平将門のお墓 | 神社、お寺、城跡が好きなサルサDJのブログ

平将門のお墓

~前出の平将門公につきまして~


将門公は西暦939年に関東で朝廷に対して反乱を起こした武士でありますが、

翌年に朝廷の征伐軍により討ち取られてしまいます。

その後、京都でさらし首にされてしまうのですが、

そのさらし首が(おそらく旧臣の誰かが関東に持ち帰ったのでしょうが)

故郷の関東に向かって飛んで帰ってきて落ちた地と伝えられる、

将門公のお墓(首塚、将門塚)が、千代田区大手町のビジネス街のド真ん中(三井物産ビルの南東側)にあります。


~東京・神奈川★神社・お寺巡り~

鎌倉時代に、首塚の周辺で将門公の祟りと噂される災害が頻発して、近所の神田明神に将門公が祀られるようになったり、

関東大震災により首塚が倒壊後、跡地に大蔵省が建てられた際、大蔵省職員の相次ぐ不審死が起こり、将門公の祟りと恐れられ、現在地に首塚が再建立されたり、

戦後、アメリカ軍が区画整理にともなって首塚を取り壊そうとしたところ、工事関係者に事故が相次ぎ、アメリカ軍の取り壊し計画さえも中止になったり、等、

数々の祟り伝説が残る、都内屈指の霊地と言えます。


ちなみに、元々、古墳だったらしく、古くから畏敬の念を持たれていた地であるようです。


~東京・神奈川★神社・お寺巡り~

そもそも将門公は、平安時代中期の関東の武士で、関東における一族間の争いを勝ち抜いた有力豪族であったようです。

なぜ、朝廷に対して反乱を起こすに至ったかは未だに謎が多いのですが、

関東から朝廷の軍を追い出し、“新皇”と名乗り(京都の朝廷と別の天皇に即位し)、関東において朝廷から独立を果たそうとした、いわゆる“承平天慶の乱”は、日本史上重要な史実であります。

*ちなみに、将門公の血筋・平氏は桓武天皇の子孫にあたります。


関東をまたたく間に制覇した武勇、

および、朝廷の圧政・重税に虐げられていた関東の民衆を救ったという人間像により、

関東の武士・庶民の間では、祟りを恐れられると同時に、非常に人気の高い歴史人物であったようです。

徳川家康が関ヶ原の戦いに臨む際、将門公を祀る神田明神にて戦勝祈祷したり、

その神田明神を江戸城の鬼門除けとして遷座させたり(風水で縁起が悪いとされる北東の方角に強力な神社・寺を据えることにより災いを防ぐため)、

江戸時代までの武家政権において、相当崇敬されていたことがうかがえます。


しかし、明治時代になって天皇主権国家における将門公の立場は急変します。

それは次回、神田明神のご紹介の際にお伝えさせていただきます。


~東京・神奈川★神社・お寺巡り~

私は将門公について色々調べているうちに、すごく惹かれ、崇拝するようになり、

命日にあたる2月14日前後は、こちらの首塚に毎年必ずお参りするようにしています。