賀儀城 | い~りんのなんとなくブログ

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カープとMAZDA,そしてちょっぴり園芸好きなおっさんが綴る,
全然おもしろくない日記です・・・。

今日は、所用のため竹原市は忠海に行くことになり、せっかくだからと『賀儀城跡』に行ってきました。




賀儀城は、浦宗勝が湾に張り出した岬に築いた水軍城で、別名は「鍵城」と言います。


「広島県中世城館遺跡総合調査報告書 第3集」には、


「公園造成と急傾斜地崩壊防止工事により、遺構はかなり破壊されている。現状からは三つの郭と帯郭が復元できる。山頂部の1郭は45m×20~30m程度の規模で、周囲に帯郭をもつ。東下の2郭の先端には土塁がわずかに残っている。さらに北下の園路はかつての堀切道と考えられる。この堀切の東にある3郭の北端は一段高くなっているので、櫓台か土塁があったと考えられる。」


と記してあります。現在は、公園として整備されているようです。




JR忠海駅から国道185号線を西に進み、踏切を渡ったところに賀儀城跡の案内板があります。



案内板に従い、直進します。



賀儀城跡の入り口が見えてきました。

右手に見える建物は旧忠海西小学校で、今年の9月から忠海東小学校と統合して廃校になっているそうです。


賀儀城跡に到着しました。


ここには、賀儀城跡の説明板と、その傍に「平賀先生」と刻まれた石碑が建てられています。




(賀儀城跡の説明板より)


「標高約20mの丘陵上にあり、沼田小早川氏の一族、浦宗勝の水軍城跡である。「四方なめら、山嶮にして高凡16間、山上は平地、上の段の広さ凡500坪、次の段の広さ凡160坪」(国郡志)に記される。本丸の下には帯曲輪を設け、2の丸にあたる曲輪の北端にわずかに土塁が残る。井戸もあったが現在は埋められている。今市や末友、鳥ヶ城などの地名も残っている。」




いざ、登城!

北から南に向かって進みます。



まずは左手に小さな平坦部があり、ここが3郭になります。



3郭にある水準点。


奥側から見た3郭。

1郭へ続く道と右手上に登る石段が見えます。


この石段は2郭に通じています。


1郭方面へ続く道を進みます。


少し行くと、またもや右手に石段があります。これも2郭に通じています。


これらの石段や道脇の石積等は、公園整備によるものでしょうか。



2郭には行かずに、まずは1郭に向かいます。

さらに進んだ先にあるこちらの石段を登ると1郭です。


1郭の手前には帯郭があります。


1郭を囲うように帯郭が設けられています。


さらに奥へと続いています。


少し幅が狭くなってきました。右上が1郭で左は断崖絶壁の海です。


先ほどの石段まで戻り、1郭に到着です。


1郭。規模は45m×20~30m。






1郭には、忠魂碑と「浦の名の花やほまれの古城跡」(竹原市忠海出身の俳人 阪田桃雨の句)と書かれた句碑が建てられています。


1郭からの眺望。大久野島が見えます。


西方面には床浦神社や石風呂が見えます。


そして、眼下には帯郭が。


1郭の西側から2郭へ続く道。

これも帯郭?


2郭の手前で1郭を振り返ります。かなり切り立った切岸状になっています。


1郭の周囲には、所々、写真のような石積が見られました。







こちらは2郭です。細長いです。





2郭の先端に残っている土塁。




土塁と土塁の間に切れ目があり、虎口のようです。


2郭から床浦神社のある西方面に続く道がありましたので、行ってみました。









振り返ると、立派な城郭のように見えます。


舗装された道路が見えてきました。これで賀儀城探訪は終わりです。



床浦神社。

元々、賀儀城があった山に建てられていたものが、本城築城の際、現在の場所に移されたそうです。






『賀儀城』
・所在地:広島県竹原市忠海床浦1丁目
・別名:鍵城

・現状:公園、荒地
・保存状況:一部壊
・立地:独立丘稜
・標高20m、比高20m
(「広島県中世城館遺跡総合調査報告書 第3集」より)