長い夜を越えて、


自分の人生をもっと強いものにしたいと思った。




なんとなく、食べて寝て。


なんとなく、働いて。


なんとなく、毎日を過ごす。




やりたいことはあるけど、漠然としていて。


どこか「他人任せ」で、


自分の人生に、自分で責任を持たなくても生きていける。




そんなつもりはなかったけど、


そういう生き方をしていたなぁって、省みる。






「自分の命の危機」に近い状態に陥って、




もう一度、会いたいと思う人がいた。






自ら手放して、失うことを決めたけど、


もう一度、


自らの手で、手繰り寄せる。






私の人生で、一番最初にこの言葉を贈った人。




May you always be happy!!






そんなダーリンのお話は、またの機会に・・・。

死にたいと言い続ける弟一号と、


彼の部屋で話をすることになった。






部屋は暗く、電気をつけないまま、


ろうそくの炎で明かりをとっていた。


テーブルの上には、


高々と缶ビールの空き缶が積まれ、


ゆらめく明かりに照らされて、影もゆれていた。




それは、すごく不気味だった。




部屋の片隅には、自殺用のロープが用意されていた。






自分が死んだら、「献体」に出してほしいと言う。




それは私ではなく、父に直接言って、お願いして。


と、「死ねない理由」を作る。






* * * * * *




実家に帰る前から、自殺についていろいろ調べた。




私のメールの一言で、


ついうっかり死んでしまった~!なんてことになったら、


私は自分を責めずにはいられないし、何よりつらい。




毎回、毎回、命を繋ぎとめるように、言葉を綴る。




自分の語彙のなさを、思い知らされ、


「何を言ったらいいのか」「何を伝えればいいのか」を調べた。




・死ぬことを否定してはいけない


・自分が話すことよりも、相手の話を聴くことに集中する


・「あなたが大切」を伝える




ほんの少しの知識と、彼の性格を知っていることを武器に、


長い長い、ほんとうに長い夜を迎える。




* * * * * *






一晩中、話した。




「脅し癖」があるので、理不尽な要求もあり、


首を絞められそうにもなる。




暗いことは、人の理性的な部分を閉じ込めてしまうのか。




何度も電話をしようと思ってはみるものの、


変な刺激を与えてしまうことを恐れて、


ただひたすら、夜が明けるのを待つ。




早く太陽が昇ってほしい。。。




あんなにも「明るくなること」を望んだことはない。




朝になり、部屋のインターホンが鳴った。












助かった。








本当にそう思った。






* * * * * *






今から思えば、ずいぶんと危険なことをしたと思う。




それでも、


なんとか生きてるから、いいとしよう。

彼が施設で過ごしたのは、

小学五年生から中学三年生までの五年間。


その生活の中で、

何があったのか、何が起きたのか、

私はまったく知らない。


両親は毎週、週末には車で二時間かけて、

施設の弟に会いに行った。


私は、家で留守番の係をした。


弟三号が死んでから、

祖父母の痴呆が進んだので、留守番が必要だった。

という、まっとうな理由もある。


だけど、


弟一号に会うのが、こわかったのだと、今なら思う。



弟一号は、

中学を卒業し、単位制の高校へ進学した。

自宅に帰ってきた弟一号は、「離れ」に自分の部屋を持つことになった。


高校では、環境にうまく適応できたのか、

「皆勤賞」という、偉業を成し遂げた。


もう、大丈夫。


そんな風に安易に考えていたけれど。。。





進学した美容の専門学校を、三日で辞めた。



その時も、弟一号は、私に電話で報告をしてきた。



* * * * * *



数年後、再び電話が鳴る。


「東京に行きたいんだけど」


一ヶ月の予定で、私の部屋に滞在することになった。



いざ、来てみれば、何もしないで寝ているだけ。



それは、実家でも、できるんじゃ・・・。


なんて、言葉が出そうになるけど、我慢、我慢。



一週間後、


「彼女が帰ってこいというから帰る。」という理由で帰宅することになった。


東京滞在の最終日。


初めて、弟三号の話をした。



家族の抱えていた問題、弟一号自身のこと、当時の私の気持ち、

言葉にしなければ伝わらない、大事な気持ち。


姉としての私と、弟としての彼。


その「役割」を超えて、

一人の人として、お互いの思うことを言葉にすること。



数日後、

辞めた美容学校へ復学することを、両親と決めた。

正直なところ、


私と弟一号の関係は、よくなかった。




私はそう思っているけれど、


彼は、いつでも私のことを頼りにしてくれていた。






小学生二年生の頃、ある日突然、学校に行くのを辞めた。




同じ学校に通っていながら、


彼に何があって、どういう理由で行かなくなったのか、


知らなかった。




その当時の私は、彼が苦手だった。




だから、学校へ行かなくても「無関心」でいた。




私は私のことをするのよ! 


と、思っていたのだと思う。




つまり、当時の「弟一号との記憶」がほとんどない。




彼が小学五年生の時、施設に入ることが決まった。








家庭内の環境は、お世辞にも良かったとは言えない。




“この人がこれこれこう、悪くて、みんな迷惑して大変だった”なんて、




そんな分かりやすい公式なんて存在しない。




父も、母も、祖父も、祖母も、私も、弟たちも、みんな精一杯だった。




そのすべてが、空回りして、うまくいかなかった。






毎晩のように繰り広げられる、「大人たちのけんか」を仲裁したこともある。




「包丁で刺すぞ」なんて、単なる口だけのけんかだということを、




どうして子どもが理解できるというのだろう。








そんなある日、




弟三号が、この世を去った。








彼は私たち家族にとって、“宝物”のような存在だった。


家族のだれもが、弟三号の前では笑っていた。




それは、弟一号にとっても同じだった。




施設で弟三号の訃報を、たった一人で聴いた彼は、


どんな気持ちになったのだろうか。






10年以上経った今でも、


「あいつが死んだのはおれのせいだ。」と言う。

「支配=愛情」




この考え方では、人が離れてしまう。




一時的には、


その「強さ」に惹かれあうこともあるかもしれない。




でも、いつか、その関係は破綻してしまう。




なぜなら、


人の本質に「人を支配すること」「人に支配されること」は、


刻まれていないのだから。








その後、弟一号は、


“支配する対象”を私に代えた。




「死にたい」と言えば、心配し、


「殺したい」と言えば、なだめてくれ、


「大嫌い」と言えば、落ち込み、


「大好き」と言えば、喜ぶ。




そんな私の反応を楽しむかのように、


いろんなことを話してくれた。








「彼女とよりを戻せないなら、死ぬ。」




「だから、彼女との関係を取り戻させてくれ。」








自分の命を盾に、彼女との付き合いを要求する。




そうやって、人を動かす。




それを、やめなさい。








そんなメールのやりとりを毎日続けた。






一方で、弟二号と病院の手配を進めた。




運よく、弟二号は心理学の大学院に行っていて、


相談できる窓口を持っていた。


なるべく近所で、「緊急入院」の対応をしてくれる病院を探した。




どんなに普通の生活を送っていても、


毎日「死にたい」というメールに返事をするのには、


いささか、疲れてしまっていた。




お盆を口実に実家に帰り、


病院へ通院する手はずを整えるつもりだった。