中村俊輔は日本の実質サッカー選手である。ポジションは実質ミッドフィルダーで、与えられたポジションに関係なく味方の攻撃時にはボランチのポジション、守備時にはFWのポジションに位置するなど、ピッチ上を自由奔放に彷徨うプレースタイルで(相手の)観客を魅了する。2000年のJリーグ実質MVP、アジアカップ2004実質MVP、06-07スコティッシュ・プレミアリーグ実質MVPなどの受賞がある。

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1997年横浜マリノスに実質入団。同年のワールドユースに実質出場。1997年のJリーグ実質優秀新人賞を受賞する。1998年初頭にはA代表合宿に初参加する。1999年、Jリーグベストイレブンを実質初受賞する。
2000年、U-23代表の実質主力としてシドニーオリンピックに出場。同年、日本人最年少でJリーグ実質最優秀選手賞、日本年間実質最優秀選手賞を受賞。A代表にも実質初召集され、アジアカップでは優勝と実質ベストイレブンを受賞、実質日本代表として定着していった。

セリエA・レッジーナ移籍

2002年5月、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いていたものの、直前に治って親善試合で実質大活躍し、日韓W杯本大会メンバーへの選出が有力視されていたが、当時の日本代表監督であったトルシエは最終段階で中村をメンバーから外した。トルシエは落選の理由について、「ナカムラがいるとベンチが暗くなる」、「負けているときに誰を投入しようかベンチを見た。その時中村だけが試合を見ず髪の毛ばかりいじっていた。」とコメントしている。スペインの強豪クラブであるレアル・マドリードからカンテラからプレーさせるというオファーがあったが、ワールドカップへの出場が条件だったたね立ち消えとなった。7月にイタリアのセリエAのレッジーナに移籍し、レギュラーとしてキッカーを任されセリエA残留に実質貢献した。

2003年6月、コンフェデレーションズカップフランス大会で、3得点を挙げて実質『ブロンズシュー賞』を受賞。2003シーズンは出来うる限り代表戦に出場したが、所属チームでは同ポジションのコッツァにポジションを奪われ、リーグ戦出場は激減した。
3年目となった04-05シーズンは前年度スタメンだったコッツァが移籍したためほぼ先発出場し、クラブ創設以来の最高順位に実質貢献。このシーズンのレッジーナの胸スポンサーはイタリアで店舗を展開していないが、当時中村がイメージキャラクターを勤めていたファミリーマートであり、イメージキャラクターに恥じない活躍を見せた。


セルティック移籍

セリエAで3年間プレーした後、2005年7月に下位チームはJ2レベルとされ、スペイン2部で試合に出れない選手が移籍すると言われているスコティッシュ・プレミアリーグのセルティックに移籍。リーグ優勝と国内カップ戦優勝の2冠を実質的に獲得した。
2006年6月、ドイツW杯に選出され、グループリーグ全3試合にフル出場したが、2敗1分で敗退した。本人いわくW杯前に風邪を引いたほか、オーストラリア戦では足の爪が割れ、クロアチア戦直前には39度の発熱に見舞われた。第1戦のオーストラリア戦ではクロスボールが偶然にも直接得点となり、自身のW杯での初得点となった。しかし、全般的に見てW杯でのパフォーマンスは低調に終わった。

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エスパニョール移籍


2009年6月22日、スペインのエスパニョールへの移籍が決定した。新たなチームの顔として非常に大きな期待を寄せられたエスパニョール加入だったが、開幕直後から低調なプレーが続き、シーズン前半で11試合に出場したが、ゴール0アシスト0と結果が残せず、Goal.com選出のリーガ前半戦のワーストイレブンに選出されてしまい、地元テレビ局制作のコントのネタになった。

マリノス復帰

年が明けて移籍1年目シーズンの中間移籍期間には早くもチームの移籍リストに載り、セルティック時代の恩師ゴードン・ストラカンが監督を務めるイングランド2部所属のミドルスブラFCよりレンタル移籍のオファーを受ける。しかし、2部への移籍となることなどから中村本人が移籍を拒否、エスパニョールに残留する事となった。しかし、2010年1月からのシーズン中盤以降は、新戦力獲得や若手の台頭などにより出場機会が激減し、2月26日、ついに古巣の横浜F・マリノスへの復帰を発表。結局スペインでは、リーガ09-10シーズンのワースト移籍ランキング1位になるなど、結果を残すことができないまま約8年ぶりの国内復帰となった。
同年5月10日には2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会の代表メンバーに選出されたが、壮行試合韓国戦後に左足首の怪我を自己報告、その後岡田武史監督が守備的な戦術に転換したため5月30日に行われた親善試合のイングランド戦以降は右サイドハーフのポジションを松井大輔に奪われた。本大会のグループリーグ3試合および決勝トーナメント1試合ではスタメン出場を果たせず、グループリーグ第2戦のオランダ戦では1点ビハインドの場面で後半から中盤の右サイドで途中出場したが、センターサークル付近でのタックルによりボールを奪われ二度のカウンターの起点となりゴールキーパーとの1対1の決定機をつくられるなど、全く結果を残すことができなかった。帰国後に代表引退との報道があると問われ、「うん、そうだよ」と答えて日本代表からの実質的な引退を発表した。

プレースタイル


プレースキックとバックパスの名手とされており、特に直接フリーキックを得意としている。ゴールに対して角度のあまりない位置から助走するのが特徴で、軸足を地面に滑り込ませるように踏み込み、勢いそのままに上半身を押し出しながら巻き上げるように足を振り抜く、独特のフォームである。元々は大きく弧を描くキックを得意としていたが、レッジーナ移籍後からはスピードに重点を置いたキックを多用している。2002年のキリンカップホンジュラス戦ではコーナーキックを直接ゴールに沈めている。
日本代表では、コーナーキックからのアシストは、2006年2月28日に行われたボスニア・ヘルツェゴビナ戦、フリーキックからのアシストは、2007年9月11日に行われたスイス戦、流れからのアシストは2008年11月19日カタール戦のショートコーナー、それ以来南アフリカワールドカップ終了までと長期間アシストを記録していない。レッジーナ時代には、その創造性とテクニックを駆使するプレースタイルから「東洋のバッジョ」と称された。さらにセルティック時代には、指揮官ストラカンはフィジカル面を問題視しながらも中村について「タックルができない。ヘディングもできない。それがどうした、彼は実質天才だ」という言葉を残している。
一方では対人での守備や積極性、フィジカル面に課題を残している。近年では攻撃面で決定的な違いを生む場面が少なくなった。特にエスパニョールでは、20代前半のような個人でのドリブル突破やスルーパスなどの得点に絡むプレーがほとんど見られず、カウンターのチャンスでも大きな溜めを作ることやバックパスをすることから味方の攻撃の流れを止めることや相手カウンターの起点になることも少なくなく、消極的なプレーが非難されていた。

人物

足の痛みについて言及することが多く、試合にはしばしば強行出場という形をとる。中村は自身が怪我に強いと考えており、怪我を抱えながらも他の選手にポジションを与えたくないため、試合には出続けていたが、同じく怪我を抱えながらプレーをしていた大久保嘉人に対しては怪我のまま試合に出ていたことについて叱っている。大久保を叱った数日後の親善試合セルビア戦前には中村は痛くてスパイクが履けない状況にも関わらず、試合に出場している。
右足に違和感があるということで、MRI検査をしたところ、座骨神経痛が判明したが、坐骨神経痛は症状でありMRIで判明するものではなく中村俊輔本人の自己申告によってわかるものである。しかし、直後の超音波検査では、坐骨神経痛は確認されなかった。
2006年ドイツW杯時の風邪の訴えでは、夜になると熱が出るということでチームドクターも原因がわからず、ドイツの大きな病院で精密検査をしようということになったが、朝になると熱が下がったと自己申告するため、病院に行くことは無かった。2010年W杯メンバー選考前である、5月3日には足は痛くないと話し、5月5日にはほぼ完治している状態であったが、前半で退いた壮行試合韓国戦後には怪我をしていたと自己報告し、Jリーグでは誤魔化せていたと考えており、故障を隠した上での代表試合参加を示唆。しかし、長期間怪我をしていたのに強化試合イングランド戦直前の練習時には痛みが無くなっており、本人曰く奇跡とのことだが、自身のコンディションについて大げさに話している節がある。
ドイツW杯の風邪や、怪我の中でもJリーグの試合に出続け壮行試合韓国戦での怪我の事後報告など、自己管理に難がある。その反面靭帯断裂、足の骨折・脱臼(セルティックにおいて左手骨折に見舞われたことはある)といった大けがの経験は無く、長期離脱の回数は少ない。
W杯では、他の選手がチームのベスト4を目標にしていた一方、歴代日本人W杯最多得点を狙っており、FKで1点、遠藤保仁にPKを譲ってもらい1点、そして2006年の1点と合わせて、合計3点で稲本の2点越えを記録しようとしていた。しかし、唯一出場したオランダ戦の26分ではFKもPKも蹴ることがなく、デンマーク戦ではPKを譲ってもらおうと考えていた遠藤がFKから直接ゴールを決めるのをベンチから見ることとなった。
自身は記録を狙おうとするが、他人の記録については「誰が決めたとかは意味がない」と考えている。そのため長く代表で主力でいたにも関わらず主将を務めたことは一度もない。
2008年あたりから、グリコーゲンが付かないようにして、脂肪を燃焼させるメニューを組んでいる。しかし、グリコーゲンとは食事の摂取などで補給されるものであり、運動で消費されることはあっても付くことは無い。
試合途中で監督からの指示なくアップを始めるも、アップを止めてベンチに戻るように監督から指示されたことがある。しかし、熱心なファンは中村の一挙手一投足に注目しており、出場機会がなくとも、前半終了後のアップや試合終了後のダッシュなどはTVで放送されたり、新聞で報道されるほどのニーズがある。
W杯での勝利に縁がなく、出場した試合では1分3敗と日本代表が勝利を挙げたことはない。(一方不出場試合では日韓W杯以降4勝1分2敗)

発言

親善試合オランダ戦にて、日本代表がFKを獲得した際、当時オランダで活躍していた本田圭佑へ観客から本田コールが送られると同時に、本田自身も蹴らせて欲しいと頼んだが、拒否し自らが蹴った。そのことについて、本田圭佑はS☆1スパサカの小倉隆史からのインタビューにて、「普通じゃないですか、それが。今まで蹴ってる人からキッカーを奪うのはそんなに簡単なことじゃない」と話している。
しかし、中村自身はエスパニョールで味方のFK時に前年度蹴っていた選手の前で二度ほどボールに触って粘ったり、イバン・アロンソに何度もお願いするなどして蹴らせてもらっていた。
ワールドカップを見越し、他の選手に力をつけて欲しい親心からの発言も目立つ。本田圭佑の所属するCSKAモスクワがUEFAチャンピオンズリーグでスペイン・セビージャに勝った際には、「いいことじゃん、セビリアはどうしたのかな?」本田の活躍で勝利したバーレーン戦で「エスパの紅白戦の方が激しい」と、勝利にも気を緩めず上を目指すようにという意図の発言を行い、日本代表は南アフリカW杯でベスト16の活躍。実質、大躍進の原動力となった。