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2016-10-23 00:34:10

母の闘病を振り返る③

テーマ:母の闘病記録
8月5日の夜。

母の手料理を食べ、
毎年恒例のタカノのケーキで長女の誕生日をみんなで祝った。
たまに息苦しそうに咳をする母の姿に
みんな凍りついたりもした。


8月6日から母は近くの市民病院に入院した。

まずは胸に溜まった胸水を
ドレーンという機会で抜く治療。

胸水とは→胸膜腔内に存在する液体。正常人でも少量(約10ml)存在し,肺の呼吸運動の際の壁側胸膜と臓側胸膜との間の潤滑油の役割を果たしていると考えられている。

母の左肺には胸水が3分の2も溜まっていて
肺は殆ど機能してない状況だったのです。
いきなり大量の水を抜くと肺が圧迫されて危険だから少しずつ抜いていくんだけど、
胸水は通常黄色っぽい液体らしいんだけど
ドレーンに溜まった母の胸水は血が混ざり
見るからにやばかった。


入院したくらいから母は食欲はなくなり
日に日に弱っていった。
何より怖かったんだと思う。
癌と分かってから
「お母さんは大丈夫だから、大丈夫。」って
呪文のように言ってたけど、実際は怖くて怖くてたまらなかったと思う。
癌で死ぬかもしれない恐怖。
痛み、悲しみ、怒り、虚無感。
それがどんどん母を支配していき、
どんどん衰弱していった。
「家に帰りたい。早く家に帰りたい」って
何回も何回も言っていた。

お盆明けに私と妹は主治医に呼ばれた。

内容は
想像通り余命宣告と治療方針。

母の余命は何もしなければあと3ヶ月。
抗がん剤治療して4ヶ月〜半年。
ただし、元々肝臓が悪い母は
ここにきてどんどん肝機能も低下してるために
抗がん剤治療しても肝機能障害か、脳症で亡くなる可能性のほうが高いと言われる。

決断が迫られた。

母の余命は想像してたより遥かに短く
末期の末期だったのだ。

やっと穏やかな生活をおくり、
大好きな孫の成長を誰よりも喜び、
「あゆなぎが成人するまでばばは絶対に死なないからね!」と言っていたのに
余命があと3ヶ月って。

愕然とするってこーゆー事なんだね。


抗がん剤も肝機能が悪いから副作用も通常より強くでる可能性あって、尚且つ抗がん剤に肝臓が耐えられない可能性が高い。

なんて言われて
「では、抗がん剤治療宜しくお願いします。」とは言えなかったよ。

私も妹も顔を見合わせて同じ事言いました。

「お母さん、家に連れて帰ろう?」って。

残り3ヶ月の命かもだけど
大好きな家で、大好きな人に囲まれて
自由に気ままに好き勝手にさせてあげよ?って。


母には最後まで余命の事は伏せました。
凄く迷ったけど
きっと余命を伝えたら生きる気力でさえも
奪ってしまうと分かったから。

先生から肝臓の数値が悪いから
一旦退院して、肝臓の数値が改善したら抗がん剤治療にうつるからねって説明してもらいました。


8月下旬に退院。

胸水も抜き、胸膜癒着術もうまいこといって
以前のように肺に大量に胸水ぐ溜まることはなくなりました。
食欲のなかった母ですが、
処方されたステロイドの薬が凄く効いて
退院してから2週間ほどは本当に元気で
よく喋り、明るく、
食欲も旺盛になり、
以前の母に戻ったような感じ。

私は退院してから2週間ほど、
ほぼ毎日作り置きの食事を届けました。
母が「美味しい美味しい!お姉ちゃん、ありがとう!」って食べてくれてる事が
その時期は何よりもの救いでした。

ステロイドハネムーンという言葉通り、
(健康を回復したと思われるほど苦しみが緩和されることがあるが
ある時から効き目がきれて、急速に最期が来る。
それをステロイドハネムーンと呼ぶ)

母の病状は刻々と下降線を辿っていたんです。

退院してから2週間ちょっと経った日の朝に
「母が嘔吐して止まらないから病院に行ってくる」と妹からLINEがきました。

昨日まで元気で食欲もあったのに?
食べ過ぎた?くらい思ってたんだけど
病院について診察の結果、
緊急の検査入院になってしまいました。

母はうろたえ、「家に帰りたい?入院したくない!」と駄々をこねたそうですが
結局入院。

この入院から母は変わってしまった。

人格、顔つき、全く変わってしまった。



入院した夜、
病院内を徘徊し、エレベーター前でエレベーターをガンガン叩き、「家にかえせ!」と大声で叫び続けたそう。
次の日私が見舞いにいくと
全く知らない人みたいな人相になった母がいた。
目は虚ろで表情ななく、
あんなに大好きだった孫の顔を見るなり
鬼のような形相で睨みつけた。
「早く家に連れて帰ってよ!」と
大声で怒鳴り散らす。



先生によると病気や入院に対する強い恐怖感から
一時的にせん妄が出ている可能性があると言ってました。 

せん妄とは→意識障害が起こり、頭が混乱した状態になっている事をいいます。何らかの原因で脳の機能が低下し、上手く神経を伝える事が出来なくなっています。幻覚を見る事もありますし、言葉をかけても落ち着く事が出来ず、興奮状態となって大声を出したり、暴力が見られる場合もあり、対応が難しく家族の負担になりやすいものです。また、夜になるとせん妄が出る「夜間せん妄」というものもあります。



何がおこってしまったのか?
どうしてこんな変わってしまったのか?
もうショックショックで仕方なかった。 


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2016-10-22 23:37:16

母の闘病を振り返る②

テーマ:母の闘病記録
今のご時世、
いいのか悪いのか調べればなんでも出てくる。
肺腺癌 ステージ4 余命
調べれば調べるほど
悲しく虚しくどうしようもない感情が溢れた。

母の入院は8月6日

8月5日は長女の誕生日なので
実家でお祝いしようという事になり
昼から実家に向かう。

いつものように
「来たの〜」と笑顔で出迎えてくれる母。
しかし、日に日に瘦せこけ
日に日に癌に侵されているのが目に見えて分かる。

母は私と妹の父とは
妹が小さい頃に離婚していて
私が小学4年生くらいまで女手一つで育ててくれていた。
そのため、私が妹の面倒をみるのが当たり前の日々だった。
朝から夕方まで働いて、週に2.3回は夜も働きに出ていた。
私はいつも母の帰りを待っていた。
どうかお母さんが無事に帰ってきますように。
どうかお母さんがいなくなりませんように。
そんな事ばかり考えていた幼少期だった。

小学4年生くらいに
母はいきなり再婚した。

再婚してからは母は常に家に居てくれるようになって、私はお父さんができた喜びより
母がいつも家にいてくれる喜びのほうが何十倍もあった。

再婚したお父さんも私が小学生時代には
よく遊びに連れていってくれたし、私や妹を可愛がってくれた。
ただ、酒グセがかなり悪くて
深酔いして母と喧嘩することも多々あった。
中学くらいになると更にエスカレートし、
手をあげるようになった。
母は顔や身体にアザをつくる事が日に日に増え、
私や妹も怯えて暮らす日々をおくる。

高校に上がり、思春期真っ最中の私は
ゴタゴタした家に帰るのが嫌で
お友達の家や彼氏の家にいる事が多くなり
家に寄り付かなくなった。

今まで私の全てだった母の存在もうっとおしく、
こんな家庭で育った自分も嫌だし
こんな家庭で育てた母を呪った。
母の人生全てを拒否していた。


そんな日々にも終わりがくる。

母はまたまた突然離婚を選び
また3人の暮らしが始まった。

私は母に振り回されてる人生が許せず
あまり顔を合わせない日々を送りながら高校を卒業して、就職して1人暮らしを始めた。


1人暮らしを始めてからは
更に顔をあわせる事が少なくなった。
自分の世界を広げて生きていくことの楽しさを知った以上、もう母の助けはいらないし
私の事はほっといて!どうぞご勝手に!って感じで寄り付かなかった。

そんな関係が何年か続き
いつの間にか母は最後の伴侶となる人と出会い、
多分これまでの人生の中で
一番落ち着いた幸せな時間を過ごすようになった。

いつの間に私も結婚して子供が産まれ
母とのわだかまりも少しずつ解れて
昔のように穏やかな気持ちで接する事ができるようになった。


母はとにかく孫を可愛がった。
本当に可愛がってくれて、色々助けてくれた。
母のその姿に小さな頃の自分を重ね合わせて
嬉しくなった。
私も妹もこんな風に愛情をたくさんうけて育ったんだって。
小さな子供を抱えて
女手一つで仕事をしながら育児する大変さ。
そうとう過酷でそうとう気力もいったろうに。
それでも、私も妹もお母さんが大好きだったのは
愛情をたくさんかけてくれたからだ。

酒乱の父と再婚したのも、
DVされても離婚しなかったのも
私と妹に不憫な思いをさせたくなかったからかもしれないと、今更ながら思う。


最後の伴侶、じじとは
(ここでは「じじ」と記する)
本当におだやかに、幸せに、楽しく日々を
過ごしていた母。
じじとは最後まで籍を入れなかった。
きっと入れたかったはずなのに。
「今更もう結婚とかいいよ」と言ってたけど
きっと私や妹に遠慮してたんだと思う。

母の全てを受けとめ、
母の心の傷を癒し、
私と妹の事も親族以上に色々してくれて
最後、母を看取るまでも献身的に介護してくれたじじ。

長女も次女も、本当の「じじ」と思ってるし
これから先も「じじ」だよ。



話が脱線してしまったけど、、、


8月5日
思えばこの日が
母の最後の手料理となった。

みんな大好きだった母の手料理。
出来そうで出来ない母の味。

もう一度食べたいよ、お母さん。
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2016-10-22 18:25:22

母の闘病を振り返る①

テーマ:母の闘病記録
2015年10月23日、私のお母さんが
61歳の人生に幕を閉じました。
明日でちょうど1年です。

1年経って少し心も前向きになってきたかな。

人間の優れた機能は「忘れる」という事らしい。
辛い事や悲しい事苦しかった事
忘れるから生きていかれる。
それは決して母の存在を忘れるという事ではなくて。
あの怒涛の日々や
あのなんとも言えない空虚な日々を
冷静に振り返る事ができるという事。

母との最後記録を残しておきたくて
長らく遠ざかってたブログに記してみる。



2015年6月の下旬
いつものように突然「暇してる〜?あそびにいっていい〜?」と連絡がきた。
私の住んでる最寄りの駅で待ち合わせをした。
いつも待ち合わせしてる珈琲屋のテラスで
私はいつものように母を待っていた。

いつものように笑顔で現れた母は
次女の名前を呼び満面の笑みで抱っこした。

「本当にいつも突然の連絡だね!」と
つっけんどんに言う私に母は
「お母さんね、癌なんだって」と言った。

「は?なに?」
「なんか癌があるんだって。肺に。」と繰り返した。

時が止まるって感覚。
あぁ、これが現実なのか夢なのかわからない。
無な感覚が私の中で流れる。

「でも大丈夫なんでしょ?」

その言葉が精一杯だった。

「多分ね」

母は少し微笑んでそう返した。


その日の事は正直あまり覚えてない。
いや、本当は覚えてるんだけど、
自分の中で時が止まったように思考が動かなくなったから。


母の病名は「肺腺癌」
日本人女性に多い癌らしい。


思返せば思い当たる事は色々あったんだ。
2014年から咳がしつこく出てた。
本人は病院に行って肺炎の診断を受けてて、
入院するほどではないから薬で治療してると家族に言っていた。
健康診断(市からくるやつ)もきちんと行ってるし問題ないって。
しょっちゅう熱もだしてたみたい。
私は後から知った事だけど。

そして痩せていった。
痩けるといったほうが正しいかな。
どちらかというと、完全な中年太り体型な母だったけど、その頃から食べても食べても痩せていくと言っていた。


でも、私はその時はまだ大丈夫って思ってた。
お母さんがすぐ死ぬわけないって。
絶対大丈夫だって。
まだ時間はあるって。
癌だって抗がん剤やればある程度延命できる時代だし、もしかしたら手術すれば治るかもだし!
肺1つくらいなくても生きていけるでしょ!って。

そんな気持ちでいたから
母が8月に入院するまでの約1ヶ月の間
私はあまり母に会わなかった。
会いたくなかった。
怖かったんだ。
母の顔を見るのが。

母は会いたがってたのに。
あゆちゃん、なぎちゃんに会いたいって言ってたのに。

妹は献身的に母の検査に付き合ってくれていた。
入院前にPETという癌の場所を調べる検査で
癌の場所や転移してるかの結果を知らされた。

母は首の後ろの骨と
脳に転移してる事がわかった。

骨に転移してるという事は
リンパに転移してるということ。

「手術不可能。
骨と脳に転移。
ステージ4の末期」

妹からのLINEに身体中の血が逆立った。
全身から気力が抜けた。



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