14日に投開票された衆院選で、「生活の党」の小沢一郎代表(72)が岩手4区で当選を確実にしました。
政界での求心力低下もあり、「これまでで最も苦しい選挙」と報じられる中、地元を精力的に歩く異例の選挙戦で自民前職の藤原崇氏(31)に競り勝ちました。1969年の初当選以来、衆院議員現役最多となる16選。日本政治の歴史とほぼそのまま重なる、小沢氏の政治家としての半生を振り返りました。
【写真】ニコニコ生放送で、得意の囲碁でコンピューターと対戦する小沢一郎氏
小沢氏は今回の衆院選で、党所属の衆院議員に「それぞれの政治生命をながらえることを考えてもらう。好きにしていい」と離党を認めた。自らは党首にとどまり、初めて比例代表に重複立候補。もし選挙区で落選しても、比例で復活当選できるようにしました。これまで選挙期間中にほとんど立ち寄らなかった地元に張り付き、ビールケースに乗って演説を重ねました。
93年に自民を離れ、新生、新進、自由、民主など各党を移ってきました。最近は支持者の高齢化も指摘されていました。一方、対抗馬の自民・藤原氏の元には、安倍晋三首相ら幹部が「重点選挙区」として次々と応援に入り、厳しい選挙戦でした。
小沢氏は1969年、衆議院議員だった父・佐重喜氏の急死に伴い、旧岩手2区の地盤を継いで自民党公認で初当選しました。
田中角栄元首相を「政治の父」と慕い、選挙のイロハや官僚の操縦術をそばで学びました。田中氏がロッキード事件で刑事被告人となった時には、裁判の全公判を傍聴したといいます。同期当選の橋本龍太郎、小渕恵三、渡部恒三の各氏ら、後に「竹下派七奉行」と呼ばれる有力政治家らと競い合いながら、後に首相になる竹下登氏の新派閥「創政会」に加わり、最大派閥を切り盛りしました。
89年には47歳の若さで幹事長に就任。公明党や民社党と連携しPKO協力法を成立させるなど、海部俊樹内閣を支えました。