中村俊輔(なかむら しゅんすけ、1978年6月24日 - )は、日本のサッカー選手である。ポジションはミッドフィールダーで、与えられたポジションに関係なくピッチ上を自由奔放に彷徨うプレースタイルで(相手の)観客を魅了する。



来歴



学生時代

深園SCに入団、サッカーを始める。横浜市立深谷中学校(横浜市戸塚区)時代には日産(現・横浜F・マリノス)のジュニアユースのエースとして全国優勝を果たすもユースへ昇格が出来ず、ジュニアユース時代の先輩に誘われて桐光学園高等学校へ進学しサッカー部に所属、高校2年の全国高校サッカー選手権で頭角を現し、高校3年の全国高校サッカー選手権で準優勝を収めた。またアジアユースにも高校サッカー部からの唯一の選出選手として出場した。



Jリーグでの活躍

1997年、横浜マリノスに入団。同年のワールドユースに出場。1997年のJリーグ優秀新人賞を受賞する。1998年初頭にはA代表合宿に初参加する。1999年、Jリーグベストイレブンを初受賞する。

2000年、U-23代表の主力としてシドニーオリンピックに出場。同年、日本人選手最年少でJリーグ最優秀選手賞、日本年間最優秀選手賞を受賞。A代表にも初招集され、アジアカップでは優勝とベストイレブンを受賞、日本代表として定着していった。



セリエA・レッジーナ移籍

2002年5月、日韓W杯本大会メンバーへの招集が有力視されていたが、当時の日本代表監督であったトルシエは最終段階で中村をメンバーから外した。トルシエは落選の理由について、「ナカムラがいるとベンチが暗くなる」、「負けているときに誰を投入しようかとベンチをみた。その時中村だけが試合をみず髪の毛ばかりをいじっていた。」とコメントしている。スペインの強豪クラブであるレアル・マドリードからカンテラ(下部組織)からプレーさせるというオファーがあったが、ワールドカップへの出場が条件だったため立ち消えになった。7月にイタリアのセリエAのレッジーナに移籍し、レギュラーとしてキッカーを任されセリエA残留に貢献した。2003シーズンは出来うる限り代表戦に出場したが、所属チームでは同ポジションのコッツァにポジションを奪われ、リーグ戦出場は激減した。

3年目となった04-05シーズンは前年度スタメンだったコッツァが移籍したためほぼ先発出場し、クラブ創設以来の最高順位に貢献。このシーズンのレッジーナの胸スポンサーはイタリアで店舗を展開していないが、当時中村がイメージキャラクターを勤めていたファミリーマートであり、イメージキャラクターに恥じない活躍を見せた。



セルティック移籍

セリエAで3年間プレーした後、下位チームはJ2レベルとされ、スペイン2部で試合に出れない選手が移籍すると言われているスコティッシュ・プレミアリーグのセルティックへ移籍。リーグ優勝と国内カップ戦優勝の2冠を獲得した。

2006年6月、ドイツW杯に選出された。ジーコは中村を中心選手として重要視しており、グループリーグ全3試合にフル出場したが、2敗1分で敗退した。本人いわく、W杯直前に風邪をひいたほか、オーストラリア戦では足の爪が割れ、クロアチア戦直前には39度の発熱に見舞われるなど運がなかった。第1戦のオーストラリア戦ではクロスボールが偶然にも直接得点となり、自身のW杯での初得点となった。しかし、全般的に見てW杯でのパフォーマンスは低調に終わった。

セルティックでは移籍初年度の05-06シーズンからリーグ三連覇、自身も06-07シーズンはリーグMVPに選出されたが、それ以外のシーズンではベストイレブンに選出されることはなかった。



エスパニョール移籍





2009年6月22日、スペインのエスパニョールへの移籍が決定した。新たなチームの顔として非常に大きな期待を寄せられ、開幕後序盤は出場機会が多く与えられたが、ゴール0アシスト0と結果が残せず、プレー面のインパクトは残せなかった(本人曰くルイス・ガルシアからパスがこなかったこと、ゴールが小さいこと、ボールが濡れていたこと等が原因とのこと)がGoal.com選出のリーガ前半戦のワーストイレブン選出、リーガ09-10シーズンのワースト移籍ランキング1位、地元サポーターが選ぶハッタリ大将の三冠を獲得し存在感を示した。その人気から地元テレビ局制作のコントのネタになった。



マリノス復帰



年が明けて移籍1年目シーズンの中間移籍期間には早くもチームの移籍リストに載り、セルティック時代の恩師ゴードン・ストラカンが監督を務めるイングランド2部所属のミドルスブラFCよりレンタル移籍のオファーを受ける。しかし、2部への移籍となることなどから中村本人が移籍を拒否、エスパニョールに残留する事となった。しかし、2010年1月からのシーズン中盤以降は、新戦力獲得や若手の台頭などにより出場機会が激減し、2月26日、ついに古巣の横浜F・マリノスへの復帰を発表。約8年ぶりの国内復帰となった。

同年5月10日には2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会の代表メンバーに選出されたが、壮行試合韓国戦後に左足首の怪我を自己報告、その後岡田武史監督が守備的な戦術に転換したため5月30日に行われた親善試合のイングランド戦以降は右サイドハーフのポジションを松井大輔に奪われた。本大会のグループリーグ3試合および決勝トーナメント1試合ではスタメン出場を果たせず、グループリーグ第2戦のオランダ戦では1点ビハインドの場面で後半から中盤の右サイドで途中出場したが、センターサークル付近でのタックルによりボールを奪われ二度のカウンターの起点となりゴールキーパーとの1対1の決定機をつくられるなど、全く結果を残すことができなかった。帰国後に代表引退との報道があると問われ、「うん、そうだよ」と答えて日本代表からの実質的な引退を発表した。
今大会はオランダ戦での26分間の出場にとどまったものの、読売新聞選定のガッカリイレブンに日本から唯一選ばれた。

2011年よりマリノスのキャプテンに就任した。

3月には東日本大震災復興支援チャリティーマッチに出場。体調が悪い中サイドチェンジや三浦知良の得点の起点となるバックパスを繰り出す等観客を湧かせた。

6月7日のキリンカップ日本VSチェコ戦で売り子デビューを果たした。



プレースタイル





プレースキックの名手とされており、特に直接フリーキックを得意としている。日本代表では、コーナーキックからのアシストは、2006年2月28日に行われたボスニア・ヘルツェゴビナ戦、フリーキックからのアシストは、2007年9月11日に行われたスイス戦、流れからのアシストは2008年11月19日カタール戦のショートコーナー、それ以来南アフリカワールドカップ終了までと長期間アシストを記録していない。


バックパスの名手としても知られ、敵味方含めて誰もが予想しないタイミングと抜群の精度でデンジャラスなバックパスを通す。 そのイマジネーションの豊富さ、意外性はリーガ・エスパニョーラにおいても高く評価されている。

キックの精度の良さの反面、対人での守備や突破力、積極性、運動量やフィジカル面に課題を残す。 特にスペインにおいては突破力の無さに加え、消極的なプレーが非難されている。

なお、ドイツW杯においては不運な発熱に悩まされながらもチームの中心として活躍。 南アフリカW杯直前には現代医学において不治の病とされる筋肉疲労に襲われ、選手生命の危機と噂されるものの 強靭な精神力と周囲のサポートに助けられ、本大会代表内定第一号となる。また本人曰く「試合に出なくても選手としての幅は広がる」とのことで、この発言通りエスパニョール時代や南アフリカW杯ではベンチにいながらもチームの勝利に貢献した世界的にも稀な選手である。



人物



足の痛みについて言及することが多く、試合にはしばしば強行出場という形をとる。中村は自身が怪我に強いと考えており、怪我を抱えながらも他の選手にポジションを与えたくないため、試合には出続けていたが、同じく怪我を抱えながらプレーをしていた大久保嘉人に対しては怪我のまま試合に出ていたことについて叱っている。大久保を叱った数日後の親善試合セルビア戦前には中村は痛くてスパイクが履けない状況にも関わらず、試合に出場している。

右足に違和感があるということで、MRI検査をしたところ、座骨神経痛が判明したが、坐骨神経痛は症状でありMRIで判明するものではなく中村俊輔本人の自己申告によってわかるものである。しかし、直後の超音波検査では、坐骨神経痛は確認されなかった。

2006年ドイツW杯時の風邪の訴えでは、夜になると熱が出るということでチームドクターも原因がわからず、ドイツの大きな病院で精密検査をしようということになったが、朝になると熱が下がったと自己申告するため、病院に行くことは無かった。2010年W杯メンバー選考前である、5月3日には足は痛くないと話し、5月5日にはほぼ完治している状態であったが、前半で退いた壮行試合韓国戦後には怪我をしていたと自己報告し、Jリーグでは誤魔化せていたと考えており、故障を隠した上での代表試合参加を示唆。しかし、長期間怪我をしていたのに強化試合イングランド戦直前の練習時には痛みが無くなっており、本人曰く奇跡とのことだが、自身のコンディションについて大げさに話している節がある。

ドイツW杯の風邪や、怪我の中でもJリーグの試合に出続け壮行試合韓国戦での怪我の事後報告など、自己管理に難がある。その反面靭帯断裂、足の骨折・脱臼(セルティックにおいて左手骨折に見舞われたことはある)といった大けがの経験は無く、長期離脱の回数は少ない。

W杯では、他の選手がチームのベスト4を目標にしていた一方、歴代日本人W杯最多得点を狙っており、FKで1点、遠藤保仁にPKを譲ってもらい1点、そして2006年の1点と合わせて、合計3点で稲本の2点越えを記録しようとしていた。しかし、唯一出場したオランダ戦の26分ではFKもPKも蹴ることがなく、デンマーク戦ではPKを譲ってもらおうと考えていた遠藤がFKから直接ゴールを決めるのをベンチから見ることとなった。

自身は記録を狙おうとするが、他人の記録については「誰が決めたとかは意味がない」と考えている。そのため長く代表で主力でいたにも関わらず主将を務めたことは一度もない。

2008年あたりから、グリコーゲンが付かないようにして、脂肪を燃焼させるメニューを組んでいる。しかし、グリコーゲンとは食事の摂取などで補給されるものであり、運動で消費されることはあっても付くことは無い。

試合途中で監督からの指示なくアップを始めるも、アップを止めてベンチに戻るように監督から指示されたことがある。しかし、熱心なファンは中村の一挙手一投足に注目しており、出場機会がなくとも、前半終了後のアップや試合終了後のダッシュなどはTVで放送されたり、新聞で報道されるほどのニーズがある。

W杯での勝利に縁がなく、出場した試合では1分3敗と日本代表が勝利を挙げたことはない。(一方不出場試合では日韓W杯以降4勝1分2敗)