2008 年、ドイツ・中国・フランスの合作映画である『ジョン・ラーベ』は日本未公開作品である。この映画は1937年12月、南京攻略に際して南京城内に居住す る南京市民25万人を守るため、国際安全区を作って難民保護へと努めたドイツ人、ジョン・ラーベの活躍を描いた作品で、2008年度のドイツ・アカデミー 賞の主要部門を独占受賞した作品でもあった。ドイツ、中国、フランス、イギリス、カナダ、アメリカなど日本以外の各国で公開された国際的映画でもある。


情報では、日本未公開の南京事件関係の映画の中でも最も日本へ輸入公開が難しい作品だとのことである。

もちろん、その理 由はこの映画の中で皇族軍人である朝香宮鳩彦王(南京攻略時陸軍中将、上海派遣軍総司令官)の戦争責任を告発し追求しているからである。

配給元は自粛 しているのか、それとも圧力がかかっているのか、市民団体が交渉に行ってもただただ門前払いだと言っていた。

 

映画では香川照之が朝香宮鳩彦王を演じているが、この人物が映画に登場した例はこれまではなかった。

朝香宮鳩彦王の戦犯追求の姿勢は何もこの映画が初めてではない。

1998 年に刊行された中国系アメリカ人作家、アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』で書かれていたし、そのチャンの書の情報源になったのはアメリカの歴 史家、ディヴィッド・バーガミニの『天皇の陰謀』である。一方の日本では南京事件を取り扱った書物の殆どが南京事件が発生した時点で、前線の指揮に当たっ ていた朝香宮鳩彦王の戦争責任については書いてはいない。

 

ところが、海外の歴史家による南京事件に関する書物に目を通すとかなりこの問題の記述が見られるのだ。

この問題は日本では「自粛」されていると考えられる。

しかも、このタブー自体の存在が日本では一般的に殆ど知られてはいない。

朝香宮殿下が指揮をしていた上海派遣軍の直属の師団が南京事件に深く関与している。指揮官は中島今朝吾陸軍少将であり、多くの記録を検討しても中島少将の戦 時国際法に抵触する戦争犯罪責任は逃れようもない。しかし、中島少将は終戦時までに死亡しており戦犯裁判に召喚されることはなかった。

 

投降した中国兵捕虜を全員、処刑にしてしまうという措置は朝香宮殿下の司令部より口頭で発令されたという説がある。

東京裁判で検察側証人になった田中隆吉少将の著作によると、当時、朝香宮司令部で情報参謀だった長勇少佐が捕虜の処遇を前線から問い合わされてと口頭で命令を伝達したというのだ。田中隆吉はこの話を長から直接聞いたとして、長の言葉を著書に次の様に書き残している。

 

「南 京攻略の時には自分は朝香宮の指揮する兵団の情報主任参謀であった。上海付近の戦闘で悪戦苦闘の末に漸く勝利を得て進撃に移り、鎮江付近に進出すると、杭 州湾に上陸した柳川兵団の神速な進出に依って、退路を絶たれた約三十万の中国兵が武器を捨てて我軍に投じた。この多数の捕虜を如何に取り扱うべきかは食糧 の関係で一番重大な問題となった。自分は事変当初通州に於いて行われた日本人虐殺に対する報復の時機が来たと喜んだ。直ちに何人にも無断で隷下の各部隊に 対し、これ等の捕虜をみな殺しにすべしとの命令を発した。自分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電話に依り伝達した。命令の原文は直ちに焼却した。 命令の結果、大量の虐殺が行われた。然し中には逃亡するものもあって、みな殺しという訳には行かなかった。自分は之に依って通州の残虐に報復し得たのみな らず、犠牲となった無辜の霊を慰め得たと信ずる。」

(田中隆吉『裁かれる歴史 敗戦秘話』、新風社、1948年、44頁-46頁)

 

長勇自身は1945年の終戦の年、牛島満中将と共に沖縄戦で自決している。

その為、この記述の真偽は歴史の闇の中に消えてしまっている。長は軍司令官の名を利用して命令を下達したとなっているが、これが朝香宮殿下を指しているのか、それとも全体を統括していた中支派遣軍司令官の松井石根大将を指していたのかどうかは明白ではない。

いずれにせよ、朝香宮殿下指揮下の師団で捕虜の大量虐殺が行われた可能性は高い。

しかし、命令が文書として残されていない限り、それを立証することは難しい。

田中隆吉証人は米軍の尋問調書の中で南京戦で最も悪名が高かったのは朝香宮師団であるとも証言している。

 

映画『ジョン・ラーベ』では朝香宮殿下が直接、捕虜虐殺を命じたということになっている。

 

以下、そのシーンのダイアローグである。

朝香宮殿下:香川照之 小瀬少佐:ARATA

 

朝香宮殿下「よくやったな、少佐」

小瀬少佐 「(お辞儀をする)」

朝香宮殿下「貴官は真に優秀な陸軍軍人になるだろう。しかし、私がはっきりと一人の捕虜を出すなと命じたのにもかかわらず、貴官は何千人と捕虜を連れ帰った、それだけが合点が行かないのだがな。」

小瀬少佐 「申し訳ありません」

将  校 「殿下・・・」

朝香宮殿下「(将校に)私は貴官に話せとは言っておらんぞ!それで、少佐、何か提案はあるのかね?」

小瀬少佐 「殿下、このような多くの捕虜の処刑は困難であります。」

朝香宮殿下「そうかね?」

小瀬少佐 「私の考えでありますがその実行は違法になるかと・・・」

朝香宮殿下「違法?この問題の解決については貴官に個人的な責任に任せる。明日の朝、生きた捕虜は見たくはないぞ、少佐。」

 

(以上はドイツ語版の吹き替えセリフを和訳したものである。よって国際版の日本語台詞とは多少の違いが見られるが、脚本はドイツ語であるため原版を重視するため敢えてドイツ語から和訳した。)

 

この台詞からも分かるように朝香宮殿下は正式な命令としては通達していないように表現されている。つまりは歴史的事実、命令書は残っていない事を踏まえての表現ではある。

脚 本と監督を担当したドイツの映画監督、フローリアン・ガレンベルガーはこの映画を構成するのに当たってアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』を参 考にしたと思われる部分が多々見受けられる。チャンの著書には田中隆吉の長勇が命じたことという証言が田中隆吉の著作から転載されて記載されている。捕虜を処刑せよという命令 は文書ではなく口頭で通達されたとするものである。しかし、チャンの著書では朝香宮殿下の命令であるという説を取るスタンスである。

この朝香宮鳩彦親王が虐殺を指 揮したとするのも、デヴィッド・バーガミニの『天皇の陰謀』と、それを参考にして書かれた『ザ・レイプ・オブ・南京』の言説そのままであるからだ。この二 つの書における朝香宮鳩彦親王の南京事件における役割は最初から南京を蹂躙する事を目途としていたとされている。

 

映画 『ジョン・ラーベ』もまた、この言説をそのままに映画に導入している。監督ガレンベルガーの意図はどこにあったのか不明だが、実際のジョン・ラーベの日記には朝香宮 鳩彦王に関する記載は一切見当たらない。史実では全く接点を持たないこの二人が映画では敵対関係で直接対決することになっている。

映画では朝香宮鳩彦王は完全な悪役であり、捕虜を処刑し、国際安全区の難民まで虐殺しようとする。

あたかもハリウッド映画の悪役の首領さながらの存在である。

 

こ れらは映画としてデフォルメが過ぎる感があるが、この元ネタは朝香宮鳩彦王が南京を蹂躙する事を目的としていたというアイリス・チャンとディヴィッド・ バーガミニの 言説が基本となっている。それらの言説も想像の域を出ないものであり、何ら証拠がある訳でもない。私はこの二人の著者が参考にした文献や資料をつぶさに検 討してみたが決定的と言える根拠は何も得ることはできなかったというのが実際である。だから、この映画における朝香宮殿下の行動が史実かといえば、そうで はない と現時点では答えるしかない。


すべては推理と想像の産物であるのだ。しかし、バーガミニの著書もチャンの著書も海外ではベストセラーとなっ た話題の書で、その為に朝香宮鳩彦王が南京事件の首謀者であるという印象は海外においては定着している感がある。映画はその状態をより補強したことに なったとも言える。


太平洋戦争に従軍した高松宮殿下は戦後の手記で、最前線へ派遣されても「宮様」として一室に軟禁状態にされ、実務には殆ど参加できな かったことが不満であったと記している。

天皇の兄弟である皇室の高松宮殿下と天皇の叔父である皇族の朝香宮殿下とでは多少の立場の違いはあったかもしれないが、同じようなものではなかったかと私は考えている。

 

南京大虐殺の一因とされている説に、陥落入場式で朝香宮殿下が参加するので、その際に敗残兵のテロがあって「宮様」にもしものことがあれば大変だと考えた参 謀たちが、敗残兵と疑わしき男性を片っ端から逮捕、処刑する措置をとったというものがある。これは日本の著作の中にも見られるし、ドイツにおける南京事件 研究の書物にも記載がある。

また、東京裁判で南京事件の責任を問われて死刑になった松井石根大将が刑が確定した後に教誨師に伝えたところに よると、当時、南京陥落後の軍の暴走行為で陸軍の名誉に傷をつけたと泣きながら怒ったが、参謀たちは彼を嘲って笑ったと語っている。その嘲った参謀とは朝 香宮殿下の上海派遣軍下の第16師団長の中島今朝吾少将ではないかと思われる。松井と中島はウマが合わなかったこともよく知られている事実である。

少なくとも中島今朝吾少将は南京で彼自身、試し斬りや略奪行為を行ったという記録や評伝が残されている位だから南京陥落後の暴虐には深く関与していたと考えられる。

 

映画『ジョン・ラーベ』では虐殺に中心事物として積極的に関与しているかの様に描かれている朝香宮殿下だが、残された資料だけではこれを是とは出来ない。

 

戦後、GHQの戦犯追求で南京事件関連の尋問を受けたが、追求が進むと「知らない」など曖昧な供述を繰り返している。

朝香宮鳩彦王の孫娘の手記によ ると、親王は太平洋戦争末期に息子を戦死で失い(これは大戦中最初の皇族戦死者であった)皇籍離脱後、民間人となったが騙されて商売に失敗するなど辛酸を 舐めたようである。人物としては出生の事情のために幼年期を親から引き離されて京都の岩倉に預けられ、皇族となった後、フランスで滞在し、そこで自動車事 故に巻き込まれ重傷を受けている。
軍事参事官時代に226事件に遭遇。この際、皇道派に対して賛意を示すスタンスではなかったと思わせる部分が有 り、このことからバーガミニは昭和天皇にとって反対側の意見を持っていたために南京攻略で忠誠を試されたのではないかと推理したのである。これがバーガミ ニやチャンの南京大虐殺が軍事的に事前に計画されたものだとされる論拠ともなっているのである。

孫娘の手記によると酒を飲むと言動が乱暴で激しくなる傾向があり、こうしたことは暗い幼年期に何か原因があるのかもしれない。

 

私の考察では朝香宮鳩彦王は前線においては映画『ジョン・ラーベ』の様な強権的で独裁的な指揮権を持っていたとは思えない。先に述べと通り、捕虜の処遇に困った前線 からの問い合わせに高級参謀の一少佐が独断で虐殺を命令できるくらいに師団レベルでのスタッフがやりたい放題であったことが伺えるからである。こうした点 を考えると朝香宮鳩彦親王は司令官として、中将として遇されていたかもしれないが、反面、スタッフからは無視されていた・・・言い換えれば軍を動かす実務からは員数外に 置かれていたのではないかと思えるからである。

 

かと言って、彼の戦争責任の有無についての問題がなくなるわけでもない。さ らにこの問題が日本国内では一切議論されないのはやはりオカシイことではある。この問題は一種の祟り神であるらしい。

 

南京事件研究者では最左派である笠原十九司教授でさえ、自身の著書では、この問題を殆ど取り上げてはいない様だ。その笠原氏もドイツZDF放送のテレビドキュメンタリー"John Rabe, Die Dokumentation" (2011年放映、日本未放映)でのインタビューでは朝香宮鳩彦王の戦争責任については命令書は残っていないが、ある程度それを認めざるを得ないという印 象の回答をしている。しかし、これでも日本では公開されない番組、海外のテレビ番組であるから答えられたことであるのかもしれないと私は思う。
日本でこの問題についてテレビで放送で取り上げるなどおよそ有り得ないことだろう。

 

朝香宮鳩彦王と南京事件の戦争責任問題はこの様に日本と海外では大きなズレが起こっている。

映画『ジョン・ラーベ』はその海外言説を大きく広く伝える媒体としての役割を果たした結果となった。

 

この問題が日本では永遠のタブーである限り、映画『ジョン・ラーベ』は日本人の誰ひとりとして観る機会には恵まれないだろうと私は思う。

 

そして、南京事件の一つの大きな問題が議論されずに闇の中で宙吊りになったままであることを残念に思うのである。


筆者:永田喜嗣