようで、その不快な意味も、深々な想いを溜め込み、
何れかは、一緒に居て良かった、と思えるように靡く風は祈祷しながら、純白な今を溜め込み、
この奨励する今に、悲愁たる意味も解け、詰るような気持ちを解放するように、濫立する意味を蓄え、
何にも、変えられぬ日々を、被覆しながら、宛らを保つ。

「均一な今とは、寡占されながら、止めどない今に、忌みたる意味を施し、厭わしい事実を重ねながら、厭われる気持ちを、抱擁しながら、今に、畏怖を与え、この徴候に過ぎ去るだけの、意味を終え、その終端を掴む現在とは、何事かを、求めながら、何事でもあるべき意味に、たじろぎながら、疎ましい現実に、嫌気を感じながら、閑散とした、現在に突き抜ける、意味を葬りながら、その形跡を踏みにじる今に、意味を加算させながら、殆どが無意味だな、と。たまに、落ち込みながら、遅刻しながら、宛らの出来事を良化し、その最たる毎日に、固執しながら、諦め、飽き飽きだ、と告げては、未だ未だだ、と。行いを蓄え、この今日は何時から始まり、何時まで続くのか、と荷担する意識は、空っぽで、その場しのぎの愛を蓄え、その場で枯れる月下美人のように、数時間の美麗さを、吐き出すのが、人生なのだ、と妥当な毎日に絡まる、権力的な腐敗も遙か、損得勘定に押しつける、感情論も論客を失い、客観を失った、依存者も遙か、語弊、とだけ結ばれ、自己意識、とナルシズムに静まるだけの、おざなりな君も、誘う意識だけに、湖面を貼り、その道筋を歩む擬態化した現在も、知れば知るほどに、深みを増す頃に、何も行えなかった、と後悔に馳せる想いに降り積もる、今を振り払いながら、奮起し、進む意味にこそ、君の求めた価値も生まれ、その場しのぎに斡旋される感情の首輪に繋がれたままの、君も、何れかは何もかも、を失うだけに過ぎず、その場に溜まる今も、何れかは、なにものでもなく、なにごとでもないような、現状を蓄え、嗚呼生きているだけで、満足だ、と靡く日も来るだろうし、何かを紐解くように、この情事とは、主観を失い、見つめる先を傍観しながら、その宛らに詰まる出来事とは、殆どの無意味な出来事を積み重ね、組み替えながら、次々にへ、と継ぎ接ぎ、はぎ取る今も、純真に煌めきながら、その精度を深めていくようなものです」

この叙情に、煮詰まる泡沫を食しながら、永いだけの日々に悟性を求め、濫觴する今に、感傷しながら、
その情景に迸る、意味を拵えながら、淫蕩に及ぶだけの、出来事は、その起因だけを求める価値だけに、
心酔するだけに、過ぎず、理解とは、殆ど、程遠い場所で、内観を壊しながら、その外観がボロボロになるまで、
その歓喜の足並みを揃え、えたものを、甘苦に、パンクさせながら、又、得ながら、その奏でる旋律を歩き、
背に腹は代えられぬ日々を代用しながら、秀逸に長ける想い、と出向き、この印象を超える為だけに、存在する。

「愛を信じる事は出来ない、が信じようとは、思う。この煩わしい想いも、発芽しながら、何かを提要しながら、何かをまき散らし、根差しながら、何時かは咲き乱れ、又、枯れ果てるだけに、過ぎ去るだけの、何かを蓄えて行く」