私の母と、一泊二日の18切符の旅を終え、
(旅の内容は、また改めて書きたいと思います。)

母と、乗り換えを繰り返し、やっと最後の滋賀方面行き電車に乗っていた、その時。


義父の容態悪い。お公家にも連絡頼む。
とLINEが入りました。


義妹も、職場から駆けつけ。



私も、自分の母を一人帰らせて、途中下車しました。
(18切符1枚で、二人一緒に使った場合は、母も連れ立って、一旦改札を出なくてはなりませんが、
今回、母は自分で18切符を購入していたので、
今回の旅は、一人一枚ずつ持っていました。)


父は
こんな機械の数値で言うところの…



心拍数が、200近くいったかと思うと、40代になったりと、上下激しく数値が変わり。
手を激しく震わせている。


義母は、辛い姿勢で、
ずっと義父の手を握っている。


義父は、意識朦朧な中、
酸素ポンベや、点滴などの、管を外そうとする。
パジャマのボタンを外し、体に貼り付けられた、いろんな管を外そうとする。
私たちが、握りしめている手を、振り解こうとしたり、
逆に、強く強く握りしめ、
こちらの手が痛くなるほど。


これを一晩中やっていては、母の身がもたない。


この状態が、この先、何日続くかわからない。


誰も帰ろうとしない。
でも…



夜中近くになって
私は言った。


お母さん。
私が泊ります。
病院に泊まりますから、お母さんは、帰って横になってください。


母も限界だったのだろう。
あっさりと
「ではぷーぶちゃん、お願いね。」と言って
タクシーで帰って行った。


義妹も一緒に泊まった。


私は、ほぼ一晩中
義父の手を握ったり、、さすったり。
目を離した隙に、すぐに、管を外そうとするから、ウトウトもできない。
義妹と交互に見守るけど……


義父がパジャマのボタンを、無意識に片手で、とても難儀しながら、
やっと外したボタンを、
私が、また止める。
延々とこれの繰り返し。


果たして、私のやってる事は、これで良いの?


もう、義父のやりたいように、やらせてあげれば良くない?
義父は、ボタンを外したい。
管を外したい。
全てから、解放されたいんじゃないだろうか。


こんな時は、時間が長くて、つらい。
いつまでも、夜が明けない。


義父にとって、
義母にとって、
どうするのが一番良い事なのか、
わからないまま
夜が明けた。


朝になり
ようやく父の容態が、落ち着き
眠りについたようだった。
そして
母もやってきた。


医者は、
「この先、何日もつのか、すぐなのか
何とも言えません。
ただ。
最善の治療を施したとしても、普通の生活には、戻れない。
ならば、今
一番大事なのは、お母さんや、娘さんたちです。
あなたたちは、もつと生きなくてはならない。
今倒れてはいけないのは、あなたたちです。」


その通りだった。



もう信頼のできるお医者様と、この病院に任せよう。
「夜は、お母さん、ちゃんと帰って体休めてね。」


母は
「そうね。
遠方から、来てくれて
ほんとに助かった。
転院も、あなたがいなかったら、とても大変だった。

昨夜は
せっかく草津のお母さんと過ごす最後の夜を、
病室で過ごさせてしまってすまないね。
でも、夜通し、お父さんの手を握って、さすってくれて、ありがとう。
ほんとに
あなたがいてくれて、嬉しい。
ぷーぶちゃん、、ありがとう。

もうお昼だし、寝てないし、
新幹線で帰りなさい。」
と言って
新幹線代を渡してくれました。


日、月と18切符の旅をし、
そのまま病院で一晩過ごし
私も、、正直
18切符で鈍行で帰る自身がなかった。
翌日から、早速仕事もガンガン入れてるし…



おじいちゃん、また4月に来るねー。



昼の、新幹線に乗って、横浜に帰りました。




と、ここまで書いて
保存していた。
昨日、仕事あがりに、
blogアップしようかな、と
見直してるときに。



お義父さん


亡くなった



と連絡入りました。


昨日夕方、義母に手を握られ
亡くなったそうです。



今日も仕事休む事はできず、
こんな時間に、新幹線でお公家と共に
京都に向かってます。
息子も、品川から、向かっているようです。



長々と
書いてしまいました。


名古屋過ぎたわ……



この時間の新幹線
見事に、窓際と、通路側は埋まっていて
真ん中しか空いてなかった。
おかげで
お公家と
離れたお席でーすてへぺろ