木下長嘯子~脱サラ武将 | blog.正雅堂

木下長嘯子~脱サラ武将

NHKの大河ドラマがちょうど関ヶ原前夜の話に来ている。


関ヶ原前夜というと、伏見城の攻防戦は避けて通れない話であるが、ほとんど語られていない一つの逸話をここに挙げてみようと思う。


 先日、京都を訪れた折、清水で木下長嘯子(ちょうしょうし)に因んだ「長嘯庵」というお茶室を見てきた。そこはかつて長嘯子こと木下勝俊が隠棲した地であったという。

これから述べる話はこの木下勝俊についてである。


 木下勝俊という武将は北政所(ねね)の甥で、弟には関ケ原合戦で有名な小早川秀秋がいる。勝俊という名前よりは、歴史の上では木下長嘯子のほうが知られているかもしれない。森忠政公の姉、於梅が勝俊の妻であったことから、森家とも縁のある人物だ。


北政所の兄、木下家定の長男(他説あり)として生まれた勝俊は、幼いころから秀吉に仕えて、若干19歳で播磨龍野城主となり、文禄3年(1594)には左近衛権少将、若狭国主にのぼり、小浜城主となった。左近衛権少将という地位は後に忠政公が美作一国を領したときの官位・左近衛中将に次ぐ位。それをわずか26歳で受けたのだから、大変な出世である。 勿論、豊臣秀吉の全盛期であった影響が大きいだろう。


だが、この出世街道も長くは続かなかった。


 秀吉の死後、徳川家の天下掌握を決した関ケ原の合戦の前夜、勝俊は家康の側近・鳥居元忠らと共に、伏見城の守備を命じられた。しかし、西軍として伏見城に攻めてきたのは小早川秀秋。勝俊の弟だった。そして合戦直前に伏見城を脱出。敵の大将が弟ならば、道中で見つかっても殺されはしないと考えたのだろう。そして勝俊が去ったあとの伏見城は無残なもので、鳥居元忠らの抵抗むなしく西軍の手に落ちてしまった。


 鳥居の死を悲しんだ家康は、その悲しみと同じくらいの恨みを勝俊に持った。そして関ヶ原戦勝後の論功行賞で、若狭小浜を召し上げて改易とし、彼に裏切り者の烙印を押したのである。死罪にならなかったのは高台院(秀吉の妻・ねね)の命乞いにほかならない。


弟の秀秋はその後の関ヶ原合戦で東軍に寝返りするも、戦後東軍の諸将らに裏切り者の陰口をたたかれた。こうして皮肉にもこの兄弟は共に裏切り者として語り継がれることになる。だが、兄弟で対峙・・・つまり小早川が攻めてくるとは家康も考えていなかったようであり、このあたりは石田三成の思考が働いたのかもしれない。

勝俊は伏見城を脱出する際に次のような歌を詠んだといわれる。


あらぬ世に 身はふりはてて 大空も
   袖よりくもる はつしくれかな


「あらぬ世」とは、亡き秀吉を指しているようにも思われ、「身はふりはてて」にも勝俊の絶望感を感じさせられる。


さて、勝俊に嫁いだ森家の於梅はどうしたか。


 家書の森家先代実録に寄れば、勝俊の敵前逃亡に怒り、離縁したとされる。於梅は父や蘭丸を筆頭に6人の兄弟を戦死させ、生きていたのは弟の忠政だけだった。夫の情けない行為に怒ったのも事実であろうが、天下人になる家康はこれを許さないだろう。そんな男の妻であり続けることは、弟・忠政の出世にも影響を受けかねない。


また、この時点では家康による論功行賞が行われていないので、今の時点で離縁をすればポイントアップにも繋がる。於梅の離縁は、そんな事情も考えられるのではないだろうか。そんな中で於梅は次のような歌を詠んでいる。


命やは うき名にかへて 何ならん
ま見えん為に おくる黒髪


これによると、於梅は髪を切って勝俊に送りつけ、会わない事を誓っているようだ。


 もはや武家として生きていくことができなくなった勝俊は、木下長嘯子と号して東山の霊山に篭り、人生のすべてを風雅の道に生きようとした。 古今伝授を細川幽斎に、茶を千利休や小堀遠州に学び、晩年には春日局との交流も持った。


 風雅人・長嘯子として生きた時代の評価は高く、著名な歌人として現代まで語り続けられている。長嘯子が著した「挙白集」は、後の松尾芭蕉に極めて強い影響を与え、芭蕉は長嘯子の墓前で次のような俳句を詠んだ。


長嘯の はかもめぐるか 鉢たたき


私が清水で観てきた長嘯庵は草庵形式といわれるお茶室で、利休が創造したスタイルに基づく茶室だった。彼はこのような雰囲気の中で、草木を友とする日々を過ごしたに違いない。

 もっとも、この茶室自体は近年作られたものであるが、今もこうして長嘯子の名が冠されているのも彼が文化人として今も愛され続けている証である。

 茶に因んで書くと、木下丸壷という中興名物の丸壷がある。土浦藩主・土屋政直が所持していたものが若狭藩主酒井家に渡り、江戸中期に酒井忠道が所持していたことまで確認されている名物であるが、これも名前の通り長嘯子が愛した茶道具だった。中興名物とは小堀遠州が選定した名物のことで、遠州と長嘯子の交流の中に生まれた名物と考えられる。現在も中興名物の代表的な茶入れとして知られている。


 寛永16年(1639)、長嘯子は東山を去って洛西小塩山のふもとの勝持寺に庵を結び、余生を過ごした。ここは新古今集などに多くの歌を残した鎌倉時代の歌人・西行法師ゆかりの寺であり、歌を愛する長嘯子が隠棲地として選んだ理由がわかる。 そして慶安2年(1649)6月5日京都で没した。享年81歳。法号は大成院殿。

尊敬する偉人ゆかりの地で過ごした晩年は、さぞかし幸せだったと思う。


 於梅についても、長嘯子と同じ京都に生き、長嘯子に先立つこと22年前の寛永4年(1627)3月15日に病で没した。こちらは寶泉院殿。大徳寺の三玄院に葬られ、その墓は弟・忠政の墓標(寛永11年卒)に向かい合うようにして今も眠っている。

於梅は離縁したのち、ただの一度も長嘯子と会うことはなかったという。


人には向き不向きがあるというが、長嘯子の生き様はその典型例であるといえよう。
長嘯子が生きた81年の人生は、信長や叔父の秀吉が生きた乱世に育ち、国主に上り詰めるも妻や家臣のすべてを捨てて風雅の道を選ぶという、波乱なものとなった。


だが、長嘯子が伏見城を脱出しなかったらどうだろう。 元々伏見城は捨て城の感があった。家康もそれを認識していたし、だからこそ秀吉の甥である長嘯子を伏見城の守りに置いたのである。 少なくとも、これで豊臣信奉者である西軍を抑える時間稼ぎになると考えたのだ。 ところが、三成の西軍が大将として差し向けたのは、同じく秀吉の甥で長嘯子の弟、小早川秀秋だった。 これに島津勢が付いたのである。三成はきっと、秀吉の甥兄弟を対峙させることで、伏見城を軟化させようとしたのではないだろうか。


 だが、こうなれば所詮は東軍の城。西軍の時間稼ぎはできなくなり、落城は時間の問題となり、だからこそ長嘯子は生きる道を選んで逃げた。

 もしこのまま伏見城に留まていれば、木下勝俊として30歳そこそこの生涯を終え、芭蕉をも感服させた歌人・長嘯子としての活躍もなかったことになる。


 また、元和元年(1615)には幕府によってその罪を許され、弟・木下利房に足守藩を与えられて木下家は再興した。これを考えれば鳥居元忠には気の毒なれど、長嘯子の伏見城の脱出は正しかったことになる。


そして、長嘯子が生涯を閉じた慶安2年は、信長も秀吉も、家康もいない平和な時代であった。全国の諸侯は徳川家に臣従し、将軍家光をはじめ、戦乱を知らない世代が政治の舞台に立った。


・・・・この時代、現在の日本とどこか似てはしないだろうか。