さきほどまで納め先の産直スーパーの忘年会に参加していました。

そこで近くに座っていた花農家との会話が印象に残りました。


 まず水耕栽培の野菜について。最近は農薬も肥料もいらないクリーンなイメージで水耕栽培の野菜がしばしば話題になります。今はなにがあるでしょうか。トマトにホウレン草、小松菜、ロメインレタス、ベビーリーフ・・・・そんなところでしょうか。私はてっきりランニングコストがかかって割に合わない栽培かと思ったら、その花農家さんはこうおっしゃりました。


「最初の設備費がバカ高いけどさ、一度設備が整えばあとは楽なんだよ。収穫も早いしね。だから野菜だって安く売れるんだ」


 私は驚きました。ならばこれからは野菜は土はいらなくなり、建物の中で野菜を作った方が効率が良いのでしょうか。しかしです。ここからの発言が驚きました。


「でもさ。水耕栽培の野菜って味が乗らないんだよ。ん?なぜかって?だって何のストレスもかかってないじゃないか


・・・・・・・・・・!!


・・・・そうでした。なぜそこに気がつかなかったのでしょう。私だってもやしをそう作っていたのに。人間でも同じでしょう。多少負荷がかかったほうが生命力が働きます。


・・・・・・・・・・・・・


 もう一つ。実はあることでその農家と議論になってしまいました。


「有機JAS規格」


についてです。私は以前、ここのブログで有機JAS規格でも「天然に存在する無機肥料や30種類の農薬の使用が認められている」ことに対して、違和感を抱いたことがあります。私はそのあいまいな規格について話したら、その方は実は有機JAS規格を信じている人でしたので、逆に攻め立てられてしまいました。


「有機JASについて調べたことがある、といってもどのくらい知っているんだ?認められているのは天然のものだからいいんだよ。お宅はどうなんだ?」


「もやしは水だけでつくるので大丈夫だとは思いますが」


「その水は安全なのか?」


「年に一度は検査してますが・・・」


「毎日検査してないんだな?じゃあいつ地下水に重金属が混ざるか分からないじゃないか」


「・・・・・」


「有機JASを信じるしかないんだよ。これが信じられなきゃ何も信じられなくなるんだよ」


・・・・・・・・・


 さて、皆様はどう感じられますか?水まで信じられないとなれば、もちろんこの方の持論にも綻びがでます。但し私もこの農家の方も根の部分では一緒です。


「なにが安全なのかは誰もわからない」


ということです。そこでこの方は一つのよりどころとして


「有機JAS規格」を偶像として信じ、


私は


「もちろん安全とは断定できないが、なるべく余計な手を加えずに自然に任せたほうが人にとって良いのではないか」との考え・・


・・・そのどちらに自分の命を委ねるか・・・・それしかないのだと思うのです。


 誰もが自らの正義に則って行動をしています。その正義は人を潤すと同時に、人に被害を及ぼすこともあるでしょう。これは誰もが背負っている宿命です。逃れることはできません。では何を信じたらよいのでしょうか?最終的には


 「自分が責任を持って正しいと思ったことが正しい」


と信じるしかないのかもしれません。自分で責任が持つことが大事です。もちろん人間も野菜と同じに成長し味も変化しますので、成長の都度、正義の定義も変化して当然です。


 おそらく同じ作物をつくっていても、話せば話すほど互いの正義がぶつかることは当然なのでしょう。それが人として当たり前であること・・・・大いに気付かされました。だからと言って「本音を言わないほうが良い」ということではありませんが。


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