タイトルは、私の過去ログ「男芸者二題」で紹介した古谷三敏の「寄席芸人伝」、別エピソード中の台詞である。
あらすじは・・・
二人の二つ目のうち、どちらを真打ちにするかが問題となっていた。
一人は噺(はなし)が上手くて才能があるが、問題児で嫌われ者。もう一人は病弱な師匠をリアカーに乗せて医者へ連れて行く孝行者で仲間に好かれている。しかし稽古の時間がなく、噺が上手いとは言えない。
孝行者の仲間は当然孝行者の方が昇進すると思っていたのだが、結果は違った。人格者だと評判のある一人の師匠が問題児の方を強く推したと分かり、彼らはその師匠に詰め寄ったのだ。
仲間たち「師匠、一体どうしてですか? あんな奴、噺は上手いかもしれないけど。人格者と言われる師匠のなされようとは思えません!」
師匠「するってぇと、なにかい? お前(めぇ)さんたちゃ、正直者だが家をまっすぐに建てられねぇ大工(でぇく)に家の普請(ふしん・建築のこと)を頼むのかい? 腕は藪(やぶ)だが立派な行いをしているからという理由で、その医者に自分の身を任せるのかい? 商売(しょうべぇ)ってのはそういうもんじゃねぇのかい?」
(めぐの記憶なので、原文のままではない)
そうなのだ。プロフェッショナルである以上、その仕事が出来るかどうかが先ず判断されなければならない。
なんだ、当たり前じゃないかと言われるかもしれない。でもプロについて「努力したからよかった」という評価がなされることが結構ある。
プロを、結果責任の側面から考えてみたい。
結果責任について通常言われるのは「政治は結果責任だ」という言い方である。で、これは法的責任じゃないから「法律的には賠償しなければならないとかの義務はないが、結果が出せなかった以上結果責任として辞任する」というような言い方をする。
めぐは政治家だけでなく、プロというのは広い意味での結果責任を負うものだと考えている。
「寄席芸人伝」では家をまっすぐに建てられない大工と藪医者に言及されていたが、別の例で考えてみよう。
最高の技術を持った手術医Aが自分の過失なく交通事故に遭遇し、突然手が痺れるという後遺症が残ったとする。他方同じだけの技術を持つ手術医Bは酒を飲みすぎて自分で転倒し、同じ後遺症が残ったとする。
手術医Aには手が突然痺れるという状態になったことについて全く法的責任はない。手術医Bは自業自得である。
しかし患者からすれば、A、B両医師は突然手が痺れる症状が出る以上自分の身を任せられない、という意味で同じなのだ。だからA,B両医師は手術はするべきでないし出来ない。
これがめぐの考える、プロとしての広い意味での結果責任だ。
今回の原発事故の影響で古米の相場が上がっている。古米は去年収穫されたものだから原発事故の影響を受けていないということで上がっているのである。
で、今後どうするべきかということについて、農業者のブログにお邪魔した。
そこでのめぐと彼らとのコメント上のやり取りは、この記事が考察している「プロとしての広い意味での結果責任」を論じてはいない。彼らの農業や放射能に関する知識は当然あたしを上回っているが・・・、という状態で「プロとしての結果責任」などという問題を論じる環境が整っていないのが実状であった。
指摘したいのは農業関係者が、①放射能汚染について農業者には責任がない②消費者と一緒に共通の敵である放射能と戦おう、という主張が当然だと考えていたことだ。
一見しただけでは立派な言い分に見えるが・・・。
めぐが言いたいことは分かって頂けただろうか?
農業者が食い物を提供するプロである以上、放射能汚染に関して農業者に責任があろうがなかろうが消費者には関係ないのである。AB両医師の突然の手の痺れの原因が、先生方にあろうがなかろうが関係ないのと同じだ。
仮にAB両先生に「3時間以内の手術なら痺れは出ませんから」といくら言われても患者は手術を受ける義務などない。
勿論心情的には同情に値する。それに原発事故はまだ終息しておらず、共闘する選択肢もあるのかもしれない。
しかし毎日の食事を食わなければならない消費者が、農業者と共闘しなければならない義務はない。一緒に放射能と戦おうと思う人はそうすればよいけれど、大抵の人にとって放射能の問題を深く勉強している時間などない。よく調べれば大丈夫かもしれないが、そう調べている時間もないから確実により安全だと思える食べ物を選んでもいいのである。
農業者及びその関係者らは、放射能汚染について農業者には責任がない、「放射能について無知だった」、「消費者は農業についての知識がない」、本当の敵は放射能だから共闘すべきだ、とお互いに言い合って満足している。彼らにはプロとして「汚染されていない食べ物を提供出来なくなった以上その結果責任を負わねばならない」という着想が全く欠けている。
そして「農業者」と「消費者」が対立してる、と主張して嘆く。
しかし別に対立してるわけじゃない。
患者が医師A(過失がないのに手が痺れるようになった医師)の手術を受けないからといって、「患者と医師A対立してる」などと評価する者はいない。
最後に話は異なるが、関連するので「風評被害」について述べておきたい。
意図的に虚偽の事実を流すことによって被害を生じさせるのは言語道断だが、消費者が自分でうわさやら思い込みやらで何かを買わないというのを「風評被害」と呼ぶのは一方的だ。
というのは、消費者はうわさや思い込みで商品を買う場合もあり、売れてる場合は「ウチの商品はそんな大したもんじゃありません」などと「真実」をアナウンスしない。
うわさや思い込みで売れてるときは口をつぐみ、うわさや思い込みで売れなくなると「風評被害だ」というのなら、それは単に金儲けの論理に過ぎない。