再度投稿!日中戦争・戦記・ある兵士の『思い出』特集③ | 真実の空模様

真実の空模様

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得意げ遂に作成開始の時が来た。展開は如何に?


(つづき)

午後6時30分、連隊長のY大佐は副官のW大尉と時間を確かめると軍旗に敬礼をして黙って前進を始めた。

遂に作戦開始の時がきたのだ。


副官の前進という号令で軍旗を捧持した旗手のA少尉の指揮する軍旗小隊、通信隊など本部直轄部隊が粛々と進む。信号弾も揚がらず銃砲声もない。静かな大作戦の序曲である。

しかし、この時刻、この作戦に参加する前線の全部隊は無言のまま攻撃前進を開始したわけである。それはまるで木枯らしに吹きまくられた木の葉の様に次々と砂塵の中に姿を没し去ってゆく。20㍍先は見えないくらいの厚い砂塵のヴェールの中へ次々と消えていった。

私はただ16㍉撮影機をまわし続けた。こうした中で約1時間ぐらいは何事もなく各隊は山の急斜面をただひた押しに登って行く。

連隊長も副官も徒歩だ。

通り雨のような風塵が徐々に治まった。代わりに霧雨と夜のとばりが降りようとしている。

すぐ頭の上でダーンと一発手榴弾の炸裂音がした。
それが合図のように猛烈に撃って来た。敵は意外と近い。今、尖兵が敵の第一線と接触したのだ。
敵のチェコ製機関銃の弾は実によく出る。水冷式重機関銃もかなり持っているようだ。

『パッチポン』

こんな音がする。そんな時は、敵弾は身近にきている証しだ。あらゆる敵の全火器から撃ち出す様は手榴弾の炸裂音も交えて、さながら仕掛け花火のようである。
山の急斜面にピッタリとへばり付いた我々は身動きも出来ない。この分だと第一線はかなりの犠牲が予想される。
この時、強風、砂塵のため射撃ができず、後方で待機していた師団砲兵陣地からの砲撃が開始された。
約15分で援護射撃が終わり最終弾の白煙が見えた。白煙は敵陣地の真下で二個三個、左右に見るみるうちに稜線付近は霞がたなびくように敵陣を包んだ。
煙幕を利用して陣地を突破するのだ。激しい銃爆音、やがて音は断片的になり、間もなく止んだ。第一線突破の信号弾が揚がった。連隊本部も稜線に達し、敵陣地を見た。

さすがに蒋介石直属の中央軍だけあって20㍍間隔に機関銃座を造り、それを巧に交通壕で結んだ見事な野戦陣地である。


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付近にはネズミ色の軍服を着た敵兵の亡きがらが点々としていた。つい先程まで機関銃を操作していたのか?よくまあこの陣地が奪われたものだと思った。

稜線を突破した部隊は、今度はなだらかな下り坂を急追撃に移った。
道の分岐点には白い小麦粉で進行方向を示しており丸印は地雷を意味する。
各隊は入り乱れて猛スピードの追撃である。
夜が明けるまで遮二無二歩いた。この間、銃声はなくどのくらい歩いたかと思いながら、夜が明けて来て前後の兵隊の顔が分かるようになった。私は連隊本部のはるか前方の大隊本部付近に混ざって進んでいるらしい。小休止もなければ朝食の命令もない。各隊の兵隊は歩きながら雑嚢(ざつのう)から乾パンを出しかじりながら、さながら雪崩のように押して行く。

前方に敵の検問所らしき小屋が見えてきた。
敵兵らしき七体が横たわっていた。銃傷はなく斬突された様子。中挺身隊の尖兵が昨夜に不意急襲にて倒したのだ。見事なものだ。

今日は曇り空、朝8時前、昨夜から歩き続け、疲れはないが空腹を感じた。飯盒の飯を食べれば肩の荷も軽くなる。本部が追いつくまで飯を食いながら待とう、そんなことを考えながら大きな岩陰に行軍の列をよけ背嚢(はいのう)を下ろして左右の茂みを見回した。

『もしあの中に残存兵がいて狙われていたら俺はイチコロだ』

そんなことを考えると、どうも地形がよくない。荷物を両手で抱えて安全な地形を探して約50㍍引き返し格好の場所を見つけて腰を下ろした。歩兵隊の兵隊が連隊砲を分解して馬に積載し、馬をいたわりながら下ってゆく。
飯盒の飯を二口頬張った時である。

『バッチポン』と銃声音が響き、倒れ込んた。


(つづく)


記:真正大和撫子

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お待たせです

(つづき)

『パッチパン』
その場に倒れた。

頭からたらりと流れる一筋の汗を拭く間もなく振り返った。
先程、腰を下ろしていた付近にいた兵士が倒れている。潜伏していた残存兵に撃たれ、腹部貫通、即死だった。即座に周りの兵士が応戦、突入し鎮圧した。

運命とはこういうものか。私が先程までいたところで日本兵士が狙撃され、また、残存兵士も見過ごせば生きておれただろうに、と。16㍉撮影機を回しながら思っていた。

連隊本部と合流して3時間ほど進んだ。前方に民家らしい集落が見える。

『如何がしたのか』
『集落の中の白壁の家がある、その家から撃ってきており前進できない』

私は撮影機を構えて前進した。
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情報係のK軍曹が説明してくれた。ここは、五竜廊という所で敵の前線司令部があったはずだと、。

もう少し近づくと部落の入口に広場が見える。広場の隅に大木があって、その根元に三~四十名位の部落の女性、子供達が避難していた。よく見ると、老婆が二十歳位の女性が抱かれていて、下顎をだらりと垂らして口から血が出ている。抱いているのは母親だろうか。他方、失神しそうになる女性を強く揺り動かして意識を呼び戻そうとしている。それも周りの日本兵を恐れているのか声もだせずにいる。

建物の近くには数名の敵兵が倒れている。

哀れなことだ。戦闘に住民が巻き込まれるとは。
広場の奥に石積の壁がありさらにその先に平地がある。また民家が5棟ほど立っていた。その建物の右端に白壁の家がある。この白壁の家に銃眼がありここから撃ってきたのだ。敵兵は三~四十人くらいだろうか。地形が谷間であり後続部隊を前進されるためにはここを潰さなければならない。遠巻きに支那語のできる兵隊や通訳が盛んに投降を呼びかけるが、その都度声の方向に敵弾が集中する。
軽機関銃を使うがびくともしない。
その時、家の間から背の低い支那兵が桶のようなものを両手で捧げるようにして出てきた。一瞬、友軍の射撃は止んだ。小さな支那兵は辺りを見回し棒を飲んだように立ちすくみ、桶を落として泣き出した。

『子供だ、撃つな』

誰かがそう叫んだ。
また白壁の家から撃ってきた。友軍はその銃眼に弾を打ち込む。

『小輩来々』
(子供来い来い)
『不要慎』
(心配しなくてよい)

と通訳の声がひびく。
兵隊、通訳が一緒になって少年兵を助けようと大きな声で叫び続けた。
すると、少年の後ろから同じ背格好の子供が二人出てきた。正規軍の服を着ているが間違いなく子供だ。
敵は彼等を日本軍が呼んでることを知ると何か大声でわめきながら、今度は子供達に向かって撃ち出した。日本軍は子供達を援護するかのように射撃した。彼我の距離は50㍍しかない。歩兵砲が用意された。しかし、連隊長副官から別命あるまで砲射撃は待てというのだ。子供達を救う腹らしい。大木の元にいた部落住民も砲撃に備えて避難させられていた。

『今度、日本兵が射撃したらこちらへ向かって走れ、心配はいらない、お前達を助けるのだ』

通訳が懸命に話し掛ける。少年達は支那兵から撃たれたこともあって、ためらいも束の間、一人が走り出すと残りの二人も走って、日本軍の中に飛び込んだ。
三人を収容すると砲撃が開始された。

至近距離の零距離射撃である。

流石に家は吹き飛び敵兵は制圧された。


この間、約40分くらいだったろうか、友軍は再び行軍を始めた。

少年兵を含む捕虜35名を連れて、、。


(つづく)


記:真正大和撫子