沈黙の価 | メメントCの世界

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演劇ユニット「メメントC」の活動・公演情報をお知らせしています。

 

沈黙の価   ・・・   嶽本 あゆ美

 

 随分と長い間、ブログを書かなくなっていました。

 常日頃はFBで日常を吐き出すせいか、かえって溜めこんでしまって毒になるようなものを処理しきれません。

 年末から桜木町の稽古場へ通った横浜夢座「風の吹く街」は、無事に終演。何よりも野毛の皆さんに喜んで頂いたことで報われたように思います。五大さんが拾い集めた声、無名の人の生活の声は、なかなかに手ごわく饒舌でした。多分、労働という身体があり、その積み重ねから生まれた言葉だからでしょう。私のような浮き草の根無し草には決して吐けない言葉をたくさん頂きありがとうございました。劇作家協会戯曲セミナーから12年たち、一周りたったからご褒美というか、斎藤憐さんの親友の福田氏との出会いも、天国からの便りのようにも思いました。

 私は決して憐さんの近くにもいませんでしたし、怒られてばかりでしたが、人一倍、怒られた自負はあります。そうやって、門前の小僧は習わぬ経を読んできました。井上ひさし氏に関しても、仙台戯曲賞の公開審査の席で散々、怒られ、私の思考の悪いところを教えられたのです。あの頃生まれたばかりの長男がもう中学に入学する今、12年目にやっと戯曲セミナーをきちんと卒業できたように思いました。

 「風の吹く街」に出演された俳優さんは、それはもうベテランで、新国劇、俳優座、文学座、東京乾電池、と異種格闘技でした。それぞれの引き出しから、いろんなものを出してくれて、大変だけれども大きな経験をさせてもらいました。五大さんは、あのような規模の大きな公演を、街を歩きながら人の声を聞くところからやっているのです。そりゃあ大変ですよ。

 

 今、春に共著で出す演劇に関するエッセイを書いています。どうやっても四季時代のことを書かないと、どうしてこんなおかしな劇作家になったのかを説明できないので、色々と思いだしています。やはり13年いた劇団で、浅利慶太氏に罵倒されまくった自分を、みっともないけれども曝します。なんたって、28歳ころの昔、MBSテレビの舞台稽古の収録では、私が滅茶苦茶に浅利氏に怒られているのがしっかりカメラに収まって放映されているわけです。何であんなに怒られたんだろう?と思うのですが、怒られやすい体質なんでしょう。

 でもいざ、自分が誰かに怒るかといったら面倒だから、怒るのはやめて自分でやります。それほど怒るってのは真剣で大変なことなんでしょう。こないだ、シアタートラムで、渡辺えりさんの芝居を観ました。昔、夢中になった女優さんが沢山出ていて、やはりそこで怒っているえりさんを思い出し、よく怒られたなあ~と懐かしくて涙が出ました。

 人生50年生きてわかったことは、夢中になればなるほど人は怒るということです。怒るというより、感情が発露するんですね。だからおばさんが怒っているように見える時は、怒ってるんじゃなくて、感情をアウトプットしているのです。ピカチュウが放電しているようなものです。放電しないと自爆してしまうのですよ。

 

 そうこうしていたら、「沈黙」が公開になりました。待ってました!

遠藤周作の原作も何度も読みました。キリシタンについては、堀田善衞の「海鳴りの底から」の感想を書いたと思うのですが、映画は流石のスコセッシでした。巨匠はすごいですな。

 あれをみた人で、その内、あーだこーだと議論したいと思っています。 

 

 映画を観ていて一番ハッとなったのは、ロドリゴたちが上陸し、出会った部落の長の家で、真っ黒な手で女にご飯を出された瞬間、モキチらの黒い手のクロス、そういうものでした。その汚さに動揺するリアクションが、ロドリゴらにあったと思うのですが、その時に沖野岩三郎が、高木顕明のことを書いた「彼の僧」を思いだしたのです。マカオから潜入したロドリゴらが目にした、隠れキリシタンの惨めさは半端ないです。芝居でもなんでも、汚く悪いものというものは、本当に技術と根性が要ります。貧しく虐げられ不潔な暮らしの中の、まばゆいばかりの信仰、神への渇仰、その尊さに圧倒されました。

 洋の東西を問わず、ほとんど全ての宗教で、最も下に居るものと共に生きよ、と宗祖は言います。顕明に本物の信仰が訪れた瞬間は、被差別部落の門徒が黒い手で差し出す飯を、嫌で食べられない自分を知った時でした。スコセッシ監督が何の遠慮もなく農民たちを徹底的に悲惨に描いてくれた御蔭で、同じ瞬間を見ることが出来たと感じ感謝しました。烏滸がましいですね。やはり巨匠は凄かった。

 

 遠藤よりも堀田の方が、キリシタンへの異常な拷問のディテールを文章にしています。映画で、殉教させられた宣教師に、柄杓で高温の温泉をぶっかけてますが、堀田の描写では、農民は、絶ち割られた背中に熱湯をぶっかけられました。それで、籠に入れられ温泉に漬けられます。また取り出し、冷ましてまた漬ける。すぐに死ねないようです。蓑にくるんで火を点けて「蓑踊り」をさせるのは、年貢の取立ての為にしていたのが、迫害にも使われたのです。ゆっくりと首を竹で曳き落として獄門にするやり方も、誰が考えたんでしょうね。

「なんのためにこんなに手間暇かけて、ちびちびと痛く殺させるのか?」訳が分かりません。それが絵になると滑稽でさえあります。私ならもう面倒なので、踏み絵を踏むか、全員皆殺しです。殺すことに目的がなく、棄教させようという熱意でそうなるんでしょうかね。

 

 「踏み絵」を踏み続けるキチジローに、原作を読んだ時よりも納得しました。転ぶ、というのが転向という言葉にも聞こえます。そして踏んで生を選ぶということは、悪ではないと一層、感じたからです。キチジローこそが、「具縛の凡愚(ぐばくのぼんぐ)」そのものです。「裏切る弱きものは地獄へ落ちるのではなく、それにさえも神は微笑むのだ」と悟ったロドリゴの信じているものと、彼がマニラで信じていたものは、同じだったのでしょうか?それとも井上筑後守が言う、「この国の土壌」でカトリックの信仰は腐ったのか? 

 アガペーという神の愛が何なのか、無神論者の私には届きませんが、天理教を開いた中山ミキが聞いた神の声が「落ちろ、貧に落ち切れ」だったことと併せて、ロドリゴの葛藤は宗教を横断する苦悩にみえました。大抵、神は立教の瞬間のみ沈黙を破って宗祖となる人間に話し掛けるようです。それがその人の内なる声なのか、神の声なのか、沈黙とはやはり己の心の沈黙なのかもしれないと、私には思えたのです。

 

 つくづく思うことで、踏み絵はキリシタンの取り締まりの中で生まれた「罠」ですが、この頃、踏み絵はたくさん仕掛けられています。自分を凡愚と悟れば、もはや堂々と踏んで生きていくしかないわたしです。

 映画で一番思ったのは、「みんな英語がうまいなあ!!ポルトガル語でやって欲しかった!でも、これアメリカの映画だから仕方ないよね」でした。映画が大ヒットして、日本中の人が暗~~くこの映画について喫茶店で語り会いますことを、心より願います。